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波の音の幻聴が酷いので病院に行ったら、頭の中に海ができていた│シロクマ文芸部

頭の中の太平洋



波の音が聞こえる。


ザザーン……。
ザザーン……。

もう三週間になる。
耳の奥、いや頭の中心のあたりで、寄せては返す波の音が鳴り止まない。

会議中も、飯を食っている時も、風呂に入っている時ですら聞こえる。
むしろ風呂の時が一番よく聞こえる。
BGMが充実しすぎている。

上司の説教すら、俺の中では潮騒とセットで再生されるようになっていた。

「来月の売上目標だが」

ザザーン。

「お前の詰めが甘い」

ザザーン。

もう説教なのか波の音なのか、区別がつかない。


「いよいよ脳の病気かもしれない」

俺は覚悟を決めた。

ネットで調べた限り、幻聴は脳腫瘍の初期症状にも該当するらしい。
命に関わる話だ。
震える指で予約を取り、大病院の脳神経外科の門を叩いた。

待合室で順番を待つ間も、ザザーン、ザザーンと律動的に鳴り続ける頭の中の海を抱えながら、俺は自分の名前が呼ばれるのをただ待っていた。

診察室。
神妙な顔をした白髪の医者が、俺のMRI画像をモニターに映し出す。
ライトペンで画像の一点を指し示しながら、低く重い声で言った。

「これ、見えますか。ここ、黒い影がありますね」

来た。
ついに来た。

俺は生唾を飲み込む。
心臓が波の音に負けないくらいのテンポで鳴り始めた。

「……腫瘍、ですか」

声が震えた。

医者は画像をじっと見つめたまま、少し首を傾げた。
まるで何かをを吟味するような目つきだった。

「これね、マグロです」

「マグロ!?」

思わず立ち上がった。

マグロ。
あのマグロなのか。
回転寿司でいつも大トロだけ狙って親に怒られるあのマグロが、俺の頭の中にいるという。
しかも医者の口ぶりは、まるで水槽の中を覗き込んでいるかのように自然だった。

困惑する俺に、医者は淡々と続けた。

「最近、ストレスが溜まって『海にでも行って休みたい』と考え続けませんでしたか?」

言われてみれば、毎日のように思っていた。

デスクで数字と睨めっこしながら、心の中で「ああ、海……」とつぶやいていた記憶がある。
休憩時間にスマホで海辺のリゾート写真を検索していたことすらある。

「そういう想いが募ると、脳内に本当に『海』ができてしまうんです。波の音はその潮騒ですね」

「そんな不動産みたいなノリで海ってできるんですね」

「そして、海ができた以上、そこに生物が湧くのは自然の摂理です。あなたの脳内には現在、立派なマグロが回遊しています。推定体長5センチ、脂の乗りも良好かと」

医者は誇らしげでさえあった。
まるで俺の頭の中の生態系の豊かさを喜んでいるかのようだった。
喜ぶな。
カルテか何かに「良好」と書き込むな。

「昔は頭蓋骨を開いて手術……大がかりな漁をしていたんですが、今は技術が進歩したのでそこまでしなくてもいい。『経耳式ルアー法』でいけます」

「経耳式、というのは……」

「文字通り、耳からルアーを垂らして釣り上げる方式です。開頭に比べれば圧倒的に低侵襲で、なんといっても回復が早い」

「経耳式」という響きに嫌な予感しかしなかったが、開頭よりはマシだろうと自分に言い聞かせ、俺は手術室へと運ばれることになった。

ストレッチャーに乗せられながら、俺はまだ半分納得していなかった。
人間の頭の中に、本当に海があって、本当に魚がいるなんてことがあるのだろうか。

しかし目を閉じれば、あの波の音は今もはっきりと聞こえていた。
信じるしかなかった。


手術室の扉が開く。
現れた執刀医を見て、俺は自分の目を疑った。

白衣こそ羽織っているものの、浅黒く焼けた肌、盛り上がった僧帽筋、大きなサングラス。
手には白衣に不釣り合いなクーラーボックス。
腰には、なぜかルアーケースを提げている。

