人形を洗う日/ケジメ羊羹
短期間カウンターに入っていた時にもらったものだから20年以上だ。
ゲイバーでお客さんがくれたシュレックの人形を今も持っている。
何度か一緒に引っ越し、長い時間を共に重ねている。
だがシュレックについては何ひとつ知らない。怪物? 妖精?
映画も観たことはない。
映画といえば「アイ・アム・レジェンド」の中でウィル・スミス演じる「地球上でおそらく唯一の生き残りになってしまった」主人公が、かつて娘のために買ったであろう「シュレック」のビデオを繰り返し観て、セリフを全て言えるようになっていた(それが他の生存者との出会いで明らかになる)。深い孤独を表現する小道具として、また既に崩壊している文明の象徴として、効果的に使われていた。
それだけが私のシュレックについての知識、その全てだ。
もちろん時々は、彼がどんなメッセンジャーとして私に託されたのだろうかと考えはする。映画を観たら謎解きになるのだろうか。「君に必要だと思うよ」という言葉を添えて贈られたのがシュレックだという、その意味が、正しく分かるのだろうか。しかし私はそれを知ったら生き方を変えてしまうかもしれない示唆ではなく、私に示唆を与えようとした彼の思いだけを手元に残した。その温かみだけでいい。
だからその映画は、人生の終わり頃に観ることにする。
話しかけたりはしない。でも時々、洗う。
洗濯ネットをハンモックにして、シュレックが軒下で揺れていた。
そんな夏の日。

別の日。パートナーが社長に持って行けと高い菓子折を用意した。
「うちのからです」と言え、というのだ。存在証明だ。
確かにそういうことが地味に必要だったのかもしれない、と思う。
同性伴侶がいる事実は、それのみでは周囲の想像力を喚起しない。まだ日本は過渡期なのだ。同性パートナーとの生活が、異性伴侶がいるケースとどう同じなのか実感されにくい。身近に性的少数者がいるというインパクトにはなっても、子どもがいるわけでもなく男ふたりであって、世間から眺めた時に、そのふたりが支え合うピースであることや他の家族と全く同じように周囲からの理解や助力を必要としている前提は、意識されにくいだろう。こちらにも遠慮がある。実は遠慮している。カミングアウトしても/したからこそ尚更、支えを求めず生きていけなければと、どこかで思っている。一緒に出掛けたという話さえしない。表面上はともかくそんな話を聴かされたくない人もいるかもしれないと、先回りしているのだ(それが杞憂だと誰に言えるだろう?)。「カミングアウトした後で」生じる遠慮や思い煩いが確かにあったと自覚する。
しかしこうなったら逃げられない。「パートナーからです」と渡した。

社長からの「何の謝罪?」というリアクションで笑ってしまった。確かにとらやの羊羹は本気度が高い。いや、ケジメじゃないですか。ケジメ羊羹?
当初、改めて「パートナーからです」なんて大げさじゃないのかと思いはしたけれど、社長から「同性婚法制化ってどうなってるの」と訊いてもらえて、自分たちカップルには(高市なので)間に合わないだろうと覚悟を決めたけれど、次世代のために芽を残したいんだとか、そんな話ができた。
夜、電話で「おかげでそんな話もできたよ」とパートナーに報告した。「何の謝罪?」の下りで爆笑していた。まさかそこまでがあなたの計算だったのか……? いやまさか。
そんな日記であり、しばらくnoteサボっている言い訳。そろそろ復帰します。悪かったってば。
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