北と南の高台には武家屋敷、離れのような台山には天守!【杵築城跡:きつき城下町資料館:武家屋敷群】大分県杵築市
豊後の国(現在の大分県)を鎌倉時代から支配してきたのは大友家。
戦国末期にキリシタン大名として知られた大友宗麟は、北部九州まで席巻しています。ところが同じく鎌倉以来の薩摩島津家が北部へと伸長してくると、当時の中央政権豊臣秀吉を頼ります。
結果、大友家は豊後一国をキープする事には成功しましたが、宗麟没後に後継となった義統は唐入りで失態を犯し、大名としての大友家は消滅します。
以降の豊後は中央政権によって分割され、江戸期には10万石に満たない小藩が割拠するようになります(最大で岡藩70,000石)。
今回の主役は国東半島の東半分を領有した杵築藩の記録です。
現在の国東半島には同規模の自治体が並びますが、大分県杵築市の人口は25,000人。江戸時代には杵築藩の政庁が置かれ、230年に渡って松平家の支流・能見松平家が統治しています。
ちなみに杵築の西隣に位置する速見郡日出町(27,000人)には、全国でも希少な豊臣秀吉系の木下家(ねねの系譜)が統治した日出藩(25,000石)。
小さいながらどちらも個性豊かな町ですが、杵築には古い時代の多くの遺構が立体的に残されています。
町の中心にある高台から東側(海側)を眺めてみると・・・

杵築城跡
杵築大橋の北側、崖の上に見えるのが杵築城。

杵築城の入口エリアには青筵神社が鎮座していますが、本丸へは鳥居をくぐってズンズン進みます(青筵は地元名産の畳表の事)。
車での通行も可能で、奥にも駐車場有。また鳥居の先には内堀が現存。


由緒不明な門をくぐって本丸に出ると、現代的なオブジェが目に入ります。

実はオブジェではなく法政大学創立者のモニュメントでした。
顕彰碑は1993年に法政大学によって設置され、東京法学社(大学の前身)創立メンバーで旧杵築藩士だった金丸鉄と伊藤修をレリーフつきで建立。
もう少し深掘りしてみると、元田直という杵築出身者も関係していたようですが、モニュメントにその名前は見当たりません。
九州といえば、大隈重信(肥前佐賀:早稲田大学:1882年)と福沢諭吉(豊前中津:慶應義塾大学:1858年)を輩出した土地。
杵築の町を歩き回ることで、佐賀や中津よりもはるかに規模の小さな藩から人材が育っていた事実に気づかされます。

天守に至る城跡には多くの石塔(五輪塔)がズラズラと並んだエリアも。
国東半島には多くの磨崖仏が残されていますが、関連は不明。
杵築城とは関連がよく分からないエリアを抜け、ようやく模擬天守に。
昭和期の1970年に建てられた、資料館兼展望所です。
杵築城の源流は1394年にまで遡ります。
築城した木付氏は豊後守護を長く務めた大友氏の庶流。
北は高山川、南は八坂川にはさまれ、その河口の独立した台山上の城という好立地。東側には守江湾が広がっています。

大友義統の失態により大友家は滅亡していますが、木付家の当主も帰国途中の自刃という悲劇によって主家同様に滅亡。
秀吉没後には細川家の所領(飛び地)となり、城代には家老クラスの有吉氏や松井氏が配置されます。この頃に三層の天守が築かれていますが、1615年の一国一城令によって最終的に破却されています。
1645年になると能見松平家が入封。幕末までその支配は続きます。
ちなみに現在の大分市周辺を治めた府内藩(22,000石)もまた藩主は松平家ですが、こちらは別系統の大給松平家。
城の真下に架かる杵築大橋は、大分空港と別府方面を繋ぐ国道213号線。
大分市内と大分空港間を結ぶ交通の選択肢には、最近ホーバークラフトが就航して復活しています(小さなトラブルはあるようですが)。

本丸から望むのは守江湾。その奥が別府湾。
写真の河口左側奥に見えるのは住吉浜リゾートパーク(超遠浅のビーチ)。
右側奥に遠く見えるのは「関サバ、関アジ」の佐賀関半島です。

