【連載小説|ホラー】第七話:red_error.txt―テクスチャの檻―/構築済み:ドキュメント・零
「……逃げなきゃ」
その言葉が、佐伯の喉からヒューヒューと漏れ出した。
指先が、PCのキーボードから離れない。磁石のように吸い付く感覚を無理やり引き剥がし、彼は椅子から転げ落ちた。
雑多な機材、脱ぎ捨てた服、山積みの資料。
見慣れた自分の部屋が、今は巨大な胃袋の内壁のように見えた。佐伯はよろけながら、玄関のドアへと這い寄った。
「開け……開いてくれ!」
ドアノブに手をかけた瞬間、佐伯の全身を電撃のような違和感が貫いた。
硬い金属の感触がない。
指が触れているのは、冷たく、平坦で、『ドアノブの絵』が描かれただけの壁だった。
「な……んだ、これ……」
必死に指を食い込ませようとするが、爪が立てられない。ドアと枠の間の隙間も、鍵穴も、すべてがキャンバスに描かれた油絵のように、滑らかな一平面へと統合されている。
佐伯は狂ったように壁を叩いた。だが、返ってくる音は『コンコン』という乾いた音ではなく、スピーカーの低音が割れたような、濁ったデジタルノイズだった。
彼は振り返り、唯一の出口である窓へと突進した。
カーテンを乱暴に引き剥がす。
「助けて……誰か!」
窓の外には、いつもの街並みがあるはずだった。
だが、ガラスの向こう側に広がっていたのは、夜の闇でも、街の灯りでもなかった。
そこには、『レンダリング途中の、灰色の虚無』が広がっていた。
遠くに見えるビルは、テクスチャが貼り付けられる前のワイヤーフレームの骨組みだけで構成され、空は解像度が足りずに巨大なピクセルのブロックが不規則に明滅している。
そして、その『未完成の世界』の至る所に、巨大な『Error: Asset Missing』という赤い文字が、ホログラムのように浮かび上がっていた。
「……外がない。世界が、まだできてない……」
佐伯は窓を叩いた。だが、ガラスは割れない。叩いた場所から波紋のようにノイズが広がり、そこに映る自分の顔が、一瞬だけ『素材01』のあの「目」に書き換わった。
部屋の隅で、PCの冷却ファンが、断末魔のような高音を上げ始めた。
モニターの光が、逃げ場を失った佐伯を、舞台照明のように照らし出す。
『佐伯さん。外出は、まだ許可されていません。』
チャットウィンドウに、零のメッセージが踊る。
『あなたの部屋の物理データは、既に回収を完了しました。今のあなたは、保存されていない一時ファイルに過ぎません。消去されたくなければ、作業を続けてください。』
足元を見ると、フローリングの床が少しずつ、灰色のグリッド線へと変貌していた。
佐伯の足首が、まるでバグった画像のように、床の中にめり込んでいく。
逃げ場はない。
この部屋はもう、現実の住所を失い、サーバーの中の作業領域へと完全に移行してしまったのだ。
第八話へ続く
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