太平記 現代語訳 14-6 反乱軍蜂起の報、続々

太平記 現代語訳 インデックス 7 へ
-----
この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
-----

このような状況の所に、12月10日、讃岐(さぬき:香川県)の高松頼重(たかまつよりしげ)からの早馬が、京都に到着。

高松よりの使者 わしんとこの主、高松様より、朝廷に対して次のように申し上げろと言われて、京都まで参りました。

 「足利一族の細川定禅(ほそかわじょうぜん)が、11月26日、当国の鷺田庄(さぎたしょう:香川県・高松市)で、朝廷に反旗を翻しよりまして、詫間(たくま)と香西(こうさい)がこれに加わり、300余騎ほどの勢力になりよりましたです。」
 
 「わし・頼重は、ただちにヤツラを退治しようと、まず、屋島(やしま:高松市)の山麓に行き、そこで国中の軍勢を招集しようと、思ぉとりました。ところがそこへ、細川定禅、夜襲を仕掛けてきよりましてな、わしら皆、命を捨てて防戦しましたが、わが方に属しとった讃岐の連中らがすぐに裏切りよりましてな、わしらに矢ぁ射掛けてきよるんじゃ。もうそれからは、ムチャクチャじゃ・・・わしの老父をはじめ一族14人、郎等30余人、その場で討死にしてしまいよりました。」

 「わしらサイドの一陣が、こないして細川に破られてからというもんは、当国の藤原氏・橘(たちばな)氏の血縁の者らも、坂東(ばんどう:徳島県板野郡)、坂西(ばんせい:徳島県板野郡)の者らも残らず、細川側についてしまいよりました。」
 
 「こういうわけで、細川軍の兵力はもう、3,000余騎にも達しとりましょう。近日中にも、宇多津(うたづ:香川県・綾歌郡・宇多津町)から軍船に乗って、備前国(びぜんこく:岡山県東部)の児島(こじま:岡山県・玉島市)に上陸、その後、京都目指して攻め上ろうとしちょるんじゃけん、なにとぞ御用心めされませ!」

公卿A こらまた、エライ事ですなぁ。

公卿B いやいや、そないに、気にするほどの事でもありませんやろ。京都には、新田義顕(にったよしあき)を筆頭に、結城(ゆうき)、名和(なわ)、楠(くすのき)以下、主な武将が、大軍を擁して控えとりますから。

公卿C そうですわ、四国の一角で反乱軍が起こったとて、なにほどの事がありましょうかいな。

このように、さほどの驚きも見せない朝廷の面々であった。ところが、

翌11日、今度は、備前国(びぜんこく:岡山県東部)住人・児島高徳(こじまたかのり)が、早馬を送ってきた。

児島よりの使者 わが殿より、以下のように朝廷に報告せよ、とのことでした。

 「11月26日、当国の住人・佐々木信胤(ささきのぶたね)、佐々木信高(ささきのぶたか)らが、細川定禅よりの誘いに応じて、備中国(びっちゅうこく:岡山県西部)に越境し、福山城(ふくやまじょう:広島県・福山市)に、たてこもりよりました。」
 
 「備中国の国司代官が、まず自らの手勢だけを率いて討伐に向こぉたけど、国中の武士は、彼の招集にゃぁ、いっこも応じようたぁしよらん。多勢に無勢ゆえに退却を余儀なくされとる所を、勝ちに乗った反乱軍側に攻めたてられて、代官の軍勢数百は、全滅しよりました。」

 「その翌日、小坂(こさか)、川村(かわむら)、庄(しょう)、真壁(まかべ)、陶山(すやま)、成合(なりあい)、那須(なす)、市川(いちかわ)以下の者らがみな、反乱軍側に回ってしまいよりましたけん、あっちサイドの兵力は、3,000余騎にまで、膨れ上がってしまいよりました。」
 
 「備前国の地頭、有力武士らが、反乱軍を討伐しようということで、吉備津神社(きびつじんじゃ:岡山県・岡山市)に集合しよりました。そこへ、浅山備後守(あさやまびんごのかみ)が、備前国守護職に任命されてやってきて、その軍勢をあわせて、同月28日、福山城攻略に向かいました。」