どう見ても漁師だった。

「よう、兄ちゃん。今日は大物が回ってきてるらしいなあ」

そのじいさんは軍手を白い手袋に持ち替えながら、実に嬉しそうに笑った。
俺はここが病院なのか波止場なのか分からなくなってきた。

「先生、本当に大丈夫なんですか……」

「兄ちゃん、俺のあだ名は知ってるか?『脳釣りのダイちゃん』よ。この道三十年、外したことは一度もねえ」

その自信はどこから来るのか分からなかったが、とりあえず頷くしかなかった。

「経耳式ルアー法」は、想像していたよりずっとシュールだった。

じいさん医師は極細のルアーを取り出すと、それを俺の耳の穴からするすると挿入していく。
奇妙なことに痛みは全くない。
むしろ、耳の奥深くで「ちゃぷん」という水音がした気がした。

「潮の流れが良い日は釣れる。今日はどうも……いい感じだな」

じいさんは耳元に顔を寄せ、まるで水面を見つめる漁師のように目を細めた。

「よーし、垂らすぞお」

竿はないが、竿さばきの動きだけがある。
じいさんは見えないラインを繰り出すように手首を返し、時折ぐっと止めては様子を伺う。
まるで本当に脳内の海と対話しているようだった。

看護師の一人が小声で「今日は潮が良いですもんね」と呟いたのを、俺は聞き逃さなかった。
この病院、みんなこの空気に慣れすぎている。

そして、来た。

俺の頭の中で、ドン、という激しい衝撃が走った。アタリだ。

「来た来た来た! 大物や!」

じいさんの顔つきが変わる。
漁師の目になっている。
風もないのに白衣がはためく。

看護師たちが固唾を飲んで見守る中、じいさんは腰を落とし、耳の穴からゆっくりと、しかし確実にラインを引き上げていく。

「引くな引くな……まだまだ……よし、ここだ!」

「乗ったあ!よっしゃあああああああああ!!!」

耳の穴から、体長5センチ程のミニマグロが勢いよく引き抜かれた。

ビチビチと跳ねるマグロを、じいさんは慣れた手つきで押さえ込む。

手術室に拍手が起きた。
誰が拍手しているのか分からないが、とにかく拍手が起きた。
看護師の一人はガッツポーズまでしていた。

「兄ちゃん、見てみろ。これはなかなかの型だぞ」

じいさんはマグロを掲げて誇らしげに笑った。
俺は麻酔でぼんやりする頭で、それを他人事のように眺めていた。
自分の頭から釣られた魚を見て感動するべきなのか、恐怖するべきなのか、判断がつかなかった。

無事に摘出――もとい、漁が完了した。

記念にと、俺は摘出されたマグロの魚拓を手渡された。
達筆な筆文字で「祝・大漁」と書かれている。
誰がこの筆文字を書いたのか、そこだけはどうしても聞けなかったが、おそらくじいさんだろうという確信だけがあった。

医者からの忠告はこうだった。

「病巣源であるマグロは取り除けたので、1週間くらいで海も干上がって波の音は消えると思います。でも、とにかくストレスを溜めないようにね」

「はあ……」

ストレスを溜めるなと言われても、頭の中に海ができるようなストレスフルな日々を送っているのは俺のせいではないのだが、とは言えなかった。

俺はただ、魚拓を丸めてカバンにしまい、病院を後にした。


一ヶ月後。

医者の言った通り、波の音は完全に消えた。

すっかり元の日常に戻り、俺はあの一件を「まあ、そういうこともあるか」くらいの気持ちで受け流せるようになっていた。

人間、慣れというのは恐ろしい。魚拓は今も引き出しの奥にしまってある。
時々見返しては、あれは本当にあったことなのだろうかと考える。

ところが、最近になって、また妙な音が聞こえ始めた。

カサカサ……。
カサカサ……。

木の葉が揺れるような、乾いた音。
それに混じって、ピーチクパーチクという、小鳥のさえずりまで聞こえてくる。

「まさか」

嫌な予感しかしなかった。
今度はもっと厄介な何かが、頭の中に育っている気がした。

俺は再び、あの病院の診察室の扉を叩いた。

受付の看護師は俺の顔を見るなり「あ、また来ましたね」というような表情を浮かべた。
常連になってしまったらしい。

医者は俺の顔を見るなり、すべてを悟ったような表情を浮かべた。
そしてモニターに映し出された新しいMRI画像を、静かに、しかしどこか達成感すら滲ませた声で告げた。

「山ができてますね」

俺は膝から崩れ落ちた。

診察室の隅で、あのじいさんが早くも軍手を外し、代わりにナタと籠を用意しているのが見えた。




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●おまけ 『ざぶんざざぶん/乃木坂46』


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