太平記 現代語訳 16-8 福山城攻防戦
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この現代語訳は、原文に忠実なものではありません。様々な脚色等が施されています。
太平記に記述されている事は、史実であるのかどうか、よく分かりません。太平記に書かれていることを、綿密な検証を経ることなく、史実であると考えるのは、危険な行為であろうと思われます。
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新田(にった)軍の福山城(ふくやまじょう:岡山県・総社市)防衛担当のメンバーたちは、「足利(あしかが)軍、京都へ進軍開始!」との情報をキャッチして、
新田軍メンバーA エェーッ・・・この城、まだ、かためれてないのにぃ。
新田軍メンバーB もう、足利軍、進軍開始かぁ。
新田軍メンバーC あっちサイドの兵力、すごいって言うじゃん! それにひきかえ、こっちサイドは・・・これじゃ到底、勝ち目ありませんよぉ。
大江田氏経(おおえだうじつね)は、じっと思案していたが、いわく、
大江田氏経 合戦の常として、勝敗は時の運による・・・とは言うもんのなぁ、おれたちのこの小勢でもって、敵の大軍と戦って勝てる可能性、千に一つもねぇだろう。
大江田氏経 だけんどよぉ、足利尊氏の京都進軍を食い止める為に、わざわざ国境を超えて備中までやってきた、おれたちなんだぞぉ。大軍が寄せて来たからって、アタフタ逃げ出すような事、できゃしねぇやなぁ。
一同 ・・・。
大江田氏経 ようはだなぁ、同じ業(ごう)を背負い、同じ果(か)を受けるべき運命を持った人間たちが、今ここに集まったってぇ事なんだろうよ。
大江田氏経 いってぇどんな前世の因果なのか、そこまでは分かんねぇけんど、とにかくここで死ぬ、という運命の星の下に生まれてきた者どうしってわけよぉ、おれたちはぁ。
一同 ・・・
大江田氏経 死を軽んじ、名誉を重んずる、それが人間の生きていく道ってぇもんじゃぁねぇかい! なぁみんな、全員ここで討死にして、名を子孫に残す覚悟、かためようじゃねぇの!
紀伊常陸(きのひたち) 分かりました、おれもキッパリ覚悟、決めました。ここで討死にしましょう!
合田(あいだ) これでかえって、心の中もスッキリしましたぜ、ハッハッハッ・・・。
新田軍・福山城・防衛担当メンバー一同 (うなずく)
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翌5月15日の宵方、足利直義(あしかがただよし)は、30万騎の軍勢を率いて勢山(せやま:岡山県・倉敷市)を越え、福山城の山麓の周囲4、5里ほどのエリア内数100か所に、かがり火を焚いて布陣した。
この大軍勢の包囲を見れば、いかなる鬼神さえも怖れをなして、今夜のうちに城から逃げ出してしまうのでは、と思われた。しかし、城を守る側も、かがり火を焚き続け、なおも持ちこたえている。
夜明けとともに、まず、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)の足利サイド3,000余騎が、浅原峠(あさはらとうげ:岡山県・倉敷市)越えのルートで、城に攻めかかっていった。しかし、城内はなりを潜め、コトリとも音がしない。
足利軍リーダーD さては、城の連中、逃げ出しよったなぁ。よし、いっちょうトキの声あげて、城に敵が残ってるかどうか、確かめるんじゃ!
彼らは一斉に盾の板を叩き、トキの声を3度上げ、城に迫り登った。すると、城内からも東西の木戸口で太鼓を打ち、トキの声を合わせてきた。
城の外に迫っていた足利軍サイドは、これを聞いて、
足利軍リーダーD あれぇ、まだいよったかぁ。
足利軍リーダーE そりゃそうじゃろぉ、新田軍の大将が守っとるんじゃけん、たとえ兵力が少なくても、ビビッテ逃げ出すなんてこたぁありえんと、思ぉとったでぇ、わしはぁ。
足利軍リーダーF 相手をあなどって、最初の戦に、失敗してはいかんのぉ。
足利軍リーダーG おれたちだけでのぉて、全軍で城の四方をきっちり包囲してから、一斉に攻めかかるのが、えぇじゃろう。
というわけで、足利側は各軍毎にエリアを分担して城の周囲に展開した後、四方の谷々峯々から攻め登って行った。
守備側はすでに心の準備は出来ている。
雲霞のごとき大軍に包囲されても、少しもあわて騒ぐこともなく、ここかしこの木陰に隠れながら、矢を惜しまず、さんざんに射る。放った矢は一本も無駄になることなく、稲や麻のようにびっしりと密集した攻城側の武士たちを倒して行く。
新田サイドの矢が尽きてしまうのを待とうということで、足利サイドは、わざと矢を放たない。ゆえに、新田サイドには未だ一人の負傷者も出てはいないのだが・・・情勢を見て取った大江田氏経は、
大江田氏経 力尽きてしまわねぇうちに、城からうって出て、足利直義の陣を蹴散らしてやろうかい!