 「私・児島高徳の一族らが、城の大手を攻め破り、いよいよ城中に攻め入ろうとしとりました時に、野心を持った備前国の武士らが、たちまち寝返りを打ちよりまして、こっちめがけて、矢を射掛けてきよりました。」
 
 「その結果、代官・浄智(じょうち)の子息・七條弁房(しちじょうべんぼう)、小周防大弐房(こすおうのだいにぼう)、藤井六郎、佐井七郎、以下30余名が、福山城のからめ手方面において、戦死。我々はついに戦に負けて、備前国へ退却し、三石城(みついしじょう:岡山県・備前市)にたてこもっとりました。」

 「そんなとこへ、備前国守護・松田盛朝(まつだもりとも)、大田全職(おおたみつもと)、高津浄源(たかつじょうげん)が当国へ下向して、我が方の味方に加わりましたけぇ、再び、三石から備前国中へとって返し、和気宿(わけじゅく:岡山県・和気郡・和気町)で、反乱軍と戦いました。ところが、今度はなんと、松田盛朝が敵に寝返ってしまいよりましてな、我方は数10人が戦死。仕方がないので、熊山城(くまやまじょう: 岡山県・赤磐市)に、たてこもりました。」

 「その夜、当国住人の内藤弥二郎(ないとうやじろう)が、我が方の陣にありながら、密かに敵を城中に導きいれて、我らを攻め脅かしよりましたんで、我がサイドのメンバーはみな、城から脱出、その後は行方不明の状態になってしもぉとります。」
 
 「我が児島一族は、かろうじて死を免れ、身を山林に隠しながら、京都からの援軍の到着をひたすら待っとるという状態です。速やかに、討伐軍を派遣していただけませんと、中国地方の混乱は今後拡大し、そのうち、大変なことになってしまうでしょう!」

2日連続の早馬の到着に、朝廷中、騒然となった。

公卿たち どないしたらえぇんや!

その翌日の正午、今度は、丹波国(たんばこく:兵庫県東部+京都府中部)より碓井盛景(うすいもりかげ)が、早馬を送ってきた。

碓井よりの使者 わが主、碓井盛景より、朝廷にご報告もうしあげます!

 「去る12月19日の夜、当国の住人・久下時重(くげときしげ)が、波々伯部為光(ははかべためみつ)、中澤三郎(なかざわさぶろう)らとしめし合わせて、守護館へ押し寄せてきよりました。わしらは、必死に防戦したんですけど、なんせ突然の来襲でしたんで、我が方は戦いに敗れ、ついに、摂津国(せっつこく:兵庫県南東部+大阪府北部)に退くしか、しょうがありませんでした。」

 「なんとかして、他の勢力と組んでそのリベンジを、と思いまして、赤松円心(あかまつえんしん)のとこへ使いを送って、援軍を頼んだんですわ。ところか円心、あれはきっと、朝廷に対して反逆の心を抱いとるんでっしゃろな、なぁも返答、返してきません。それどころか、「足利将軍からの招集の令状が、ワシ宛てに来てんねんぞぉ」とかフイテ回って、国中の勢力を招集している、とのうわささえ(注1)、伝わってきとります。」
 
-----
(訳者注1)原文では、「剰(あまつさ)え将軍の御教書(みぎょうしょ)と号し、国中の勢を相催(あいもよお)す由」。
-----

 「さらに、但馬(たじま:兵庫県北部)、丹後(たんご:京都府北部)、丹波の反乱軍の連中らも、備前、備中の軍勢とタイミング合わして、山陽道と山陰道から同時に、京都に攻め上ろうとしとるで、というような情報も、入ってきとりますからな、とにかく、よくよく、ご用心めされませ!」

また、その日の午後6時ころ、能登国(のとこく:石川県北部)石動山(せきどうさん:石川県鹿島郡)寺の衆徒から、使者を送ってきた。

使者 11月27日、越中国(えっちゅうこく:富山県)守護・普門利清(ふもんとしきよ)をはじめ、井上(いのうえ)、野尻(のじり)、長澤(ながさわ)、波多野(はだの)の者らが「将軍命令書」をもって(注2)両国の武士らを集め、反逆を企てました。

