太平記 現代語訳 15-2 北畠顕家、戦に加わる

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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。

太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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建武2年(1335)11月に、新田義貞(にったよしさだ)が足利追討軍の大将に任命されて関東へ向かった際に、奥州(おうしゅう:東北地方東部)の国司・北畠顕家(きたばたけあきいえ)に対しても、「新田の関東到着にタイミングをあわせて、そちらからも、足利軍を攻撃せよ。」との命令が、朝廷から発せられていた。

しかし、大軍の出動というものはそれほどたやすい事ではなく、その準備はなかなか、スケジュール通りには進捗しなかった。

奥州を進発した後も、途上の様々な場所での戦闘にどんどん日数が経過し、あせる顕家の心とは裏腹に、そこかしこへ逗留した末に、北畠軍は、ようやく箱根(はこね:神奈川県・足柄下郡・箱根町)に到着。その時すでに、新田と足利の戦いは、勝敗の決着がついてしまっていた。

それから程なく、北畠軍は鎌倉(かまくら:神奈川県・鎌倉市)へ入り、「箱根・竹下の戦いに勝利の後、足利尊氏はすでに京都へ向かって出発」との情報を得た。

ならば、その後を追って京都へ進もう、ということになり、夜を日に継いで、京都への道を急いだ。

やがて、越後(新潟県)、上野(こうずけ:群馬県)、常陸(ひたち:茨城県)、下野(しもつけ:栃木県)に残っていた新田の一族や千葉、宇都宮の家臣の者らが、北畠軍の京都遠征の話を聞きつけて、ここかしこからそれに参加してきて、北畠軍は短期間に、勢力5万余騎にまで膨張した。

鎌倉から西には抵抗する者もなく、彼らは昼夜兼行で馬を早め、1月12日に、近江(おうみ:滋賀県)の愛知川宿(えちがわじゅく:滋賀県・愛知郡・愛荘町)に到着した。

その日、北畠軍に所属の大館幸氏(おおたちまさうじ)は、未だ幼少の佐々木氏頼(ささきうじより)がたてもこっている観音寺城(かんのんじじょう:滋賀県・近江八幡市)を攻め落とし、城兵500余人を討ちとった。

その翌日、顕家は、早馬を坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ送ってそれを報告。これを聞いた天皇をはじめ、敗軍の士卒は皆ことごとく喜び、朝廷軍全体の士気が回復した。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)はすぐに、道場坊祐覚(どうじょうぼうゆうかく)に命じて、琵琶湖上に船700隻を用意させた。

北畠軍メンバーらは、志那浜(しなのはま:滋賀県・草津市)からその船に乗り込み、その日のうちに、坂本へたどり着いた。

宇都宮一族と紀清両党(きせいりょうとう)の者たち500余騎も、主・宇都宮公綱(うつのみやきんつな)からの招集に応じて、北畠軍と共に志那浜までやってきたであったが、公綱は足利サイドについてしまった、との情報を得て、離脱の意志表示を行い、あいさつして北畠軍から分離し、芋洗(いもあらい:京都府・久世郡・久御山町)を経て、京都へ向かった。

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