「言語化」と「トレンド」を手放して。私だけの感性を探して。
毎年、何かしら自分でテーマを設定して暮らしているのだが、最近のテーマは「感性を鍛える」「言語化しすぎない」だ。
例えば、最近頑張っていたのが、「私の『かわいい』を見つける」研究。
ポッドキャストでは話したのだが、可愛いものを日々探して、見つけて、じっと見つめて、何が好きなのかを考えるということを繰り返している。
私は「今世の中に可愛いと言われているもの」はわかるけど、「これ、私かわいいとおもう!」が、あんまりない。
「かわいい!」とよく口にするけれど、だいたい「(あ!これ今世の中で)かわいい!(と言われてるやつ〜)」か「かわいい!(と表現するのが適切な対象!)」と思っている。
可愛い以外の感情も似たようなものだ。「面白い(と万人が思えそう)」「感動作(と認識されるタイプのやつ)」という感じ。
こうしていて、特に困ったことは今までなかったし、むしろ皆の好きなものを理解していて得することも多かった。
ただずっと、「好きなものって何?」と聞かれるとわからないコンプレックスを持っていた。そしてそれは年を取るごとに存在感を増してきていた。
私は、私になりたい。そのために、私の心をもっと掘り当てたい。いつしかそう考える時間が増えて、今年は「かわいい研究」含む、感性を鍛える活動に日々時間とお金を割くことに決めた。
しかし、そうしてわかってきたのは、「自分の感性を鍛える」ために必要なのが "「言語化」と「トレンド」から距離を置くこと" だということだった。
こころを圧縮保存すると、ことばになる
振り返ればもうキャリアの半分以上を「言語化のしごと」に使ってきた。一応商品として成立しているのだから、他人よりは「言語化」に強みがあるのかもしれない。
実際、とても大事な友人の結婚式に緑色のドレスを選ぶくらい緑が好きなのだが、理由を聞かれれば「緑が好き。なぜなら、主役でも二番手でもないが、周りから愛されていてチームに不可欠な存在の人に割り当てられる色だし、気持ちが和らぐし、なんか落ち着いているじゃないですか」と口から感情が生まれるみたいにしゃべっちゃう。
しかし、そもそも振り返ってみれば、私がどうして言葉のしごとをしているかというと、日常的に使用している言葉の不完全さに、いつも不自由さを感じているからだった。
私は言葉を "感情を圧縮した便利な伝達媒体" だと思っている。本当は、複雑で膨大なデータを持った "感情" があるけれども、それを「わかり易く」「速く」伝えるために、ある程度共通した意味を持つと把握している "言葉" に変えて渡しているような。
例えば、猫を見た時、本当は「こころの中に湧き上がる温かい気持ちがあるけども、同時にどこか切なさが痛い、でも安らいでいる」というような心の動きがあっても、便宜上私達は「かわいい」という言葉にはめこんで、相手に渡す。
それは、めちゃくちゃ重い映像データを速く送るために画質を落としてデータを軽くすることで早急に相手に渡すような行為にも似ているかもしれない。
言葉は便利だ。みんなある程度意味を共通して理解していて、だから、身体の中にある見えない存在を、わかり合うことができる。
しかし、私の場合は同時に、その、「感情→言葉 の圧縮」を詳細にやろうとすればするほど、こぼれ落ちていくものが気になるような人間でもある。
毎日毎日ずっと、飽きもせず、何十年も寝る前に「ああ言えばよかったかな」「なんか違うように伝わった気がする」「この言葉では適切に表現できていないと思う」と考えている。
特に最近は、インパクトある言葉が人気だしコミュニケーションのスピードもあがっていて瞬発力が必要なので「正しさより強さと速さを優先しすぎちゃったな」と感じることが増えた気がする。それに、言葉がどこに流れ着くかが どんどんアンコントローラブルになっている気がして「こっちのほうが自分の感情に沿っているけれど伝わりづらいから、もう少し毒気や濃度を薄めて誰にでも安全なことばにしておこう」と予防線を多めに引くことも増えた。
誰かに配慮したり、かっこつけたり、すればするほど、言葉は心から遠くなる。自分の心と食い違った言葉で自分を表現したら、心のかみ合わせが悪くなる。よそゆきの言葉で自分を表現しているうちに、背伸びした自分にはなれるかもしれないが、一方で本当の気持ちは消えてしまう。心とことばは相互に干渉しあっていて、使う言葉がこころになるのだ。
だからこそ、「自分だけのためのことば」を持ちたいと思い始め、さらに踏み込んで、私は「感性を鍛える」「感性をことば以外で表現する」方法がないか探り始めたのだった。
自分以外にとって価値のない「すき」を大事にする
しかし、言葉に頼らず自分の感情を整理していくうちに、私がぶちあたったのが、「私は世の中の声を重視しすぎている」ということであった。
トレンドを言語化すること。世の中で今人気なものに合わせて言葉をつくっていくこと。
これも好きが講じて私の仕事の大部分になっている。
それはすごく有り難いことで、なぜならこれも私の小さい頃からの思考を仕事に変えられたと言えるからだ。小さい頃から、いつでもどこでも「人気ランキング」を見るのが好きだった。駄菓子屋さんに行っても「◯◯のお菓子の箱だけいつも新しい。いっぱい売れてるんだ」、本屋さんに行っても「最近この人の表紙の本が増えている。みんな好きなんだ」みたいなことばっかり考えていた。
その感覚は、「自分の好み」より全然役に立つので、ますます考える時間は増えていった。だって「自分の好きなもの」って使える場所なくないですか?