氏経は、城内に歩兵500余人を配備した後、乗馬の巧みな兵1,000余騎を率い、城の木戸を開かせ、逆茂木(さかもぎ)を取り除かせ、北側の尾根上の最も険しい所から、おめきながら馬を走らせた。
その方面を担当していた足利軍2万騎は、これに圧倒されて谷底に追い落とされ、幾重にも重なり合って、倒れ伏した。
氏経は、彼らを追いかけずに、
大江田氏経 東の方の、尾根裾はるか伸びたあたりに、二引両(ふたつびきりょう)の旗がある。きっと、あそこが、直義の本陣なんだろう。よぉし、行くぜぃ!
氏経率いる新田軍は、足利軍2万余騎が控えるその陣中に破(わ)って入り、それから2時間ほど戦い続けたが、
大江田氏経 ウーン、残念! 直義の陣じゃなかったかぁ!
足利サイドの大軍の中をサァッと駆け抜けてから、氏経は後ろを振りかえってみた。自軍は、500余騎ほど討たれてしまい、わずか400騎になってしまっている。
大江田氏経 城の方はどうかな・・・。
はるか城の方を見やれば、自分の出陣と入れ替わりに、足利軍が城に入ってしまったものと見え、櫓や防壁から、火の手が上がっている。
氏経は、兵を一個所に集めて、
大江田氏経 今日の戦は、もうこれまで。さぁ、敵陣の一角を打ち破ってなぁ、備前へ帰り、播磨と三石の友軍に合流しよう。
大江田軍は、板倉川(いたくらがわ)の橋を渡り、東方へ撤退を開始。
これに対して、足利サイドは、2,000騎、3,000騎と、ここかしこに道を塞ぎ、襲いかかっていく。
もはや逃れようも無しと、覚悟かためた大江田軍400騎は、接近してくる相手の中へ、破(わ)って入り、懸け散らし、破(わ)って入り、懸け散らし・・・このようにして、板倉川のあたりから唐皮(からかわ:岡山県・岡山市・北区)まで、10余度もの戦闘が繰り返されていった。
しかし、大量の戦死者も出さず、大江田氏経も無傷のままに虎口の難を逃れ、5月18日早朝、彼らは三石宿(みついしじゅく:岡山県・備前市)にたどりついた。
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足利直義 よぉし、緒戦はこれでモノにしたな! 幸先いいじゃないのぉ!
新田軍の福山城防衛担当の追い落としに成功し、直義は上機嫌である。その日は、唐皮宿に逗留して首実験を行ったところ、「生け捕り・討死1353人」と記録することになった。
足利直義 備中(びっちゅう)国一宮の吉備津神社(きびつじんじゃ)に、参拝しときたいんだけどなぁ・・・合戦の最中だから、穢(けが)れになってはいかんし・・・願書だけ奉納するとしよう。
翌日、足利直義は、軍を率いて唐皮を出発した。
足利尊氏率いる足利第2軍も出帆し、順風に帆を上げた。
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5月18日夜、脇屋義助(わきやよしすけ)は、三石から使者を新田義貞(にったよしさだ)のもとに送り、福山の合戦の経緯を詳細に報告させた。
やがて、使者は戻ってきて、いわく、
使者 義貞様よりの伝達、申し上げます!