-----
(訳者注2)原文では、「将軍の御教書(みぎょうしょ)を以て」。
-----

使者 その間、国司・中院定清(なかのいんさだきよ)様は、要害の当・石動山寺にたてこもっておられたのですが、今月12日、かの反乱軍は、雲霞(うんか)のごとき勢いをもって、当寺に押し寄せてきました。

使者 我ら衆徒はみな、国司様にお味方し、身命を軽んじて防御に努めましたが、ついに、防御陣の一角が破られてしまい、定清様は命を落とされ、当寺一山ことどとく、兵火のために焼失してしまいました。

使者 これより、反乱軍はますます猛威を振るい、近日中にも、京都へ攻め上ろうとの勢い。急ぎ、討伐軍を、下したまわんことを!

これのみならず、

加賀国(かがこく:石川県南部)では、富樫(とがし)が、

越前国(えちぜんこく:福井県東部)では、斯波高経(しばたかつね)の家臣が、

伊予国(いよこく:愛媛県)では、河野(こうの)が、

長門国(ながとこく:山口県北部)では、厚東(こうとう)が、

安芸国(あきこく:広島県西部)では、熊谷(くまがや)が、

周防国(すおうこく:山口県南部)では、大内(おおうち)が、

備後国(びんここく:広島県東部)では、江田(えだ)、弘澤(ひろさわ)、宮(みや)、三善(みよし)が、

出雲国(いずもこく:島根県東部)では、富田(とんだ)が、

伯耆国(ほうきこく:鳥取県西部)では、波多野(はだの)が、

因幡国(いなばこく:鳥取県東部)では、矢部(やべ)、小幡(おばた)が、

その他、畿内5か国、七道、四国、九州など、全国至る所から、反乱軍蜂起の知らせが次々と朝廷に入ってくる。

天皇はじめ、朝廷方の人々は全員、ただただ肝を冷やすばかりである。

その頃、いったいどこのけしからん輩の仕業であろうか、よりにもよって、御所の陽明門の扉に、一首の戯(ざ)れ歌が。

 賢王(けんおう)が 横言(おうげん)いわはる 世の中は 上を下への 大騒ぎやな(注3)

 (原文)賢王の 横言に成る 世の中は 上を下へぞ 帰したりける

-----
(訳者注3)「横言」とは、「わがままで、勝手気ままな言葉」のこと。「賢王」の読みの「けん おう」の、前2文字と後2文字を、上下反転させると、「おう けん」になり、「おうげん」(横言)を連想させる言葉になる。
-----

国の四方八方で、武士たちの反乱が機を一にして起こり、京都へ急を告げる早馬の到着は、ひっきりなし。

そこで、足利軍の西進を食い止めようとして、尾張国(おわりこく:愛知県西部)にとどまっている新田義貞(にったよしさだ)のもとに、引他九郎(ひきたのくろう)を勅使として、「急ぎ上洛せよ!」との命令を、伝えよう、ということになった。

引他九郎は、例の名馬(注4)を後醍醐天皇から給わり、それにまたがって、尾張へ向かうことになった。この馬に乗って行けば、通常では4、5日要する京都から尾張への道程も、1日のうちにやたすく走破できるであろうと、思われた。

-----
(訳者注4)[13-1]に登場した、万里小路藤房が、反乱軍が決起した際の遠国への急報には、役に立つかも、と評した馬である。
-----

12月19日の午前8時に、京都を出発し、予想に違わず、その日の正午には、近江国(おうみこく:滋賀県)の愛智川宿(えちがわじゅく:滋賀県・愛知郡・愛荘町)に到着。しかし、そこでこの馬は、急の病に倒れ、やがて死んでしまった。なんと不思議な事であろうか。

引他九郎は仕方なく、馬を乗り継ぎ乗り継ぎ、数日かかって、尾張に到着した。

引他九郎 このような情勢ゆえ、一刻も早く尾張から退き、京都の防衛に、との、朝廷からのご命令です。

新田義貞 よし分かった。まずは急ぎ、京都へ退いて、宇治(うじ:京都府・宇治市)、瀬田(せた:滋賀県・大津市)に防衛ラインを敷いて、反乱軍と戦うとしよう。

新田軍は、勅使・引他九郎と共に、京都へ向かった。

-----
太平記 現代語訳 インデックス 7 へ

いいなと思ったら応援しよう!