「自分の好きなもの」で幸せになれるのは自分だけだけど、「今沢山の誰かが好きなもの」を理解していると、沢山の人を幸せにできる。
だけど、年齢を重ねるほど、「あなたの好きなものは何?」と問われると答えられないコンプレックスが膨らんでいった。自分の好きなものという芯があって、その上で時代に寄り添っている人がかっこいいと思うようになった。
加えて、感性を鍛えていけばいくほど、「他人はこういうけど、私はそう感じていないようだ」という感覚を無視できなくなった。何故、人と違う感想を抱いた時、罪悪感を感じてしまっているんだろう。
私は、私は自分の感覚を見失いたくなくて、この活動を始めたはずなのに。
そう考えた私は、「言葉」「トレンド」についてのアンテナの高さは私の個性だけれど、それとと切り分けて、「自分の感覚」を大事にしていこう、と決めた。
自分が好きだった映画を他人が酷評していたって、間違いじゃないし、自分が怒る必要はない。そうか、むしろ、他人の意見が嫌でも自分に流れこんでいく時代だからこそ、自分は自分の感性を鍛えたいと思ったのかもしれない。
そう考え直してからは、感性を鍛えるのがもっと楽しくなった。自分がはっきりわかるから、他人ももっとくっきりわかるとまで感じるようになった。そして、他人のどんな感想も、穏やかな気持で見ていられるようになった。
言語化を捨てて。私だけの感性を探して。
最近の傾向を嘆くようなことを書いたけれど、時代の進化は良いことが殆どだ。たとえば、幸いにも、技術が進化したおかげで、「言葉」以外でコミュニケーションできる環境が整ってきた。
すでに5年前(!)だが、愛する友人・おさちゃんと対談している時、最近のワカモノは画像や映像の雰囲気から感じ取る情報が多く、言葉を使わずとも、仲間意識を感じたり、言葉にならない空気感を感じたりしているという話をした。
一気に送信できるデータ量が技術革新によって増えたことで、気持ちを伝え合う手段は、言葉だけでなくなっているというわけだ。いい時代。
そして私も、そんな時代に乗っかって、言葉以外にも頼りながら、研究を進めている。
素敵なものを見たときも(というか、最初はこの感情自体が「これ言葉でうまく表現できそう!」だったことに後々気づく)、「ことばにするな!」と自分を抑えて、じっと見つめる。集める。眺める。とりあえず写真にだけ残しておく。心を観察して味わう。そんな風に、かわいいものや心惹かれるものに触れてみている。
その他にも、沢山映画を見る中で言葉以外で気持ちを保存できないか考えてみたり、嫌いな人のことを言葉にしないまま習慣にして毎日考えてみたり、表情とか写真とか言葉以外の表現方法に自分の感情を託してみたりなどしている。
そうすると、言葉未満の感情が世の中には沢山あることがわかった。色とか風景とか表情とか模様とか質感で、みんな自分を表現して、相手はそれを受け取って、会話しているんだということがわかった。
かばんにつけたキーホルダー、笑顔、Instagramに載せた空、絵文字、等々。言葉は苦手だがそれ以外で表現する人のことが素晴らしいと思えるようにもなった。
母が、カラフルな服を着ている理由に「だって色って元気出るやんか」と語っているのを聞いた。誰かが着ている服には、沢山の意味と感情が纏われている。
言葉は軽くて速くて便利だ。だけど高速通信でコミュニケーションできるこの時代(まーた時代とか言ってる)、複雑で取り扱いの難しい感性に向き合ってみてもいいのではないか。
世界は貴方だけが捉えられる、言葉未満の、輝きに溢れている。
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