「白旗(しらはた)、三石(みついし)、菩提寺(ぼだいじ)の城を未だに攻め落とせてないのに、尊氏と直義の大軍が、海路と陸路で進んで来てる。陸路をやってくる足利軍を防ぐために、ここ備前で待ち構えていたのでは、海路を来る敵軍はイッキに、京都に達してしまうだろう。だから、今すぐに中国地方を放棄し、摂津国(せっつこく)まで撤退して、水陸両路の敵を一個所にて待ち受け、京都を背後に合戦をすることにしよう。そちらの軍も急ぎ、山野里(やまのさと:兵庫県・赤穂郡・上郡町)まで撤退して、我々に合流してくれ。美作(みまさか)方面のわが軍にも、この旨を伝えておいたから。」
かくして、5月18日の夜半、三石の守備担当の新田軍はそこを撤退し、船坂(ふなさか)からも退却。城内の足利側はにわかに活気づき、船坂山まで進出し、新田軍の行く手を塞いで散々に矢を射掛ける。
宵の間の月は山に隠れ、前後も定かに見えない中に、親が討たれ子が討たれようとも、とにかく一足でも前へ逃げのびようとする新田軍メンバーたち。
そのような中、新田の友軍・菊池(きくち)軍・若党の原源五(はらのげんご)、原源六(はらのげんろく)という有名な剛の者が、味方の撤退を助けようと、退き行く軍の最後尾に下がり、防ぎ矢を射続けた。
矢をすべて射つくしてしまった後、刀を鞘から抜き、二人は叫ぶ、
原源五 おぉい、みんなぁ!
原源六 どこかにいるんなら、ここまで帰って来てくれぇ!
これを聞いた菊池軍の若党たちは、はるか先まで行っていた者たちも、「おぉ、ここにおるぞ! 今行くぞぉ!」と、口々に叫び、原兄弟のいる所に戻ってきた。
城から出てきた足利サイドメンバーらは、この勢いを見て、さすがに近寄る事もできず、離れた峯を進みながら、トキの声を上げるばかり。その間に、数万の新田軍は一人も討たれる事なく撤退、大江田氏経も、夜明け頃に山の里に到着した。
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児島範長(こじまのりなが)とその子・高徳(たかのり)は、「足利側の佐々木の一党が上陸した」との情報をキャッチし、これを防ぐために、旭川(あさひがわ:岡山県・岡山市)付近に陣を敷いていた。しかし、福山落城の知らせを受け、
児島範長 いかぁん、このままでは、わしら、孤立してまうのぉ。三石にいる新田軍に合流するかぁ。
9日の夜、彼らは三石に到着した。しかし、
児島範長 いったいどうなっとるんじゃぁ? ここには、誰もおらんがのぉ。
児島範長 おいおい、脇屋義助殿は、どこへ行ってしもぉたぁ?
三石の住民H 脇屋殿かぁ? 今日の宵頃に、播磨へ撤退してもぉたぞぉ。
児島範長 うーん・・・となると、船坂も、もう通れんじゃろなぁ。
そこで児島軍は、先日、新田軍第3軍団が通った例の三石の南の山道を徹夜で越え、ようやく、坂越(さごし:兵庫県・赤穂市)の浦へ出た。
夜明けまでは、まだ相当時間があったから、坂越で止まらずに先へ進んでおれば、児島たちは新田義貞の軍に楽々、追いつく事ができたであろう。
しかし、児島高徳は、先日の戦闘で負った傷が未だ癒えない状態のまま、馬に長時間揺られていたので、目がくらみ、意識が薄れてきていた。
児島範長 こりゃぁ、とても、馬に乗っていける状態ではないわ。このへんに、わしのよぉ知っとる僧侶がおるけん、しばらく、高徳を預かってもらおう。
ということで、その僧侶に高徳を託すために、している間
5月の夜は短い・・・範長がその僧侶に高徳を託している間に、「時」はあっという間に過ぎ去って行き、児島範長の運命を決してしまった。
「落人(おちうど)がこのルートを通って逃げていくぞ!」との情報を得て、赤松円心(あかまつえんしん)は、300余騎を差し向け、名和(なわ:兵庫県・相生市)のあたりで、児島たちを待ち伏せさせた。
児島範長が率いるは、わずかに83騎、ひたすら、山陽道めざして進んで行く。
とある山陰にさしかかった時、赤松軍が眼前に現われた。
赤松軍リーダー そこを行くやつ、落人と見たでぇ! いったいどこの誰や! 命惜しかったらなぁ、弓の弦を外し、鎧を脱いで、降参せぇ!
児島軍に追いすがってくる赤松軍を見て、
児島範長 なにをコシャクな事、言うとるんじゃ、ハハハハハ・・・。
児島範長 それにしても、ミョーな事、言いよるのぉ、「降参せぇ」じゃとぉ? そんなことする気があるんじゃったらのぉ、筑紫(つくし)から足利が、あれやこれやと誘いの手紙を送ってきよった時に、さっさと足利に寝返っとるわい!
