〈連続小説〉愛してほしかっただけ 第13話
第13話 澪の料理
ショッピングモールから帰ってきた頃には、夕日が家の壁を淡い橙色に染めていた。
玄関のドアが開く音と同時に、澪は小さく「ただいま……」とつぶやく。
遥は靴を脱ぐ澪の隣にしゃがみ、ほどよく距離を取りながら優しく声をかける。
「おかえり、澪。今日はいっぱい歩いたね。疲れてない?」
その声が、ふわっと胸の奥まで染み込んでいく。
澪は自分でも驚くほど自然に、ほんの少しだけ口元を緩めた。
奏太も後ろからバッグを受け取りながら「荷物、多かったのに頑張ったじゃん」と穏やかに笑う。
家の中に流れ込むこの“日常のあたたかさ”が、澪の心を静かにほぐしていった。
廊下を抜けると、リビングの空気はほんのりあたたかくて、お店とは違う安心感に満ちている。
「……なんかさ、ここ帰ってきたって感じがする……」
澪がぽつりと漏らすと、遥は驚いたように目を瞬き、そしてゆっくり微笑んだ。
「そう言ってくれるの、すごく嬉しいよ」
その笑顔を見た瞬間、澪は胸の奥に“ぎゅっ”と何かが満ちてくるのを感じた。
恐怖でも義務でもなく、ただ“この人たちなら大丈夫だ”と、少しだけ思えた。
キッチンの電気をつけると、白い光が食材たちを穏やかに照らした。
澪は静かに息を吸い込み、バッグから買ってきたエプロンを取り出した。
「……つけても、いい?」
遥が優しく微笑む。
「もちろん。澪のキッチンだよ、今日は」
その言葉が胸にじんと響き、澪はエプロンの紐を後ろにまわす。
けれど、指先が少し震えて、うまく結べない。
「……あの、ちょっと……」
言いかけたところで、遥がそっと近づき、澪の手から紐を受け取った。
「後ろ向いて。結んであげる」
その声はやわらかくて、子どもを扱うような過度な優しさじゃなく、“尊重して包む”優しさだった。
ぎゅっとではなく、ふわっと、でもほどけないように結ばれた紐の感触が、澪の背中に“守られている”輪郭を描く。
「ありがとう……」
その言葉が自然に口から出たことに、澪自身が驚いた。
切る音、流れる水、温度──全部が“生きている”証拠みたいだった。
野菜を洗う水の音が、静かなキッチンに心地よく響く。
澪はゆっくり包丁を握り、トントンとまな板の上でリズムを刻む。
最初は手がこわばっていたけれど、遥と奏太が近くにいる安心感が、少しずつその緊張を溶かしていく。
「澪、包丁の角度すごくきれいだね」
奏太の落ち着いた声が背中に届く。
澪はほんの少し照れながら、俯いて小さく答える。
「……いつも一人でやってたから……慣れてるだけ」
その言葉の裏にある“本当の意味”を、遥はちゃんと受け取った。
そして答える代わりに、そっと近づいて野菜をボウルに集めるのを手伝う。
口を挟まない優しさ。
必要なところだけそっと添える支え。
その距離感は、澪の中で“理想の大人”の形に近かった。
鍋に具材が入り、コトコトと優しい音が広がる頃。
澪はスプーンで小さくすくい、そっと味見をした。
「……ちょっと薄いかも」
「あ、じゃあ一緒に調整しよっか」
遥が横に並び、塩の瓶を指差す。
「澪、好きな味でいいよ」
“好きな味でいい”
その言葉は、澪にとって本当はとても遠い言葉だった。
いつも“怒られない味”“文句を言われない味”を作ってきたから。
だからこそ、遥の言葉が胸の中心にゆっくり染みていく。
「……じゃあ……少しだけ、足してみる」
スプーンを落とさないように慎重に混ぜ、再び味見する。
今度は、ほんのわずかに唇が上がった。
「どう?」
奏太がのぞき込む。
「……うん。これ、わたし、好き……」
遥の顔がぱっと明るくなる。
