太平記 現代語訳 14-11 御醍醐天皇、延暦寺を拠点とし、首都奪還を目指す
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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坂本(さかもと:滋賀県・大津市)に到着した後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、大宮(おおみや)社の彼岸所(ひがんしょ:注1)に入った。しかし、頼みの延暦寺(えんりゃくじ:滋賀県・大津市)からはいまだに一人も、天皇のもとに馳せ参じてくる者がいない。
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(訳者注1)仏事の際の、僧の控え所。
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後醍醐天皇 (内心)延暦寺のもん(者)らも、足利側に傾いてしまいよったんかぁ・・・あー、いったい、どないしたらえぇんやぁ!(苦悩に沈む)
そこへ、藤本房英憲(ふじもとぼうえいけん)僧都(そうず)がやってきた。
英憲は、何も言わずに涙を流し、縁の所にかしこまっている。それを見た後醍醐天皇は、御簾の中から、
後醍醐天皇 名はなんという?
英憲 はい、藤本房の僧都、名前は英憲であります。
後醍醐天皇 ・・・。
英憲 ・・・。
後醍醐天皇 硯(すずり)ないか?
英憲 ははっ、ただいま!
英憲は、すぐに硯を取り寄せて、天皇の前に置いた。
後醍醐天皇は自筆で、願書をしたためた。
後醍醐天皇 この願書をな、大宮の神殿に奉納せい。
英憲 ははっ!
英憲は、かしこまって願書を受け取り、日吉社右方権禰宜(ひえしゃみぎのかたごんのねぎ)の行親(ゆきちか)に命じて、奉納させた。
その後、円住院(えんじゅういん)の定宗(じょうしゅう)法印(ほういん)が、同宿の者500余人を率いて、天皇のもとにやってきた。
天皇は大喜びで、定宗を縁の所まで招いた。
天皇の前に跪いて、定宗は、
定宗 桓武天皇(かんむてんのう)の御治世の時、伝教大師(でんぎょうだいし)が、わが比叡山・延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を開基、皇室鎮護(こうしつちんご)の伽藍(がらん)を山中に建立されてよりこのかた、朝廷に何か喜ばしい事があった時には、延暦寺一山を挙げて合掌して喜び、比叡山に愁いある日には、朝廷の方々はすべて我々の事を心配してくださる、というような事で、今日まで参りました。
後醍醐天皇 うん。
定宗 宗教と政治は、ともに重要なものでありまして、国家にとっては車の両輪とも言うべきもの、それは誰もが知っていることです。
定宗 逆臣が朝廷を危機に陥れようとしている今この時に、もったいなくも万乗の聖主であられます陛下が、わが比叡山をお頼みあって御臨幸下さった、という事を、軽く考えるような衆徒は、一人もいないでしょう。
定宗 不肖(ふしょう)定宗、陛下への忠誠を、ここにお誓い申し上げました。かくなる上は、比叡山3,000人の衆徒中、陛下に対して二心(ふたごころ)を持つものは皆無と、どうぞ、お考え下さいませ!
後醍醐天皇 うん!(深くうなずく)。
定宗 陛下に付き添ってこちらに来られた皆様も、きっと、窮屈な思いをしておられるでしょうね。まずは、それぞれのお方らの宿所を、決めるといたしましょうか。
このようにして、定宗の命により、21か所の彼岸所の他、坂本、戸津(とつ:滋賀県・大津市)、比叡辻(ひえいつじ:滋賀県・大津市)のあたりの坊や家に札を打って、天皇に従ってやってきたメンバーらの宿所とした。
その後、南岸坊(なんがんぼう:滋賀県・大津市)の僧都・道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)が、同宿の者1,000余人を率いて、天皇のもとにやってきた。
祐覚は、十禅師(じゅうぜんじ)に登って衆徒を集め、今後のことを検討し、その議決を、延暦寺の各所へ伝えた。その結果、甲冑を帯した衆徒多数が、天皇のもとに馳せ参じてきた。
まずは兵糧が必要、ということで、銭6万貫、米7千石を、波止土濃(はしどの)川の前に積み、祐覚がこれを各軍勢に配分した。
「医王(いおう:注2)も山王(さんおう:注3)も、まだまだ我らを見捨ててはおられないぞ!」
敗戦続きで落ち込む一方であった朝廷軍の士気は、これを契機に一気に回復した。
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(訳者注2)根元中堂(こんぽんちゅうどう)に安置されている、薬師如来(やくしにょらい)。
(訳者注3)比叡山の守護神である日吉山王権現(ひえさんのうごんげん)。
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