太平記 現代語訳 11-6 北条時直、降伏す
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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長門国(ながとこく:山口県北部)駐在・中国地方執務本部長(注1)の北条時直(ほうじょうときなお)は、京都での六波羅庁側の苦戦の報を聞き、応援に駆けつけようと、大船100余隻でもって海路、京都を目指した。
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(訳者注1)原文では「長門探題」。
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しかし、周防灘の大畠瀬戸(山口県・柳井市 and 山口県・大島郡・周防大島町)に到着した時、京都も鎌倉もすでに足利と新田によって滅亡、天下ことごとく、後醍醐先帝に従うようになってしまった、との情報を得た。そこで、船を漕ぎ戻して九州庁に入り、そこの軍勢と合流しようと、筑紫へ急いだ。
赤間関(あかまがせき:注2)に到着して、九州地方の情勢を聞くと、「九州庁の北条英時(ほうじょうひでとき)も昨日すでに、小弐と大友に滅ぼされ、九州、壱岐島、対馬島ことごとく、先帝側についてしまった」と言うではないか。
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(訳者注2)山口県・下関市の旧称。
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こうなると、彼の催促に応じてこれまで従軍してきた武士たちもいつしか心変りし、思い思いに逃亡してしまい、時直の周囲には、たった50人が残るだけになってしまった。時直は、彼らとともに柳浦(やなぎがうら・福岡県・北九州市)の波間に漂泊する身となってしまったのである。
あちらの浦に帆を降ろそうとすれば、倒幕軍側が鏃(やじり)をそろえて待ち構えている。こちらの島に停泊しようと思って艫綱(ともづな)を結ばんとすれば、倒幕軍側が盾を並べ、討ち取ろうと、襲いかかってくる。
船に残り留まった人々も、今は心を沖(おき=置き)津波、立ち帰るべき方もなく、寄るべき所もなければ、世を憂き(うき=浮き)舟の楫(かじ)を絶え、思わぬ風に漂えり。
後に残してきた妻子たちの運命やいかに、せめてその安否を聞いて後、心安く討死したいものだと思い、しばらく命を延ばす為に、郎等一人を陸に上がらせ、小弐と嶋津のもとへ降服を願い出た。
小弐も嶋津も長年のよしみもあり、現在の彼らの境遇を哀れに思ったのであろう、急いで迎えをよこし、自分の宿所へ彼らを迎え入れた。
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峯僧正・俊雅(みねのそうじょう・しゅんが)は、御醍醐先帝の母方の親戚に当たる人である。
彼は、笠置寺(かさぎでら)の合戦で捕虜となり、筑前国(注3)へ流罪になっていたのだが、今は一気に運が開け、国人たちはみな、その左右に従うようになっていた。
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(訳者注3)4-1では、流刑地は長門国になっている。
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九州地方の裁決一切は、御醍醐先帝の決定があるまでは暫く、俊雅の一存に委ねられていた。そこで、小弐と嶋津は、時直を同道して俊雅のもとへ参じ、時直の降服の意志を、俊雅に申し入れた。
俊雅は、降伏を応諾し、時直はすぐに、俊雅の前へ通された。
時直は、膝でにじり進み、頭を床の上につき、あえて顔を上げようともせず、はるか末座にかしこまって、平伏している。その様を見て、俊雅は涙を流しながら、
俊雅 (涙)去る元弘年間の初め、罪無くして、私がここへ流罪になってやって来た時・・・時直、おまえは、私を完全に罪人扱いしてたわなぁ。
北条時直 ・・・。
俊雅 (涙)身分の上下もわきまえへん、尊大な言葉をおまえから投げつけられてなぁ、私はただもう、面をたれて涙を押し拭うしかなかったんや。無礼の驕りの前に、私はどうする事もできんとからに、ただただ恥を忍んだんや。
俊雅 しかるに、今、天の道は足らない所を照らし、不測の世の変化を見るに、吉凶あい乱れ、栄枯地を変え、といったような状態やなぁ。夢と現(うつつ)、昨日はわが身の上の悲哀、今日は他人の上の悲しみ。
俊雅 「怨みを報ずるに恩を以ってす」という言葉もあるからな、何とかして、おまえの命だけは助けたげよう。
俊雅のこの言葉に、時直はただただ頭を床につけ、両眼に涙を浮かべるばかりであった。
数日後、俊雅から京都にこれを伝えたところ、すぐに、先帝からの赦免が下されて、北条時直は、その領地を安堵された。
時直は、甲斐無き命を助かり、万人の嘲りの的となりつつも、ひたすら北条家再興の時を待ったのであったが、それからいくばくもなく、病魔に侵されて夕べの露と消えてしまった。
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