児島範長 そんな手紙、みぃんな引き裂いて、火にくべてやったわい。そんなわしじゃけん、お前らごときに対して、「はい、降参いたしますぅ」なんちゅうこと、言うはずないじゃろが! 鎧欲しけりゃ、力づくで取ってみろ!
言い放つやいなや、児島軍83騎は赤松軍300余騎の中におめいて駆け入り、12騎を切って落とし、23騎に手傷を負わせ、大勢の囲みを破って、浜沿いに東に向かって馬を走らせた。
赤松軍メンバーたちは、そのあたりの地理をよく知っているので、懸け散らされながらも、児島軍の行く先の方々へ先回りし、近隣の村々に、「そのうちな、このあたりを、落人が通るでぇ。通せんぼして、鎧剥ぎとってまえ!」と、触れてまわった。
それを聞いた周辺2、3里ほどのエリアの野伏(のぶし)2、3,000人が、ここの山陰、かしこの田の畦にと出動してきて、児島軍に対して、矢の雨を降らせた。
児島軍の若党たちは、主を逃すために、進んではかけ破り、引き下がっては討死しながら、那波野(なわの:兵庫県・相生市)から阿弥陀宿(あみだじゅく:兵庫県・高砂市)のあたりに至る間、18回も戦い続けた。
このようにして、児島軍は、主従わずか6騎となってしまった。
ある辻堂の前で、範長は馬を止め、若党たちにいわく、
児島範長 あぁ・・・児島一族の連中らさえ、いっしょに来てくれてたらなぁ・・・そしたら、播磨国のどまん中を、難なく突っ切っていけるじゃろうに。みんな、方々の戦場に分かれていってしもぉて、一個所に固まっとらんけんのぉ。
若党たち一同 ・・・。
児島範長 もう、どうしようもないのぉ。ついに、わしも討たれる時が来たようじゃ。
児島範長 今となっては、逃れようもない、最後の念仏を心閑(こころしず)かに唱えながら、腹切るとするか。お前ら、事が終わるまで敵が近づかんように、守ってくれよ!
範長は、馬から飛び降り、辻堂の中へ走り入った。
本尊の前にどっかと座り、合掌して、
児島範長 範長、いよいよこれで、最期となりました。南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。
声高らかに、念仏を2、300回ほど唱えた後、範長は、腹を真一文字にかっ切り、その刀を口にくわえて、うつぶせに伏した。
それに続いて、若党4人が自害した。
児島範長の従兄弟の和田範家(わだのりいえ)は、しばし、思案した。
和田範家 (内心)敵の一人くらいやっつけてこそ、後々まで語り継がれる忠節というもんじゃろう。わしらを追って、赤松一族の誰かがやってきたら、そいつに襲いかかって刺し違えてやるけん。
範家は、刀を抜いて逆手に握り、兜を枕にして自害した風を装いつつ、うつ伏せになり、赤松軍メンバーがやってくるのをじっと待った。
やがて赤松軍の一隊がやってきた。隊長は宇弥重氏(うのしげうじ)、彼は、範家の親類である。
自害した敵の首を取ろうと、辻堂の庭に入ってきた重氏は、そこに横たわっている遺骸の袖を見るやいなや、抜いた太刀を投げ捨てていわく、
宇弥重氏 あぁ、なんという事や・・・みんな、下黒紋(したぐろもん)の笠標(かさじるし)着けとるやないか。ここに死んどるのは、児島、和田(わだ)、今木(いまき)の家のもんらやなぁ。
宇弥重氏 自分の追いかけてる相手がこの人らやと分かっとったら、我が命に替えてでも、助けてあげたやろうになぁ・・・。(涙を流して、たたずむ)
これを聞いた範家は、ガバと起き上がって叫ぶ。
和田範家 ほれ、この通り、範家は生きとるぞ!
重氏は、驚いてかけ寄り、
宇弥重氏 おぉ、なんと、なんと・・・(大喜び)
重氏は、範家をそこから連れ出して助け置き、児島範長の葬儀をねんごろに営み、その遺骨を、彼の故郷へ送り届けた。
このようにして、児島範長たち83騎は討たれ、和田範家たった一人だけが、命を取りとめた。人間の運命というものは、実に不思議なものである。
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