見出し画像

ごめんな、と言えなかった日のこと


中古車販売店の軒先に、それは無造作に並んでいた

ボンネットに黄色い花粉が降り積もり、
サイドミラーの付け根には水垢の筋がこびりついている。
あの頃、休日の朝に一時間かけて
手洗い洗車をしていた自分が見たら、
きっと卒倒するだろう。NDロードスター。
白の塗装は春の曇天の下でもなお深く、
だからこそ、その汚れが痛々しかった。

「ごめんな」

声に出すつもりはなかった。
なのに唇が勝手に動いて、目頭が熱くなった。
店員に不審がられる前に背を向けたが、
数歩歩いてまた振り返った。
二度目の「ごめんな」は、声にすらならなかった。


学生時代、
自動車雑誌の見開きに載っていたロードスターに、
理屈抜きで恋をした。
社会人になり、ある地方都市に赴任して、
ようやく手にしたときの震えを今でも覚えている。
室内保管を譲れない条件にし、
雨の日はガレージで幌を撫でながら
「明日は走れるといいな」と語りかけた。
仕事で理不尽に打ちのめされた夜は、
誰もいない海沿いの国道を三速のまま流した。
助手席には何度も彼女が乗った。
笑った日も、喧嘩した日も、
あの小さなコックピットがより
僕たちの関係を近づけてくれた気がする。

手放すと決めたのは、
愛着がなくなったからではない。
むしろ逆だ。自分より上手い人が乗ってやれば、
この車はもっと輝ける。
そう思えるほどには、
二年間で自分の未熟さを知った。
愛しているから手放す、という矛盾を、
あの車だけが静かに受け入れてくれた。


あの街の空は、よく泣いていた。

冬の日本海側特有の、
のっぺりとした灰色が何日も続くと、
心まで湿っていくのがわかった。
だが、だからこそ気づけたことがある。
雲の切れ間から不意に差し込む光の、
途方もない美しさ。
川沿いをランニングしていたとき、
水面が一瞬だけ金色に燃えたあの夕暮れを、
たぶん一生忘れない。

行きつけのスーパー。
角を曲がれば見える古い橋。
ランニングシューズの減り具合で
測れるほど馴染んだ歩道。
そのすべてが、
四月を境に「かつての日常」へと変わる。
次にこの街を訪れるとき、
自分はもう住人ではない。
観光客という透明なラベルが胸に貼られ、
同じ景色が少しだけよそよそしく微笑むのだろう。
その予感が、静かに胸を軋ませる。


けれど、すべてが失われるわけではないと知っている。

車は売れる。景色は塗り替えられる。
季節は巡り、
街は自分がいなくても何ひとつ困らず回り続ける。
変わっていくものの前で、人はいつも無力だ。

だが、人の言葉だけは、
距離にも時間にも侵食されない。

「お前はまだまだだが、見込みはある」
と不器用に背中を叩いてくれた上司。
「きっと大丈夫!ファイト!」と、
泣きそうな顔で笑った1つ上の先輩。
そして彼女の、短いけれど真っ直ぐな「頑張れ」。
それらの声は骨の奥に沁みていて、
どこへ行っても鳴り続けるだろう。

一期一会という言葉がある。

出会いの一度きりの尊さを説く言葉だが、
本当に大切なのは「一会」の後をどう生きるかだと、

今は思う。別れが悲しいのは、
そこに確かな温度があった証拠だ。
ならばこの痛みごと抱えて、
次の街で走り出せばいい。

あの街の空は、きょうも灰色らしい。

だが自分はもう知っている。
あの雲の向こうには、必ず晴れ間がある。


いいなと思ったら応援しよう!

10年ぶりのランニングからサブエガを目指す物語 よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!