太平記 現代語訳 12-2 後醍醐天皇、大内裏の再建を目指す
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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翌、建武元年(1334)1月12日、公卿会議より、次のような提言が、御醍醐天皇に対してなされた。
「帝王の業というものは、極めてタイソウなものであり、執行されねばならぬ行政の数は膨大、よって、多くの役所とふんだんな役職ポストを用意しておく必要があります。」
「しかるに、これまでの御所の規模はといえば、わずか4町四方の広さしかありませんでした。儀礼をきちんと整えながら政治を行うには、これでは、あまりにも狭すぎる、ということで、四方へ1町ずつ拡張して、現在の規模となりました。」
「しかし、これとても、昔の御所より狭いのです。この際、大内裏(だいだいり)を新築すべきでありましょう。」
ということで、「まずは、その工事の経費をまかなうための経済的基盤が必要だ」ということになり、安芸国(あきこく:広島県西部)と周防国(すおうこく:山口県南部)が、それに充てられることになった。さらに、日本国中の地頭と御家人に対して、「所領からの収入の20分の1を、朝廷に上納すべし」との命令が下された。
そもそもこの大内裏とは、古代中国・秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の都、咸陽宮(かんようきゅう)の中の一殿を模して作られたものである。
南北36町、東西20町の広さであり、その周囲には歩道の石を敷き、四方に12個の門が設置されていた。その門の名前はといえば、
東側には、陽明(ようめい)、待賢(たいけん)、郁芳(ゆうほう)。
南側には、美福(びふく)、朱雀(すざく)、皇嘉(こうか)。
西側には、談天(だんてん)、藻壁(そうへき)、殷富(いんふ)。
北側には、安嘉(あんか)、偉鑒(いかん)、達智(たっち)。
その他に、上東(じょうとう)と上西(じょうさい)の2門。
これらのすべての門を、守備兵が警護の体制を整えて常に堅め、非常事態に備えていた。
36個の後宮(こうきゅう)には、淑女多数が美しく装い、72の前殿(ぜんでん)には、文武百官が天皇の命令を待つ。
紫宸殿(ししんでん)の東西には、清涼殿(せいりょうでん)と温明殿(うんめいでん)、北方には常寧殿(じょうねいでん)と貞観殿(じょうかんでん)。貞観殿は、后町(きさきまち)との別称を持つ常寧殿の北側にあり、そこで、朝廷の衣服が製造されていた。
校書殿(きょうしょでん)という名前の建物が清涼殿の南にあり、ここで、天皇が弓術を観覧された。
昭陽舎(しょうようしゃ)とは梨壷(なしつぼ:注1)、淑景舎(しげいしゃ)とは桐壷(きりつぼ)、飛香舎(ひきょうしゃ)とは藤壷(ふじつぼ)、凝花舎(ぎょうかしゃ)とは梅坪(うめつぼ)、襲芳舎(しゅうほうしゃ)とは雷鳴坪(かみなりのつぼ:注2)の事である。
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(訳者注1)「壷」は、建物に囲まれた庭のことである。
(訳者注2):雷鳴なり響く時、天皇はここに移動した。
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萩戸(はぎと:注3)、陣座(じんのざ:注4)、瀧口戸(たきぐちのと:注5)、鳥曹司(とりのそうし:注6)、縫殿(ぬいどの:注7)。
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(訳者注3):清涼殿の一室。障子に萩の絵が描かれていた。
(訳者注4):公卿たちがこの室に集まって、神事、任官などの公の儀式を行った。
(訳者注5):清涼殿の一角にあり、警護担当の者らがここにつめた。
(訳者注6):ここには鷹がつながれていた。
(訳者注7):裁縫関連を担当する所。
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兵衛府(ひょうえふ)の左陣には宣陽門(せんようもん)、右陣には陰明門(いんめいもん)。