「それだね。澪の“おいしい”が一番だよ」
澪の胸がきゅっと締めつけられ、でも苦しくない。
あたたかくて、優しくて、泣きそうで。
そんな未熟な安心が、スープの湯気に混ざってふわりと広がった。
盛り付けが終わる頃、奏太がエプロンのポケットにそっとタオルを差し込む。
「火傷しないように、ね」
澪は思わず笑った。
さっきまでぎこちなかった顔が、自然と崩れる。
「……二人とも、ありがとう。助かった」
遥はトントンと澪の肩を軽く叩く。
「澪がやりたいって言ってくれただけで十分嬉しいよ」
子どものころ、誰かにこう言ってもらえたらどんなに良かっただろう。
そんな思いが胸をかすめたけれど、今は痛みよりも温度が勝った。
「……今日、作れてよかった」
その言葉は、澪が自分の人生に初めて灯した“小さな火”だった。
テーブルには、澪が作った料理がふわりと湯気を立てて並んでいた。
温かい匂いが部屋いっぱいに広がって、どこか“家の匂い”みたいに感じられる。
澪はおそるおそる手を膝に置き、背筋を硬くしたまま座っていた。
「自分が作ったものを誰かに食べてもらう」
それは、澪の人生ではいつも“怒られる可能性のある行為”だった。
反応を待つ時間が、なにより怖い。
遥が箸をとり、ゆっくりとひと口。
奏太も続く。
その瞬間、澪の呼吸は小さく止まった。
沈黙。
だが、その沈黙は責める気配ではなく、優しい余韻を探すような静けさだった。
そして――。
「……っ、これ……すごくおいしい」
最初に声をこぼしたのは遥だった。
驚いたように目を丸くし、それからふわりと笑う。
「澪、味付け、すごく上手。やさしい味だね」
次いで、奏太が大きく頷いた。
「うん、本当においしい。これ、毎日でも食べたいくらいだよ」
澪の喉がひくりと震えた。
“怒られなかった”
“否定されなかった”
その事実だけで胸が熱くなる。
でも、二人の言葉はそこにとどまらなかった。
「澪が作ってくれた料理を食べられるって、嬉しいな」
「うん。こうやって三人で食卓囲むの、いいね」
――嬉しい。
――三人。
――いいね。
そのどれもが、澪の“ありえない”を更新していく。
「……っ」
込み上げてくるものが抑えきれず、視界がじわりと滲む。
唇を噛もうとしたけど、もう無理だった。
ぽた、と。
涙がひとつ、手の甲に落ちた。
「えっ、澪……?」
遥が椅子を引いて近づく。
「ごめ……ごめんなさい……」
澪は慌てて顔を隠す。
「泣くつもりじゃ、なかったの……でも……」
声が震えて喉につまる。
遥はそっと澪の肩を抱いた。
力ではなく、存在で包むような抱きしめ方。
「泣いていいよ。嬉しい涙なら、なおさら」
その声があまりにも優しくて、
堰が切れたように、澪の涙が次々こぼれ落ちた。
「……“おいしい”って……言われたこと……なくて……っ」
途切れ途切れに絞り出す澪。
「いつも、“味が薄い”“下手”“やり直し”って……叱られて……
全部……“ダメ”だったの……」
遥の手がぎゅっと澪の背中を撫でる。
奏太は反対側から、皿の音を立てないように静かに寄り添った。
「澪の作ったご飯、ほんとにおいしいよ」
「澪の“好きな味”が、一番なんだよ」
“否定されるための料理”じゃない。
“喜んでもらうための料理”でもない。
“自分の味を好きでいてくれる人がいる”という奇跡。
それが、澪の胸にあたたかく灯る。
数分後、澪は涙の止まりかけた目元を指でぬぐい、
かすかに笑った。
泣き顔のままの、でも確かに“自分の意思で”浮かべた、小さな笑みだった。
「……食べてくれて、ありがとう」
その一言は、
藤宮家という新しい世界に足を踏み入れた澪の、
“最初の一歩”だった。
