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関羽は強すぎたから荊州を失った——大きな失敗は大きな才覚から生まれる

関羽は荊州を失いました。
呉への警戒を怠り、孫権を侮辱し、後方の糜芳や士仁との関係を悪化させた。結果として呂蒙に背後を突かれ、軍は崩壊し、自身も捕らえられて命を落とした。

結果だけを見れば、分かりやすい失敗です。

関羽は勇猛ではあっても、将帥としては未熟だった。
外交を理解できず、自らの強さを過信し、守るべき荊州まで失った。
そのように評価されることも少なくありません。

しかし、本当に関羽は弱かったから荊州を失ったのでしょうか。
戦いの経過を順番に追っていくと、むしろ逆の姿が見えてきます。

関羽は弱かったから失敗したのではありません。

あまりにも強すぎたために、関羽を取り巻く国際情勢そのものを変えてしまった。
魏と呉という二つの国家に、「今ここで関羽を止めなければならない」と決断させてしまった。
関羽の荊州失陥とは、大きな無能が起こした失敗ではなく、大きな才覚を持つ者だけが起こせる失敗だったのかもしれません。

消えた曹仁の「諸軍」

建安二十四年、西暦二一九年。
関羽は北上し、樊城の曹仁を攻撃しました。

曹仁はこの直前、宛で反乱を起こした侯音を討っています。『三国志』曹仁伝には、曹仁が「諸軍」を率いて侯音を破り、樊城へ戻って征南将軍になったとあります。
つまり曹仁は、最初から数千人だけで城を守っていた地方の守将ではありません。

荊州北部を担当し、複数の部隊を統率する方面軍司令官でした。ところが関羽による包囲が本格化した時点で、曹仁の手元に残っていたのは「人馬数千」と記されています。
関羽は船で城へ迫り、幾重にも包囲し、樊城の内外を遮断しました。

では、侯音を討った曹仁の「諸軍」はどこへ消えたのでしょうか。
侯音との戦いで壊滅的な損害を受けたのでしょうか。
関羽が迫っているにもかかわらず、方面軍司令官である曹仁が兵を各地に分散し、数千人しか集められなかったのでしょうか。

それとも、『三国志』が詳しく記録しなかった洪水以前の戦闘で、関羽に敗れて樊城へ押し込まれたのでしょうか。
史料は途中の戦闘経過を詳しく語りません。
しかし、侯音討伐時には「諸軍」を率いていた曹仁が、関羽包囲時には数千人で城内にいる。この両端だけは残っています。

曹仁が名将だったとするなら、兵力を理由もなく分散し、敵主力の目前で落城寸前になったとは考えにくい。
もっとも自然なのは、関羽との戦闘によって曹仁の方面軍が野戦能力を失い、残存兵が樊城へ追い込まれたという見方でしょう。

曹仁を名将と評価するほど、その曹仁を数千人になるまで追い込んだ関羽の評価も上がるのです。

洪水が于禁を倒したのか

曹仁を救援するため、曹操は于禁に七軍を与えて派遣しました。
于禁は一度の戦功だけで取り立てられた将ではありません。
長く曹操軍の中核を務めてきた歴戦の将です。
その于禁が率いる七軍が増援として必要になった時点で、関羽の攻勢が魏にとって軽微なものではなかったことが分かります。

そこへ大雨が降り、漢水が氾濫しました。
于禁の七軍は水に呑まれ、于禁は降伏し、龐徳は捕らえられて斬られました。
関羽が得た捕虜は数万規模に及んだと記録されています。

このため、関羽の勝利はしばしば「洪水による偶然」と説明されます。

確かに洪水は偶然です。
関羽が雨を降らせたわけではありません。

しかし、洪水は魏軍だけに降ったのでしょうか。
関羽は樊城を守る防衛側ではありません。
遠征して敵地を攻めている側です。大雨と洪水は、関羽軍の陣地、道路、補給線にも影響を与えたはずです。
通常なら、攻撃側である関羽のほうが撤退を余儀なくされても不思議ではありません。

