「数学の教えられ方に傷を負った人」
皆さん、こんにちは。
HSP×アンチ東大主義の、@おはようございますです。
2000年ごろ、僕の高校時代、多くの人が触れる参考書の一つに、研文書院の『大学への数学』、通称「黒大数」がありました。この本では、順列について次のように説明されています。
「n個の異なるものからr個を取り出して、それを1列に並べるとき、その1つ1つの並べ方(または並べたもの)を、n個からr個とる 順列 という。」
これは標準的な説明で、問題集や授業でもよく見かける形です。数字の並び方に注目して、計算のルールを覚える──典型的な高校数学の方法ですね。
実は、順列を写像で定義することだってできるんです!
順列とは?
「順列」とは、集合 $${X}$$ の元を $${r}$$ 個、重複なく、位置(順序)を区別して選ぶことである。
つまり、順番を考える場合は、選んだ要素の順序を区別します。
写像の集合として表す
まず、集合 $${X = \{1,2,\dots,n\}}$$ とします(ラベル付け済み)。
順列を写像として定義するには、集合$${R=\{1,2,\dots,r\}}$$ から $${X}$$ への単射(injective function)として捉えます。
定義:
$${P(n,r) = \{ f : R\to X \mid f \text{ は単射} \}}$$
ここで単射とは、異なる$${i,j \in \{1,2,\dots,r\}}$$に対して$${f(i) \neq f(j)}$$という性質を持つ写像です。
解説
$${R=\{1,2,\dots,r\}}$$の1番目には何を置くか、2番目には何を置くか…という形で考えると、まさに順列の定義に対応しています。
元の公式 $${∣P(n,r)∣= n(n-1)(n-2)\dots(n-r+1) }$$は、単射の個数を数えることと同値です。
全単射の場合($${r=n}$$)
$${r=n}$$ のとき
単射 = 全単射
対称群 $${S_n}$$ が現れる
ここで
群論
置換
行列表示
につながるのだ。
例: 順列
$${X = \{a,b,c\}}$$, $${r=2}$$ の場合
単射 $${f: \{1,2\} \to X}$$の例:
$${f(1)=a, f(2)=b \quad \text{(順列 (a,b))}}$$
$${f(1)=b, f(2)=a \quad \text{(順列 (b,a))}}$$
順列=単射という見方がもたらす、数学的な深み
順列を
「n個のものからr個取り出して並べる」
と説明するのは、直感的ではあるけれど、数学としてはかなり情緒的な言い方です。
「並べる」とは何か、「取り出す」とは何かが、厳密には定義されていない。つまり文脈のフレームが暗黙知としてある。教育上、日常体験を基盤に、違和感なく定義はされている。
ここで集合と写像の言葉を使うと、この定義の強さは、余計な言葉が一切ないところにあります。
「1番目・2番目・…」という順序は、集合 $${R=\{1,2,\dots,r\}}$$が担う
「同じものを使わない」という条件は、単射が保証する
「並び」という曖昧な感覚は、写像として形式化される
つまり順列とは、「操作」や「手順」ではなく、
ある種の写像の集合なのです。
この視点に立つと、
順列の公式は「覚えるもの」ではなく、
単射の選び方の総数を数えているだけ
だと分かります。
ここまで来ると、順列はもはや「計算の話」ではなく、
集合・写像・構造の話になっています。
それでも、この見方は学校ではほとんど出てこない
ここで、どうしても疑問が残ります。
なぜ、このような見方を
高校数学ではほとんど教えないのか。
当時の教育では、
集合は「集合と論理」、
写像は「関数の言いかえ」、
順列は「場合の数」
として、完全に分断されていました。
その結果、
順列と写像がつながるとは思わない
集合は図を描くための道具だと思って終わる
数学は「単元ごとに完結するもの」だと刷り込まれる
でも実際には、
数学は単元同士が内部で深く結びついている体系です。
順列を突き詰めれば写像に行き着き、
写像を突き詰めれば代数学や幾何に行き着く。
この「つながり」を感じ取る経験こそが、
本来の学びの醍醐味ではないでしょうか。
大学に行っても、この問いは回収されなかった
さらに違和感が残るのは、大学に進学してもこの問いが回収されなかったことです。
大学では大学の数学が始まり、
「なぜ高校数学ではこの教え方だったのか」
「どこが狭く、どこが仮の理解だったのか」
を振り返る時間は、ほとんど与えられません。
つまり、
高校 → 公式を使えるようにする場所
大学 → いきなり抽象論に飛ぶ場所
になってしまっている。
でも本当は、
高校数学を、より高い視点から読み直す教育
があってもいいはずです。
順列を単射として捉え直す、
その一歩だけでも、
数学の見え方は決定的に変わります。
これは「できる・できない」の話ではない
ここで強調したいのは、
これは「できる生徒/できない生徒」の話ではない、ということです。
公式を速く使えるか
試験で点が取れるか
とは別の次元で、
数学をどういう構造として受け取っているか
という問題です。ここに私のアンチ東大主義のスパイスを加えるなら、定義を読んで「モヤっと」する方がスジがいいのではないか、ということなのです。もちろん写像を構成しているという理屈に到達しなくても、自分の日常感覚と照らし合わせて、「異なる?」「並べる?」って何だろう?と立ち止まることに価値があると思うんです。
順列を「並べる操作」としか見ないまま進むのか、
「写像の集合」として捉え直せるのか。
この差は、学力差ではなく、
教育が与えた視野の差だと思います。
