「亡くなったとき、ちょっとホッとしたんです」|認知症が家族に残したもの|家族の介護|心の重さ|人生の現実|人生観|心の記録|
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
今日は少し重たい話を書こうと思います。
私は以前、認知症の家族を抱えていた方から話を聞いたことがありました。
その方は、お父さんの認知症について語ってくれました。
本当に大変だったそうです。
名前を呼んでも反応がない。
自分の顔も分からない。
時には大声を出すこともある。
認知症という病気は、単に記憶を失わせるだけではありません。
それまで築いてきた家族の関係そのものに、
深い楔を打ち込みます。
なぜ自分の顔を覚えてくれないのだろう。
その言葉を聞いたとき、私は胸が詰まりました。
その方は、お父さんを本当に大切に思っていました。
お父さんを一番愛していたのは、
間違いなくその息子さん本人だったと思います。
だからこそ、その後に続いた言葉は重かった。
「亡くなったとき、ちょっとホッとしたんです」
その言葉には、言い訳も飾りもありませんでした。
ただ静かに、そう言ったのです。
親には生きていてほしい。
感謝もある。
愛情もある。
それでも、認知症という病は現実を変えてしまう。
介護をする人の心と体を、少しずつ削っていく。
だからこそ、
「ちょっとホッとした」
という言葉は、非難できるものではなく、
むしろ極限まで耐えた人だけが口にできる言葉なのかもしれません。
そこには罪悪感も含まれていたと思います。
それでも、その言葉はとても正直でした。
HSPの私は、その言葉を聞いたあともしばらく頭から離れませんでした。「ホッとした」という言葉の中に、 愛情と疲れと罪悪感が同時に存在していることが分かったからです。 人の気持ちは、こんなにも単純ではないのだと、改めて感じました。
私はその話を聞いたとき、こう思いました。
人は、
うまくいっている時だけ幸せなのではないのかもしれない。
むしろ、
苦しみが終わった瞬間に訪れる静けさの中に、
言葉にしにくい安堵があるのかもしれない。
それは喜びとは少し違う。
しかし確かに、
人を救う感覚です。
うまくいかなかった日。
苦しかった時間。
終わってほしいと思っていた日々。
そういうものが終わったとき、
人は初めて気づくのかもしれません。
あの瞬間、自分は解放されていたのだと。
もしかすると人生には、
うまくいかなかった時の中にこそ、
一番静かな幸せが隠れているのかもしれません。