大極殿(だいごくでん)、小安殿(こあどの)、蒼龍楼(そうりゅうろう)、白虎楼(びゃっころう)、豊楽院(ぶらくいん)、清署堂(せいしょどう)。五節の宴会と大嘗会(だいじょうえ)はここで行われる。
中和院(ちゅうかいん)は中の院、内教坊(ないきょうぼう)は雅楽をおこなう場所。御修法様(みしほ)は真言院(しんごんいん)、神今食(じんごんじき)は神嘉殿(しんかでん)。騎馬射撃、競馬を、天皇は、武徳殿(ぶとくでん)にてご覧になる。
朝堂院(ちょうどういん)とは、八省の建物のことである。
右近(うこん)の陣の橘(たちばな)は、古をしのばす香りを留め、御階(みはし)に繁る竹の茂みは、幾世の霜を重ねてきた事であろうか。
かの在原業平(ありわらのなりひら)が、「弓と矢入れを身に添えて、雷鳴が騒ぐ夜通し、戸締まりのきかない場所に居た」というのは、太政官(だじょうかん)役所の八神を祭る宮殿を指している。
光源氏(ひかるげんじ)が、「これ以上のものはなし」と詠じつつ、朧月夜(おぼろづきよ)に思いを馳せながら歩いたのは、弘徽殿(こきでん)の細殿。
古の世に、大江朝綱が北陸地方へ赴く時に、旅の別れを悲しんで、「後の再開は期し難く、鴻臚(こうろ)の暁の涙に冠の紐を潤す」と、出立に際して記した建物は、羅城門(らじょうもん)の南の鴻臚館(こうろかん)の名残である。
鬼の間、直廬(ちょくろ)、鈴の縄(すずのつな)。
清涼殿には、「荒海の障子」が立てられ、紫宸殿には、「賢聖の障子」が立てたれていた。その「賢聖」とは・・・
東の一の間には、馬周、房玄齢、杜如晦、魏徴、
二の間には、諸葛亮、遽伯玉、張子房、第伍倫、
三の間には、管仲、鄧禹、子産、蕭何、
四の間には、伊尹、傅説、太公望、仲山甫
西の一の間には、李勣、虞世南、杜預、張華、
二の間には、羊祜、揚雄、陳寔、班固、
三の間には、桓栄、鄭玄、蘇武、倪寛、
四の間には、董仲舒、文翁、賈誼、淑孫通。
これらの肖像画は、巨勢金岡(こせのかなおか)の筆、賛詞は小野道風(おののとうふう)の書であるという。
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鳳(おおとり)の形をした甍(いらか)は天を翔け、虹のように曲がった梁(はり)は雲の中に高くそびえる・・・しかしながら、かくも立派に造営された大内裏も、天災を免れる事はついに不可能であった。何度もの火災により、今は昔の礎石が残っているだけである。
内裏の被災について、ここで少し考察を加えてみたい。
かの堯(ぎょう)帝、舜(しゅん)帝は、中国400州の主として、その徳は天地に通じるほどの高さであったにもかかわらず、その住居はといえば、「屋根をカヤで葺いたまま末端を切り揃えず、木にかんなをかけずにそのまま垂木に使った」と語り伝えられている。それにひきかえ、粟を散らしたような小国・日本、その主として、かくのごとき壮麗な大内裏を造るには、その徳はあまりにも不相応である。
後世の帝王が徳もないのに、自らの居を安からしめんと欲して宮殿など建設したならば、国の財力は尽きてしまうであろうと、かの弘法大師・空海(くうかい)は考えた。そこで、内裏の各門に掲げる額に字を書く際に、大極殿の「大」の字の中を引き切って「火」という字にし、朱雀門の「朱」の字を「米」という字で書いた。
小野道風がこれを見て、「なんや、あれはぁ! 大極殿を火極殿、朱雀門を米雀門と、書いたるやないかい!」と非難した。
大聖者が国の未来をよくよく考察した上で書いた事なのに、凡俗の身にありながらそれを非難した罰であろう、それから後、道風は、筆をとると常に手が震え、文字を正しく書く事ができなくなってしまった。しかし、そこはよくしたもので、彼は草書の達人、震える手でもって書いた字であっても、それがそのまま形になっていた、というわけである。
そしてついに、大極殿より出火、諸司八省ことごとく焼失してしまった。
程なく内裏は再建されたものの、今度は、北野天神(きたのてんじん)の御眷族(ごけんぞく)の火雷気毒神(からいきどくじん)が、清涼殿の西南の柱に落ち懸かり、再び焼け落ちてしまった。
そもそも、かの北野の天満天神というのは、風流の道の本主、文学の道の大祖。天におわしましては日月に光りを顕わして国土を照らし、地に下っては賢臣となってすべての生命を利せしめる。その始めを詳細に述べるならば、以下のごとし。
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