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わたしのおにぎりが大きい理由

「あら、あなた!それずいぶん大きいじゃない!」
 おにぎりのことだ。社会人一年目のお昼休み、お腹ぺこぺこで今まさに頬張ろうとしたその瞬間、向かいの席の母のような先輩が、笑いながらつっこみをいれた。いつも作っていたお弁当が今日の朝は寝坊して間に合わず、あわてて握っていったおにぎり。しらすふりかけをまぶし、のりで包んだおにぎり。「そんなわけないぞ。これ、いつも通りだもの。」腑に落ちない顔をしたのか、さらに笑われる。
 今の夫にはじめて握ったときもそうだった。「これじゃあ2つぶんだよ。」

 両親が共働きだったから、小学生くらいまで、おやつや学校のある土曜日のお昼ごはんは、祖母が作ってくれていた。かぼちゃプリン、上新粉から丸めて作ったお団子、ポップアップトースターから飛び出した熱々の食パンに、めいめい具をのせるサンドウィッチ。記憶に残っているものはたくさんあれど、定番かつわたしの大好きなメニューが、焼きおにぎりだった。瓶詰の鮭フレークかちりめん山椒がはいったおにぎりを、鉄フライパンでこんがり焼いてお醤油を垂らしたもの。保育園や小学校から帰ってきては、ぱくぱく食べた。おにぎりとは、ごはんのためだけのものでなく、ちょっとしたおやつでもある、という食いしんぼうな概念がここでできあがる。
 祖母の手の動きを見ながら、型を使わず綺麗な三角に握る方法も身につけた。あつあつのお米を、ラップを敷いた片手にこんもり盛って、ほっほっとにぎる。きっとこの、こんもり、の感覚が大人になっても修正されていないのだろう。わたしの手が大きくなるにつれ、盛られるお米の量だってたっぷりになった。

 ただでさえ規格外になった大きさ感覚に拍車をかけたのが、父のおにぎりだった。
 父は、たいへんに米が好きである。新潟の兼業農家出身の母に、「俺は米と結婚したんだもの。」という冗談を、ぼそぼそとよく言っていた。
 みんながぼんやりと家にいる日曜日のお昼、父はいそいそと米を4合炊き、炊きあがったお米にお醤油を垂らしおかかを混ぜ込んで、おおきいおおきいおにぎりを6つ7つ握って、テーブルの上にどどんと並べた。わたしは、湯気のあがるそれを、なんの違和感もなくむしゃむしゃと食べた。おにぎりは大きくあるものだ。大きく、お腹いっぱいになってこそ、おにぎりだ。気づいたらその大きさがわたしの中で標準となっていた。なんとおそろしい。

 大人になって、お店に並んでふわふわのおにぎりも食べた。上品に手先におさまって、ほろほろほどけるようなおにぎりは、炊き立ての湯気まで食べているようで、とてもおいしかった。
 名古屋で食べた天むすにはまり、家でよく作っていた時期もある。夫があげた小さな海老天にふさわしい量のお米をあわせ握って海苔を巻く。小ぶりなおにぎりは、並べると整列しているようで可愛く、ひと口でおいしいところの核心に届くので、贅沢な気持ちになる。
 
 それでもわたしは、両手でもって、はぐっとかぶりつく、ぎゅむぎゅむの大きいおにぎりが、好きで好きでしょうがない。登山に行く朝はたいていおにぎりをこしらえる。毎回「大きいよ!」と苦笑されるのに、お昼にはお腹が空くだろうからと思っていると、どうしたって小ぶりとはいえない子たちができあがる。
 
 でもいいのだ。この重量をもってこそ、わたしはおにぎりで、「お腹いっぱい」という幸せを味わえるのだ。


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