『Fovnt Freaks: #47』【MUSIC】暴動のビートと、正義という名のノイズ — 『ドゥ・ザ・ライト・シング』が暴く対話の嘘
まぶたをこじ開けられたFreaksたちへ。
前回の『時計じかけのオレンジ』が提示した冷たい暗闇を抜け、次に私たちが向かうのは、逃げ場のない真夏の太陽に焼かれたアスファルトの上だ。
今号のFovnt Freaksは、「MUSIC(音楽)」の枠組みとして一本の映画のフィルムを解体する。
選んだのは、スパイク・リーが1989年に放った
『ドゥ・ザ・ライト・シング』。
なぜ、この映画をあえて「MUSIC」の枠で届けるのか。
それは、本作において音楽が単なる演出の一部(BGM)ではなく、物語を突き動かし、人々の感情を臨界点まで押し上げる「最大の当事者」だからだ。
映画の幕開けから全編を通して鳴り響く、パブリック・エネミーの『Fight the Power』。また、パブリック・エネミーというところがいい。ストーリーに強さを与えている。
あの重厚で攻撃的なビートは、単なる挿入歌ではない。
それは、システムに抑圧された者たちの血肉であり、沈黙を拒むための「宣戦布告」そのものだ。
さらに、街の交差点ではイタリアン・オペラ、サルサ、ジャズといった異なるルーツの音が激しくぶつかり合う。この映画で起きる衝突のすべては、実は「音の所有権」を巡る闘いから始まっているのだ。
音楽とは、本来ここまで暴力的で、生々しい「摩擦」を生むものだった。そう、音楽とはアイデンティティーそのものだ。
もしあなたが「映画を彩る名曲たち」といったお洒落で耳障りの良い解説を期待してこのページを開いたのなら、今すぐブラウザの戻るボタンを押し、もっと有益で効率的な社会のトレンド(Social Studies)でも追いかけた方がいい。
私たちがここで聴き届けようとしているのは、カフェで流れるような心地よいBGMではない。
社会の底辺で言葉を奪われた者たちが、自らの存在を証明するために鳴らし続けた「爆音のノイズ」だ。
現代の私たちは、音楽をスマートフォンのプレイリストに閉じ込め、ノイズキャンセリングのイヤホンで外界を遮断し、ひたすら「心地よい音」だけを効率的に消費している。音楽はいつの間にか、社会のストレスから逃避するための安全な精神安定剤に成り下がってしまったのではないか。
波風を立てないことを是とする現代のシステムに飼い慣らされた私たちに、この映画で鳴り響く「正解のないビート」はどう響くのか。
真夏のブルックリンの路上で、彼らが命がけで鳴らした「摩擦熱」に耳を澄ませてみよう。
I. 鳴り止まない『Fight the Power』 — 存在証明としてのノイズ
映画の幕開け、ロージー・ペレスがボクシンググローブをつけて激しくシャドーボクシングをするタイトルバック。そこで鳴り響くのが、先ほども触れたパブリック・エネミーの『Fight the Power』だ。
なぜ、彼らの曲でなければならなかったのか。
当時のパブリック・エネミーは、単なるラップグループではなく、ストリートの怒りを代弁するメディアそのものだった。彼らのサウンドは、サイレンやスクラッチ音が不協和音のように絡み合う、まさに「ノイズ」の塊だ。
この強烈なアイデンティティーの塊を、物理的な「武器」として持ち歩く男がいる。
それが、「レディオ・ラヒーム」という名の黒人の青年だ。
彼は映画の冒頭から終わりまで、ほとんど言葉を発しない。
彼のコミュニケーション手段は、肩に担いだ巨大なラジカセから、最大ボリュームで『Fight the Power』を鳴らし続けながらブロック(街区)を練り歩くことだけだ。
「うるさい! ラジオのボリュームを下げろ!」
彼がすれ違う者たちは皆、口々にそう罵声を浴びせる。
社会の定規(Social Studies)で測れば、ラヒームはただの「迷惑な騒音を撒き散らすならず者」に過ぎない。他人の迷惑を顧みず、自分の好きな音楽を爆音で垂れ流す行為は、常識的に考えれば「間違っている」だろう。

しかし、Fovnt Freaksの視点から彼を見た時、そこには全く別の切実な真実が浮かび上がってくる。
ラヒームには、権力に抗議するための知的な言葉も、社会のシステムの中で正当に評価されるような地位や財力もない。
彼が持っているのは、あの巨大なラジカセと、自らのアイデンティティー(V)を強烈に代弁してくれるヒップホップのビートだけなのだ。
もし彼が、社会のルールに従ってラジカセのボリュームを下げ、行儀よく黙り込んでしまったらどうなるか。
彼は完全に「透明な存在」として、この街の風景と同化し、巨大なシステムの中に飲み込まれて消滅してしまうだろう。