杵築城:大分県杵築市杵築城山16-1
三層の模擬天守はコンクリート製。
展示される資料類は予想を超えて充実しています。


藩主家の具足とともに、「杵築」の名の由来も展示。

3代藩主松平重休(能見松平9代)に対して、1712年に発給された6代将軍徳川家宣の代替わりの朱印状には、「木付」ではなく「杵築」と明記。
藩は幕府にお伺いの上で表記を変更したという歴史。
自分のミスを認めないのは、お偉いさんたちの常。

展示された江戸期の絵図からは、現在の国道213号線東側が埋立地と分かります。また藩主による書画も充実。

小藩ですが御座船も完備しています。

ここからは、法政大学関係に続く衝撃。
まずはジャブ。誰の兜かと思いきや・・・

石田三成の兄石田正澄所用と伝わる兜。
関ヶ原の戦い後に東軍が流れ込んだ佐和山城(三成居城)での戦利品。
攻め手は関ヶ原での寝返り組(小早川秀秋ら)で構成されていましたが、宮部家伝来というのが引っ掛かります。元浅井氏の家臣系か?
続くワン・ツーのストレート。

具足は浅井長政の次男 万菊丸着用と伝わります。
その足元には、織田信長に落とされた小谷城大広間の焼け炭!
どういう事なのか?
万菊丸は小谷落城後に細川氏の家臣となり、後に直政と名乗っています。
その子孫が松平英親に仕官し、豊後で没したというストーリー。
生き延びていたんですね。豊後で出会った近江のディープな歴史。

実は豊臣系な日出の殿様にも、「大坂城から極秘で落ち延びたプリンス」という超機密ストーリーがあるようです。このあたりが九州の面白さ。
破却以降の杵築城はというと、台山の麓に藩主御殿の石垣や庭園跡がかろうじて残っている程度です(放置気味)。
それではサンドイッチ城下町の異名を持つ南北に分かれた台地は・・・
本丸からは、建物ぎっしりな1本の谷筋と緑豊かな2つの台地が見渡せます。

北台には酢屋の坂、南台には塩屋の坂が今も残っています。
美しく整備されていますが、その名前からは江戸の香りが。

南台その1:きつき城下町資料館

南台にあるきつき城下町資料館は、天守閣を補完するかのような施設。
1993年の開館ですが、模擬天守より建物はモダンで展示品も充実。

きつき城下町資料館:大分県杵築市南杵築193-1

2023年6月 @きつき城下町資料館

ロビーでは天神祭りの随行御所車がお出迎え。
現役の車のようで、資料館は展示&保管場所として機能。

杵築城下のジオラマでは、独立した台地上の城地が分かります。
もちろん資料館にも、藩主家伝来の大名道具類がいろいろと。

ここにもあります御座船関係、こちらの船名額は幕末の大成丸。
その隣にある金色の唐人笠の馬印は能見家3代重吉の武功の証。
徳川家康に献上されましたが、6代重直に返還されています。
その理由とは・・・

そして企画展の三浦梅園関連には、自筆の漢詩や書状に関連書籍が。

ここでのキーパーソン三浦梅園(1723-1789)は豊後聖人と呼ばれ、藩の教育でも重要な役割を担った人。

梅園に加え、日出の帆足万里(1778-1852)、天領日田の広瀬淡窓(1782-1856)の3人は豊後三賢と呼ばれ、その名は復活した3隻のホーバークラフトに命名されています。
展示衣装は杵築歌舞伎のもの。
地域では江戸時代から伝わるという村民歌舞伎。

続いて、資料館そばにある武家屋敷へとお宅訪問。
南台その2:中根邸
中根邸は、家老だった中根氏の隠居宅(1862年)。
建物は平成期に解体修理されています。長屋門は1867年の建築。


中根氏は三河出身、主君松平氏に随行して九州の地に。
隠居屋敷ですが、炉のある座敷に加えて茶室も完備。
床の間には花が生けられ、お庭も奇麗に手入れされています。


武家屋敷には有料と無料の物件が混在しています。中根邸は無料。
規模の大きな武家屋敷は坂を下って上った北台に。

商人エリア

サンドイッチ型城下町と名付けられたのは、武家屋敷が配置された北台と南台の谷間にある商人町の存在から。建物や道は小綺麗に管理されています。
ただ商人町とは言いつつも、地方都市によく見られる閑散とした空気。
酢屋の坂の入口にある建物(写真左側)は、残念ながらサンドイッチ店ではなくておにぎり屋さん(テイクアウト可)。城下町には溶け込みすぎ!