ところが、実際に軍として機能しなくなったのは于禁軍でした。
関羽軍は船を動かし、孤立した于禁軍を包囲し、数万規模の兵を降伏させ、その後も曹仁への攻勢を続けています。

洪水が戦場の条件を変えたことは確かです。
しかし、その新しい条件へ適応できたのは関羽でした。
運が勝敗に影響したことと、勝利者に能力がなかったことは同じではありません。

偶然によって生じた一瞬の機会を、敵の方面軍一つを消滅させる戦果へ変える。それは運ではなく、指揮、統率、準備、そして判断の能力です。
洪水だけで于禁が壊滅したのなら、曹仁の状況は改善してもよかったはずです。

しかし実際には、于禁軍が消滅したあと、曹仁はさらに追い込まれています。
洪水が関羽を勝たせたというより、洪水後も関羽だけが軍隊として動き続けたと見るべきでしょう。

関羽は一つの城を攻めていたのではない

于禁を降したことで、関羽の威名は急速に高まりました。
梁、郟、陸渾などの勢力が関羽から印号を受け、その配下として呼応します。『三国志』はこの状況を「威震華夏」と表現しました。

曹操の陣営では、関羽の鋭鋒を避けるため、許都を移す案まで議論されます。司馬懿と蔣済は、関羽が勝利することを孫権も望まないはずだと読み、呉に関羽の背後を攻撃させる策を提案しました。

ここで起きていたのは、樊城という一つの城をめぐる局地戦ではありません。
曹仁の方面軍が押し込まれ、于禁の七軍が消滅し、魏国内の勢力が関羽へ呼応し、曹操の本拠地移転まで議論される。
関羽の攻勢は、魏の南方戦線全体を崩壊させかけていました。

しかも同じ年、劉備は漢中を確保しています。
関羽が襄陽・樊城を奪い、劉備が漢中から関中方面へ圧力をかける状況になれば、魏は東西二方面への対応を迫られます。
魏が直ちに滅亡したとまでは言えません。

しかし、劉備政権が天下の勢力均衡を変える現実的な可能性を持ち始めていたことは確かでしょう。

そして、この変化を最も恐れたのは魏だけではありませんでした。

孫権は領土欲に流されたのか

関羽が魏を攻めているあいだ、呉は表面的には劉備側と同盟関係にありました。
そのため孫権の荊州攻略は、しばしば目先の領土欲に流された裏切りとして説明されます。

しかし孫権は、関羽を殺して荊州を奪えば、劉備が報復に来ることを想像できなかったのでしょうか。
その程度のことは、現代の一般人でも考えます。

まして孫権は、曹操、劉備、周瑜、魯粛、呂蒙らと長年にわたって天下を争ってきた当事者です。劉備の怒りも、対魏共同戦線が崩れる危険も、魏が漁夫の利を得る可能性も、当然考えたはずです。

それでも孫権は動きました。
なぜでしょうか。

関羽が襄陽と樊城を落とし、曹操を遷都へ追い込み、勝利者として荊州へ帰還した未来を考えてみましょう。

そのとき呉が荊州を奪おうとすれば、今度は魏の軍勢が正面から関羽を拘束してくれません。
魏の名将と数万の軍を破り、威名を天下に轟かせた関羽と、呉が単独で戦うことになります。
兵力だけの問題ではありません。

武威は、それ自体が軍事力になります。

魏を屈服させた関羽が荊州へ戻ったあと、孫権から「関羽を攻めよ」と命じられた呉の兵士は、どのように感じるでしょうか。
戦う前から逃亡者が出るかもしれません。
国境の城将は、関羽が来る前に降伏を考えるかもしれません。
荊州の豪族は、次の勝者が誰かを見極め、劉備側へ傾くかもしれません。
関羽がもう一勝すれば、関羽の名そのものが敵軍を崩す段階へ入る可能性がありました。
孫権から見れば、関羽は今倒しておかなければ、二度と倒せない相手になりつつあったのです。

