なぜ社会は自然を模倣するのか
「多様性」について、できるだけシンプルに語ってみていいすか。
街を作り終えた時、立ち並ぶビルとアスファルトの道路を眺めながら私たちは思いました。「あれ、どうして小鳥たちのさえずりが聴こえないのだろう」と。虫も啼かない。山を切り崩し整地することを繰り返して、気づけば小さな森や少しの木立ちさえ、私たちは失くしていたのでした。誰かが言いました——「この川には魚も住まないじゃないか」。水道を整備したので川の水を汲むことなど忘れていましたが、排水が流れ込む川は生き物も住まず、濁り、ひどく臭うのでした。「さっきから息苦しいよな。なんだか目も痛いんだ」――空気はひどく汚れ、夜空に星も見えません。「高齢者はどこへ行った。障害者たちの姿も見えない」「子どもが遊ぶ場所もない」――口々に人々は語り始めました。「街をデザインし直そう」、と。みんなが戻って来るように、やり直しがしたかったのです。
私たちは街を作る上で、共有性を大切にしたつもりでいました。しかしそこで暮らす生活者たちについて想像していた同質性は、ごく限定的で、幻想のようなものでした。気づいてみれば、経済や発展の中心的担い手である若く健康な人たちの利便性だけを考えて、都市と社会機能を作っていたのです。「もっと誰もが暮らしやすい社会にしなければ。命や暮らしはずっと多様なのだから」――人々はそう考えるようになりました。子どもを産むには、健康的で安全な環境が大切でした。安心して暮らすためには、老いた時や病んだ時も生きられる仕組みがなければなりませんでした。今度はもっと、丁寧に。注意深く観察してみると、生物多様性も、民族多様性も、性的多様性も、取りこぼしていた視点でした。社会の成熟とは、都市が自然な在り方を取り戻していく営みであったのです。
RYOJI あとがき
「多様性社会の実現」といかにも現代的イシューであるかのように語られる時、私はそれが人々の心にノイジーに響いているのを感じて、居心地が悪くなる。しゃちほこばらなきゃダメ? なんでシャチとホコが出て来んの。こうした取り組みって完成までの長い連続性にある歩みのひとつで、その続きで仕上げで、もっとアーシーなことじゃなかったっけ、と思うのだ。本当に誰もがそこでのびのび暮らせることを目指しているだけ。しつこく「多様性は認めるものじゃなくて見つめるもの」と言い続けて来たけど、ごめん影響力なくて。おれって小っちゃくて可愛いじゃん。だからかな。マジごめん。でもおっちゃん思うんだけど、多様性、怖くないよ。きっと30年後はこの程度の温度感で語られているようなことだよと思って、書いてみました。
記事をご紹介いただきました
タイラー|五感翻訳家|五感解析ラボ主宰 様、ありがとうございます。
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たよろよろ図書館DATABASE 様、ありがとうございます。