後から調べてみると、ごはん屋だけではなく旅館がメインのようです。
北台の東端にあるのが勘定場の坂。お城を見るには良いスポット。

ここからお城へは坂を下り、また坂を上ります。
藩主御殿がお城の麓に設定されたのは当然といえば当然。
当時通勤したお侍さんには、ほどほどな運動量。

北台その1:磯矢邸
磯矢邸はかつての藩主休息所楽寿亭だったお屋敷。
1816年築とされ、後に家老の加藤邸となって増改築されています。

1916年に磯矢氏の手に渡り、1994年に杵築市へ寄贈。蔵は美術館に。
玄関前には武家屋敷のステイタスアイテムの蘇鉄。
邸内にはお茶室を備え、庭には豊後梅。




床の間には簡素ながら掛軸と花生けを欠かさず。
また部屋によっては琴が彩りを加えます。



お茶室以外の部屋にも炉が切られ、縁側の手水鉢にまで美意識が行き届いています。このあたりは小藩ながらも、武家の矜持を感じられるしつらえ。

北台その2:藩校
藩校学習館は7代藩主松平親賢が三浦梅園の進言を採用して1788年に設立。親賢もたびたび聴講し、自らも講義したそうです。
漢学、国学、洋学、算術から武芸一般までの13科目を習得。
この門は藩主専用の御成門ですが、杵築小学校の門としても現役。

藩校跡には、その名も「藩校模型学習館」が設置されています。
その向こう側にあるのが杵築小学校。

幕末の教授を務めていたのが元田竹渓(1800-1880)。師は帆足万里。
実は竹渓は法政大学設立に協力していた直の父。
明治期にまで繋がっていた、藩士教育の系譜です。

北側その3:能見邸(台の茶屋)

能見邸は、5代藩主親盈の9男から始まった家系の屋敷。
2007年に能見家から杵築市へと寄贈され、解体修理されています。

風情のある侘びた内門から、手入れされたお庭へ。



能見邸の現在は物販コーナーやカフェスペースを備えた「台の茶屋」に。
入館は無料です。


北台その4:大原邸
大原邸は御用屋敷の桂花楼があったとされる場所に建つ屋敷。
家老上席を務めた大原家は、200石取りの格式。


主屋は御殿の移築とも伝わり、長屋門や立派な茅葺屋根を備えています。
玄関前の必須アイテム蘇鉄に、式台玄関の正面には魔除けの赤壁。
さらには池泉式回遊庭園も完備。

赤壁前の花生けも、他の屋敷とは別格。



かまどのある土間に天井を張らないのは、茅葺屋根を燻すためだそうです。


仏間には特殊な天井が設けられています。

弓天井と呼ぶそうで、仏間にあるのは先祖に武芸に励む姿を見せるため。
部屋にはさりげなく弓が置かれています。


藩内の教育や残された屋敷群からは、その格式や矜持が窺える気がします。
それは能見松平家として初めて杵築に入封した松平英親(1625-1706)の血筋に関係がありそうです。
英親の父重直は、実は小笠原家からの養子。
英親の祖父は小笠原秀政、そして祖母が登久姫。
登久姫の父は松平信康(徳川家康の長男)で、母は徳姫(織田信長の娘)。
つまり英親は徳川家康と織田信長の系譜なのです。
将軍からの馬印返還は、能見松平家の徳川家への貢献度はもちろん将軍家にも見られない希少性ゆえでしょうか。


能見邸の庭園もまた、他の武家屋敷とは一線を画した作りです。
池のサイズは段違いで、クセ強な石灯籠に東屋まで完備。
谷側にある商人町の眺めも悪くありません。



東屋からの視点も、変化があって格別。
お屋敷ガイドさんの話では、この庭は松平家以前の可能性もあるとの事。
そうなると肥後細川家による仕事なのか?


杵築は小藩とはいえ見所は多く、また小藩ゆえに歩いて回れるエリア内に興味深いポイントが集まってます。
ただ天守のある本丸をふくめ高台の高低差には、地味に削られるのが体力。
廻るのに丸一日はかかりませんが、お隣の日出町あたりとセットで見れば、ディープな歴史と言い伝えの狭間で楽しめる城下町。

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都道府県別でミュージアムを検索したい方には、こちらのリストを。
東京都内エリアは別リスト化しています。