今しか関羽を倒せない

二一九年の状況は、呉にとって異常なほど条件が揃っていました。

関羽の主力は北へ出ている。
魏は曹仁や徐晃らを投入して、正面から関羽を拘束している。
関羽は呂蒙の病を信じ、荊州後方の守備兵を徐々に前線へ移している。
公安の士仁と江陵の糜芳は、関羽との関係が悪化している。
呂蒙は病を装う策を提案し、陸遜は関羽を油断させる書簡を送りました。
関羽が後方兵力を減らしたことを確認すると、呉軍は商人に変装して進み、関羽の監視所を制圧します。士仁と糜芳は降伏し、呂蒙は関羽軍の家族を厚遇することで、帰還する関羽軍の戦意まで解体しました。

しかも呂蒙の病は、完全な虚偽ではありません。
呂蒙はもともと病を抱えており、荊州攻略後には病状が悪化し、孫権が内殿へ迎えて治療させたものの、ほどなく四十二歳で亡くなっています。

孫権から見れば、
関羽本隊が北にいる。
魏が関羽を正面から止めている。
呂蒙がまだ動ける。
陸遜も育っている。
荊州内部の切り崩しも可能である。
これほど条件が揃う機会は、二度と来ないかもしれません。

孫権が天秤にかけたのは、
関羽を殺したあと、劉備の報復を受ける未来。
そして、
襄樊を制圧して帰還した関羽と、将来呉が単独で戦う未来。
この二つだったのでしょう。

孫権は報復のない未来を選んだのではありません。
関羽のいない劉備と戦う未来のほうが、勝利した関羽と戦う未来よりもまだ勝算があると判断したのです。

実際、その後劉備は東征します。
しかし呉は荊州を確保した状態で蜀軍を迎え撃ち、夷陵でこれを破りました。

孫権は報復を考えていなかったのではなく、報復戦の条件まで先に選んだのです。

婚姻を受ければ解決したのか

関羽と孫権の関係では、婚姻問題もよく語られます。
孫権は自分の息子と関羽の娘との婚姻を求めました。
関羽は使者を罵倒し、婚姻を拒否したため、孫権は激怒したと記録されています。

関羽の対応は、外交としては明らかにまずいものでした。
孫権の面子を潰す必要はありません。

「娘の婚姻は私個人では決められない。漢中王の判断を仰ぐ」

と返せばよかったでしょう。
大人になって、ぐっとこらえるべき場面でした。

しかし、関羽が婚姻を簡単に受けられたかというと、それも疑問です。
関羽は独立君主ではありません。
劉備から荊州を預けられた臣下です。
その関羽が劉備の許可を得ず、隣国の君主である孫権と直接姻戚関係を結べば、劉備から見れば、荊州を握る方面軍司令官が独自の外交関係を築いたことになります。
外形上は、半独立勢力へ近づきかねません。

つまり関羽が呉にとって脅威でなくなるためには、荊州を呉へ渡すか、軍事的に弱くなるか、劉備への忠誠を薄めて孫権と独自に結ぶ必要がありました。

どれも劉備の臣としては受け入れにくい選択です。
関羽が劉備へ忠実であり、荊州を保持し、魏を崩せるほど強いかぎり、関羽は孫権にとって危険な存在であり続けます。
関羽の無礼は状況を悪化させました。
しかし、関羽が丁重に返事をしただけで、この構造的対立が消えたとは考えにくいでしょう。

もっと弱ければ、良将で終われた

関羽がもう少し弱かったら、どうなっていたでしょうか。
曹仁を多少攻める。
魏軍へ一定の損害を与える。
于禁と対峙する。
戦況が悪くなれば、適当なところで兵を退く。
その程度の攻勢で終わっていれば、孫権も魏と協調してまで関羽を消す必要はなかったかもしれません。
関羽は荊州を守る良将として生き残り、その後も劉備を支えた可能性があります。

しかし、関羽は弱くありませんでした。
方面軍司令官の曹仁を数千人で籠城するまで追い込みました。
歴戦の于禁が率いる七軍を消滅させました。
洪水の中でも攻勢を維持しました。
魏国内の勢力を呼応させました。
曹操に遷都を議論させました。

