弱さを認めることと、弱さを使うこと。
「自分の弱さを認められる人は強い」という言葉をよく耳にする。
けれど、「弱さを認めること」と「弱さを使うこと」には、まったく異なるものが根底に流れているように思う。
一言でいえば、自分の人生を引き受ける責任とも言えるのかもしれない。
かつて私は、長らく精神的な不調を抱えていたことがある。少しずつ寛解に向かってはいたけれど、それでもつい弱さを使ってしまう場面があった。たとえば、「〇〇だからできなかった」「〇〇のせいでしんどい」というように、傷ついている自分や可哀想な立場を強調してしまう。
一見、単なる弱音のように見えるけれど、ただ吐き出して終わりではなかった。実のところ、私は夫からの肯定の言葉を強く求めていたのだ。夫からすれば、「知らんがな」でもある。
夫は容赦のない人だったので、私の欲しい言葉をくれなかった。それは冷淡さからくるものではなく、私の依存心を見抜いていたからなのかもしれない。
険悪な雰囲気が漂うと、私は決まって謝罪をした。すると、夫は「何に対して謝っているの?」と聞いた。責めているというより、率直な疑問だった。
当時の私は、「なぜ謝っているのか」という問いに答えることができなかった。それよりも、「波風を立てずに収束させたい」「関係の緊張に耐えられない」という思いが先行していたからだ。
しかし、夫にとっては、そのチグハグな姿勢こそに違和感があったのだと思う。
実際、私は心の奥底に「納得のいかなさ」を燻らせていて、あとになって未練がましく蒸し返そうとしたり、ムスッと黙り込んでしまうところがあったのだ。
ここで、「自分の弱さを認められる人」という話に戻したい。
先ほどのエピソードを振り返ってみると、私は一見「弱さを認めた」ようにも見える。けれど、そうではなかった。むしろ私は、自分の弱さを前面に出すことで、相手に自分の責任を引き受けてもらうことを、どこかで望んでいたのではないだろうか。
それは別の視点から見れば、関係性の対等さから遠ざかることでもあった。
そう考えてみると、「弱さを認めること」と「弱さを使うこと」の違いが、はっきりと浮かび上がってくる。
前者が、自他への誠実さから生まれる選択であるのに対して、後者には、自分の身を相手に預けたいという切望と、「関係への無意識の支配」があるように思う。
また、私は自分の「弱さ」「至らなさ」について語るとき、どこか声が大きくなる自分に気づいたことがあった。「こんな私をさらに責めるというの?」と言わんばかりに。弱さが武器にもなっていたのだと気づいたとき、私は初めて、自分の中に潜んでいた一種の尊大さと向き合うことになった。
現代は、あからさまな攻撃性よりも、「被害者ポジション」や「被害者ムーブ」と呼ばれるような受動的な攻撃性が蔓延っているようにも思う。それは自分の弱さを認めることではなく、自分の弱さを使うことなのだと思う。
また、男女間でもそれぞれの癖やパターンがあるように思う。女性が弱さを使うときというのは、先ほども書いたように、「傷ついた」「わかってもらえなかった」という被害者ポジションを取る方向に向かいやすい。
一方で、男性が弱さを使うときは、弱さがそのまま見えるのではなく、怒りや正論、あるいは無力感へと変換されやすいように思う。「なんでそんなこともわからないんだ」「お前が悪い」といった言葉として現れることもある。けれど、根っこは同じなのだと思う。
だからこそ、こう問い直したい。
私は、自分の弱さを引き受けようとしているだろうか、と。
本当の意味で自分の弱さを認めるというのは、自分の弱さの裏にある防衛や攻撃性をも見つめる勇気や誠実さなのかもしれない。
