人の振り見て我が振り直せ —— 英作文で気づいた「方法論」の落とし穴|HSP|学習の悩み|英作文|
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
高校のころ、私はやたらと参考書を読むタイプの受験生だった。
中でも印象に残っているのが、英作文の本に書いてあったある指針だ。
「和文をそのまま英語に翻訳しようとするな。
似た情報量を持つ英文を作れ」
つまり、日本語を一語ずつ移すのではなく、
既知の定型表現に置き換えろという方法論だ。
当時の私は、これを読んで「なるほど」と思う一方で、
どこかに小さな違和感を覚えていた。
ニュアンスは、どこまで運ぶべきか
たとえば日本語の助動詞や言い回しには、微妙な温度差がある。
カジュアルなのか、フォーマルなのか。
「AというB」の「という」は、どこまで再現すべきなのか。
参考書は「意味が伝わればいい」と言う。
しかし私は考え込んだ。
伝えるべきなのは情報なのか、文体なのか?
採点基準は受験生には見えない。
大学側がどこまで求めているかは分からない。
だから私たちは、参考書の体裁から
「期待されている英語像」を読み取るしかない。
ここにすでに、不確かな前提がある。
正しさは、時間とともに揺れる
さらに面白いのは、語法そのものが変わることだ。
たとえば but。
2000年頃の辞書には「文頭に置かない」と書かれていた。
ところが最新版では、その制限は消えている。
つまり、
「正しい英語」は固定されていない。
それなのに、私たちは方法論を
まるで絶対ルールのように扱ってしまう。
書きやすさと自然さは別物
和文英訳では、自分の“手持ちカード”で書ける形に意訳する。
これは実用的なテクニックだ。
しかし、
日本語として自然=英語として自然
とは限らない。
ここで問題になるのは、
慣用という見えない領域だ。
実際、『英作文参考書の誤りを正す』では、
多くの参考書が批判的に検討されている。
方法論は便利だが、万能ではない。
人の振り見て、我が振りを考える
当時の私は気づいた。
方法論は「思考停止の免罪符」ではない。
他人のやり方を見ることは大切だ。
だが、それを丸ごと正解として採用すると、
自分の問いが消えてしまう。
英作文の違和感は、
そのまま生き方の違和感に通じている。
私たちは常に、
何を伝えたいのか
どこまで再現したいのか
その基準は誰のものか
を考え続けるしかない。
結局のところ、
人の振り見て我が振り直せとは、
方法論を疑う勇気のことなのだと思う。