そして孫権に、今ここで関羽を倒さなければ、将来は自分たちが倒されるかもしれないと考えさせました。
関羽は弱かったから魏と呉に敗れたのではありません。
強すぎたために、魏と呉の利害を一致させてしまったのです。

弱い関羽なら、魏の地方問題で終わります。
強い関羽は、魏と呉の共通の安全保障問題になります。
関羽が起こした最大の失敗は、荊州の守備兵を減らしたことだけではありません。

魏の一方面を破壊するほど勝利し、従来の国際関係では自分を処理できないところまで、戦場を動かしてしまったことでした。

小さな能力しか持たない人間は、小さな失敗しか起こせません。

周囲の国々に戦略を変更させ、敵同士を協調させ、天下の勢力均衡そのものを変える失敗は、世界を動かせる人間にしか起こせません。

関羽がもう少し弱ければ、荊州を失わずに済んだかもしれない。
もっと弱ければ、関羽は優秀な良将として、その生涯を終えられたかもしれない。

しかし関羽は、良将で終わるには強すぎました。

大きな失敗は、常に大きな無能から生まれるわけではありません。
ときにそれは、大きな才覚を持つ者だけが到達できる、失敗なのです。


補遺——曹仁の「諸軍」はどこで消えたのか

曹仁が率いていた「諸軍」は、どこへ消えたのでしょうか。

『三国志』曹仁伝によれば、侯音が宛で反乱を起こしたとき、曹仁は「諸軍」を率いてこれを破り、侯音を斬って樊城へ帰還しました。その直後、曹仁は正式に征南将軍へ任命されています。

ところが関羽による樊城攻撃が本格化した時点で、曹仁の手元に残っていたのは「人馬数千」でした。複数の部隊を率いて宛を攻略した方面軍司令官が、なぜ数千人だけで落城寸前の城に籠もっていたのでしょうか。

もちろん、史料は曹仁の諸軍が関羽との戦闘で失われたとは明記していません。では、野戦以外の可能性を考えてみましょう。

まず、曹仁が最初から数千人程度しか率いていなかった可能性です。

しかし、その場合、魏の荊州方面を鎮守し、假節を帯び、「諸軍」を率いて侯音を討った征南将軍の総兵力が、もともと数千人しかなかったことになります。

しかも曹操は、曹仁を救援するために于禁の七軍を追加で派遣しています。
既存の方面軍より、後から来る援軍のほうがはるかに大きかったことになり、曹仁は方面軍司令官というより樊城の小規模な守備隊長に近くなってしまいます。

次に、曹仁は相当な兵力を持っていたものの、それを各地へ分散させていた可能性です。

これも曹仁にとって好意的な説明ではありません。
曹仁は荊州戦線に十年近く関わり、この時点では樊城に駐屯して荊州方面を鎮守していました。
その曹仁が、関羽の攻勢を前に兵を集中できず、各部隊を分断されたまま、本人だけが数千人とともに城へ封じ込められたことになります。

名将でも、強敵との正面戦闘に敗れることはあります。

しかし、自分が長く担当してきた戦域で敵の進出を許し、相当な兵力を持ちながら有効に集結させられず、各部隊を救援にも包囲解除にも使えない状態にされたとすれば、それは会戦の敗北以上に、方面軍司令官としての作戦上の失敗でしょう。

侯音討伐によって曹仁軍が消耗していた可能性もあります。

だとすれば曹仁は、地方反乱を討つために方面軍を大きく損耗させ、関羽との決戦を前に軍を立て直せなかったことになります。
侯音は数千人を集めたとはいえ、魏の征南将軍が諸軍を率いて鎮圧する相手です。
そこで樊城を守れないほど消耗していたなら、これも曹仁の名誉を守る説明にはなりません。

では、洪水によって曹仁の諸軍が失われたのでしょうか。
曹仁は洪水の起こる前に龐徳に兵を預けています。
龐徳に大多数の兵を預け、それが洪水で壊滅した。

それならば、同じ洪水の中で、現地の城郭、道路、後方拠点を利用できる防衛側の責任者である曹仁が軍を保てず、敵地へ北上してきた遠征側の関羽だけが軍隊としての機能を維持したことになります。