彼が鳴らし続ける爆音のHip Hopは、「俺はここにいるぞ」という悲鳴にも似た存在証明だ。
社会の「静かにしろ」「波風を立てるな」「空気を読め」という目に見えない圧力に対して、決して従わないという絶対的な拒絶。それが、あの耳をつんざくようなノイズなのである。
私たちはどうだろうか。
モノづくりや表現の現場において、他人に「うるさい」「理解できない」「空気が読めていない」と眉をひそめられることを恐れ、無意識のうちに自分自身の「ラジカセのボリューム」を下げてはいないだろうか。
社会の正解(Social Studies)に合わせて角を丸め、ノイズを消し去り、誰の耳にも障らない「心地よいBGM」のような表現ばかりを大量生産していく。それは一見、賢く効率的な生き方に見える。
だが、自らのノイズを消し去ることは、ラヒームがラジカセを捨てることと同じだ。それは表現者としての緩やかな「死」を意味する。
たとえ誰かに「ただの騒音だ」と切り捨てられようとも、自分だけの偏愛と初期衝動が詰まったビートを、最大音量で鳴らし続けること。
ラヒームの巨大なラジカセは、去勢された現代のクリエイターたちに対して、「お前は本当に自分の音を鳴らしているか?」と、痛烈な問いを突きつけているのだ。
II. サウンドトラックの衝突 — 誰の「正義(ビート)」が正しいのか

映画の舞台となるブルックリンの1ブロック。
猛暑という名の圧力釜の中で、限界まで熱せられた空気には、いくつもの異なる「音楽(アイデンティティー)」が充満している。
レディオ・ラヒームが鳴らす怒りのHip Hop。
路上でたむろするプエルトリコ系の若者たちが流す、陽気なサルサ。
そして、この街区で長年ピザ屋を営むイタリア系の店主サルが愛する、古き良きイタリアン・ポップス。
この映画の中で、音楽は決して綺麗に混ざり合うことはない。
象徴的なシーンがある。
ラヒームが巨大なラジカセからパブリック・エネミーを爆音で鳴らしながら歩いていると、サルサを流しているプエルトリコ系の若者たちと路上で鉢合わせる。彼らは互いの音楽を「うるさい」と牽制し合い、相手の音をかき消すように、互いのラジカセのボリュームを限界まで上げ合うのだ。
傍から見れば、ただの子供じみた意地張りに見えるかもしれない。
だが、Fovnt Freaksの視点を通せば、これが単なる音量勝負ではないことがはっきりと分かる。
これは「俺たちのルーツ(V)を、お前らのルーツで塗り潰させるものか」という、アスファルトの上での凄惨な陣取り合戦なのだ。
ピザ屋「サルズ・フェイマス・ピザ」の店内で起きる口論も、本質は全く同じだ。
店主のサルは、壁(ウォール・オブ・フェイム)にフランク・シナトラやアル・パチーノといったイタリア系のスターの写真ばかりを飾っている。それを見た黒人の若者(バグギン・アウト)は激怒し、「客は俺たち黒人なんだから、マルコムXやマイケル・ジョーダンを飾れ」と猛抗議する。
「ここは俺の店だ。俺の店にはイタリア系を飾る」というサルの正義。
「黒人の街で黒人が金を落としているんだから、黒人を飾るべきだ」というバグギン・アウトの正義。
どちらの主張にも、彼らのルーツとアイデンティティー、そして自分の正義(Right Thing)が根張っている。
学校の道徳の授業(Social Studies)では、「互いの違いを認め合い、歩み寄り、みんなで一つの歌を合唱しましょう」と教えられる。それはとても美しく、効率的で、誰も傷つかない「社会の正解」だ。
だが、ストリートの現実は違う。
異なるアイデンティティーを持つ者同士は、どうしても「ノイズ」を作ってしまう。
綺麗に和音を奏でることなどない。交差点で激突し、互いの鼓膜を破らんばかりの不協和音を生み出し、どうしようもない摩擦熱を発するだけだ。
誰のビートが正しいのか? 誰の正義が間違っているのか?
答えは「全員正しく、全員間違っている」だ。
社会が押し付ける「唯一の正解」など、この熱気の中では一瞬で溶け落ちてしまう。ただ、それぞれが己のビートを鳴らし、不器用にぶつかり合うしかないのだ。
私たちは、この「綺麗に混ざり合わない不協和音」の生々しさを、直視しなければならない。
モノづくりにおいて、すべての人に理解され、すべての人の耳に心地よく響く「正解」を作ろうとすることは、この激しい摩擦熱から逃げ出すことに他ならない。
他者との衝突を恐れて自らのビートを取り下げた時、私たちの表現は温度を持たないただの工業製品へと成り下がるのだ。
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