太平記 現代語訳 16-17 後醍醐天皇、延暦寺へ避難
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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朝廷軍の総大将・新田義貞(にったよしさだ)が、たったの6,000余騎にまで兵力を減じて、逃げ帰ってきたとあって、京都中残らず、上を下への大パニック状態である。
「かりに朝廷軍敗退となった場合、陛下におかれましては、前のように、坂本(さかもと:滋賀県・大津市)へ御動座(どうざ)いただいて・・・」との、予てからの計画通りに、5月19日、三種神器(さんしゅのじんき)を先頭に、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、都を後にした。
あぁ、なんということであろうか、元弘(げんこう)年間の初(はじめ)(注1)、鎌倉幕府からの政権奪回にみごと成功を収めしより未だ3年を過ぎずして、このような事態となってしまい、日本国は再び戦乱の渦中に突入してしまった。
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(訳者注1)原文に、「元弘の初に公家天下を一統せられて」とあるので、このように訳したが、正しくは、「元弘の終に公家天下を一統せられて」と記述されるべきだろう。
[元弘]から[建武]に改元されたのは、元弘4年であり、鎌倉幕府が倒れたのは、元弘3年であるから。
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朝廷の臣A こないだの正月の合戦においては、朝敵・足利はたちまちに敗退、九州近海の波間に漂う事になった。まさに、天皇陛下の聖なる徳の力、みごとに顕現っちゅうような、カンジやったのになぁ・・・。
朝廷の臣B もうこないなったら、お上(かみ)の尊厳を犯し、反乱を起こそうなんちゅうヤツは、一人もいいひんやろうと、思ぉとったんやけど・・・。
朝廷の臣C ところが、ところが、西方から侵略軍たちまち襲来、1年の中に2度までも、天皇陛下が玉座を動座(どうざ)されるとは・・・。
朝廷の臣D もはや、太陽も月も昼夜を照らす事なく、君臣も上下をわきまえんような、ムチャクチャな世の中に、なってしまいましたわぁ。
朝廷の臣E もうこの世も終わりでんなぁ・・・仏法(ぶっぽう)、王法(おうぼう)、共に滅びる時が、ついに来たんでっしゃろ。
朝廷の臣F そやけど、今年の春も、陛下は延暦寺を頼って坂本へご動座なさいまして、それから間もなく、朝敵を撃退する事ができましたやん、今度もきっと、うまいこと行きますよ。
このような、何の根拠もない希望的観測により、今回の動座には、公家からも武家からも多数の者が、天皇に随行することを決意した。
摂政(せっしょう)はもちろんのこと、上級貴族たち、すなわち:
内大臣(ないだいじん)・吉田定房(よしださだふさ)、大納言(だいなごん)・万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、同・西園寺公重(さいおんじきんしげ)、同・御子左為定(みこひだりためさだ)、中納言・四条隆資(しじょうたかすけ)、同・坊城経顕(ぼうじょうつねあき)、左衛門監(さえもんのかみ)・洞院実世(とういんさねよ)、参議(さんぎ)・千種忠顕(ちぐさただあき)、中納言・葉室長光(はむろながみつ)、参議・中御門宣明(なかみかどのぶあきら)。
中級貴族の人々は、と言えば:
左中将(さちゅうじょう)・中院定平(なかのいんのさだひら)、左大弁(さだいべん)・坊門清忠(ぼうもんきよただ)、中将・四条隆光(しじょうたかみつ)、同・園基隆(そののもとたか)、左大弁・甘露寺藤長(かんろじふじなが)、右中弁(うちゅうべん)・岡崎範国(おかざきのりくに)、頭大夫(とうのたいふ)・一条行房(いちじょうゆきふさ)。
この他、衛府(えふ)、諸官庁、書記、記録係、6位以下の官僚、院守護担当、官位を持つ、あるいは持たない御所警備人、諸家の侍、朝廷づきの僧侶、女官、医師、陰陽師(おんみょうじ)に至るまで、我も我もと、動座に参加した。
一方、天皇に供奉する武士のメンバーは、といえば:
新田義貞をはじめ、その子息・義顕(よしあき)、脇屋義助(わきやよしすけ)、その子息・義治(よしはる)、堀口貞満(ほりぐちさだみつ)、大館氏明(おおたちうじあきら)、江田行義(えだゆきよし)、額田正忠(ぬかだまさただ)、大江田氏経(おおえだうじつね)、岩松義正(いわまつよしまさ)、鳥山氏頼(とりやまうじより)、羽川時房(はねかわときふさ)、桃井顕氏(もものいあきうじ)、里見義益(さとみよします)、田中氏政(たなかうじまさ)、千葉貞胤(ちばさだたね)、宇都宮公綱(うつのみやきんつな)、宇都宮泰藤(うつのみややすふじ)、狩野貞綱(かののさだつな)、熱田大宮司昌能(あつたのだいぐうじまさよし)、河野通治(こうのみちはる)、得能通益(とくのうみちます)、武田盛正(たけだもりまさ)、小笠原政道(おがさわらまさみち)、仁科氏重(にしなうじしげ)、春日部時賢(かすかべときかた)、名和長年(なわながとし)、名和長生(なわながたか)、今木範家(いまきのりいえ)、頓宮忠氏(とんぐうただうじ)。
これらの主要メンバーの他、合計6万余騎が、天皇の輿の前後に連なって、今道越(いまみちごえ)ルート経由で、坂本へ向かった。
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