関羽軍は洪水後も崩壊していません。
船団を運用して于禁軍を包囲し、数万規模の捕虜を収容し、さらに樊城への包囲を続けています。

結局、野戦以外の説明を採用すると、曹仁は最初から数千人しか動員できなかったか、敵を前に兵を集中できなかったか、地方反乱で軍を消耗したか、長く担当した戦域で遠征軍以上に洪水への対応を誤ったことになります。

どれも、歴戦の名将である曹仁にとって目も当てられない説明です。

むしろ曹仁の名誉を最も守るのは、十分な兵力を率いて関羽を迎撃したものの、洪水以前の戦闘で敗れ、次第に樊城へ押し込まれたという見方でしょう。

名将曹仁は無意味に兵を失ったのではない。

関羽と戦い、敗れたのです。

龐徳伝が記録する洪水以前の野戦

そして、洪水以前に曹仁軍と関羽軍の野戦が行われていたことは、単なる推測ではありません。

『三国志』龐徳伝には、その順序が明確に記されています。

侯音と衛開が宛で反乱すると、龐徳は自らの部隊を率い、曹仁とともに宛を攻略しました。侯音らを斬ったあと、龐徳はそのまま南下して樊城へ駐屯し、関羽を討ちます。

その後、龐徳は自ら関羽と交戦し、関羽の額に矢を命中させました。
龐徳は常に白馬へ乗っていたため、関羽軍から「白馬将軍」と呼ばれ、恐れられたと記されています。

さらに曹仁は、龐徳を樊城の北十里に駐屯させます。

そして、そのあとに十日余りの長雨が降り、漢水が氾濫しました。

記述の順序は明白です。

侯音討伐。
樊城への南下。
関羽との交戦。
関羽の額を射る。
樊城北方への配置。
長雨と洪水。

龐徳が関羽と野戦を行ったのは、洪水が発生する前です。

しかも龐徳は、于禁の七軍に同行して樊城へ来た将ではありません。
侯音討伐の時点から曹仁と行動し、自らの部隊を率いて樊へ南下した、既存の曹仁軍側の将です。

武帝紀によれば、曹仁が侯音を斬ったのは建安二十四年正月です。曹操が于禁を曹仁の救援へ派遣したのは同年七月、漢水が氾濫したのは八月でした。

つまり、正月に曹仁と龐徳が宛から樊へ戻ってから、七月に于禁の七軍が救援として送られるまで、およそ半年あります。

龐徳伝に記された関羽との野戦は、この期間に行われたと考えるのが自然です。

史料は、この半年間に行われた戦闘の全容を詳しく記していません。

しかし、戦闘そのものがなかったわけではありません。
龐徳は実際に関羽と交戦し、関羽を射ています。
それほどの戦いを経たのち、曹仁軍だけでは関羽を止められず、七軍もの増援が必要になりました。

最も自然な流れはこうでしょう。

侯音を討った曹仁と龐徳が樊城へ帰還する。
関羽との野戦が始まる。
曹仁軍は半年ほどの戦闘によって次第に削られ、樊城へ押し込まれる。
曹操は既存の兵力だけでは持たないと判断し、于禁の七軍を追加投入する。
そして、その増援軍が洪水後の戦場で関羽に包囲され、消滅する。

洪水は、関羽の勝利の始点ではありません。

関羽は洪水が起こる前から、曹仁と龐徳の軍勢を相手に戦い、魏に七軍の追加投入を決断させるところまで追い込んでいました。
洪水が起きると、その変化した戦場へ適応し、今度は投入された七軍まで消滅させたのです。

曹仁の「諸軍」がどこで失われたのか、史料は直接語りません。

しかし龐徳伝は、洪水以前に野戦があったことを記録しています。
侯音討伐から于禁派遣までには、半年の時間があります。そしてその両端には、「諸軍」を率いて帰還した曹仁と、「人馬数千」で籠城する曹仁がいます。

この間に、曹仁軍が関羽との戦闘によって段階的に削られていった。

それが、曹仁の能力を不当に貶めることなく、残された史料を最も自然につなぐ解釈でしょう。


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