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神話と神話をつなぐ謎世界7 三つの神社

北陸最北の越後国に、三つの「一宮いちのみや」がある。という話を書いてみた。

それらは別に通り過ぎてもいいし、儀礼的に参拝してもいいし、深く信仰するのも自由だし、気にしなければそれでもよいという普通の日本の神社だけど、私はそんな神さまのご利益りやくとかではなく、なぜそれらはそこにあるのだろう?ということが気になってしかたがなかった。

三つの異なる系譜の神々が、それぞれ一番を主張してきたこの辺境の地に、どんな歴史があったのだろう?

それらの神社について考えてみることで、語られていない地元の過去が見えてくるのかもしれない。



「国津神」を祀る「居多神社」(上越市)


三つの「越後国一宮いちのみや」の中で一番古いと思われるのは、越後国府の置かれていた上越市の、イズモ神を祀る「居多こた神社」だと思われる。

上越海岸の居多ヶ浜付近に鎮座する、越後で最も古い神さま

Wikiペディアには「神代の古跡」であると書かれているが、この神社はどうやら能登のケタ大社から御子神が分かれてきたものらしい。

ケタの御子神は、飛騨や但馬にも見えるし、そう考えるとコシの本拠は本来、能登半島にあったのかもしれない。

そういえば、能登の周辺世界はコシ国の中央にあって、特異な雰囲気を漂わせている。

律令によって与えられた国名も、石川県エリアだけ「越」の文字を持たなかったし、戦国時代には武士を追い出して、阿弥陀仏を奉じる農民の自治国として大名勢力と張り合っていたり、古来より受け継がれた「姓」を、歴史の中にきれいさっぱり捨て去っていたり、修験道の聖地を育てたり、どこか自立した精神性を持っているようにも思える。

古いコシ国の中心が能登半島にあったのなら、コシ人はどこかからやって来た外来の民族集団であった可能性も高いと思える。

そういえば、能登とか佐渡とか、本土から遠く離れた半島や島には、敵襲を知らせる「太鼓」の風習があったのだ。

絵がへたくそで伝えられていないけど、能登の御陣乗太鼓は迫力満点 

現代では芸能として評価され、アートとしての磨きをかけられているけれど、かつて海からの侵入者に対する警戒心から生まれた激音の文化だと思われる。

能登の「御陣乗太鼓ごじんじょうだいこ」は上杉謙信が攻め込んだ時に「復活」して、今に伝わっているのだという。

能登の付け根にある雨晴海岸から臨む本土。この富山湾は天然の生簀。コシ人はこんな魚介の豊富な海を求めてやってきた海人だろうか。ここでは雪山から冷たい水が海に流れ込む影響で、季節によって蜃気楼が発生するらしい。

「ケタの御子神」が祀られたとされるコタ神社は、名前だけでは一体どんな神社なのかさっぱりわからないのだけど、「コシ」「ケタ」と同じように二音で「コタ」という名前なので、「コシ国」と密接な関係を持っていたことはまちがいないだろう。

三つの社号

そもそも、「コシ国」というのは何なのかというと、若狭湾の「ケヒ」から、能登半島の「ケタ」、そして佐渡手前の「コタ」までの領域を包括する日本海沿岸エリアのことだとされている。

この「カ行」で始まる独特の名前は、どこからやってきたのか、あるいは土着から発生したものか、それがどんな民族のものだったのか、こじつけと思われる説明以外は全く不明なのだけど、現在は北陸地方の神社の名前としてその名を残している。

越前の「気比ケヒ神宮 祭神 伊奢沙別命いざさわけのみこと 他」

能登の「気多ケタ大社 祭神 大己貴命」

越後の「居多コタ神社 祭神 大国主神 他」


それぞれの神社の社領を併せたものが、古きコシ国だったと思われるのだけど・・・それにしてもなぜかここにも、天津神系の「神宮」と、国津神系の「大社」と、その他諸々の「神社」の三つが揃ってしまう。

同じ「コシ国」の聖地なのに、この系譜を示す社号のちがいはいったい・・・何で?

塗り替えられた気比神宮?

考えられるのは「気比神宮」が、祭神にもなっている仲哀天皇と神功皇后と更に応神天皇という、朝鮮半島とかかわりの深かったこの時期の皇室と、関係がとても深かった、ということだろう。

歌川国芳 - Waseda University Theatre Museum, Ukiyo-e.org A. [1] B. [2] C. [3], パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=425117による「日本史略図会 第十五代神功皇后」

朝鮮半島とのつながりが増え、三韓征伐やら何やら大変だった時期に、ケヒの置かれた立場は、朝廷と外世界の関係においてとても重要な位置にあった筈である。

この時に、イズモ神を祀る神殿は「ケヒ」という名前だけを残してヤマトの皇族を祀る神殿に塗り替えられたのかもしれない。もともとはスサノオか大国主が祀られていたのではないかと、勝手に推測している。

コシ固有の神さまは?

ケヒだけが特別、現王朝の関与を受けたのだろうし、だから「神宮」なのだろう。でも、神功皇后が祭神として登場する前からもこの神社はあったはずである。

二音で発音するコシ国の主祭神は大国主などイズモの神さまたちであるはずである。コシ固有の古い神さまが祀られることはない。

ところで、本当にコシ国には固有の神さまがいなかったのだろうか?ちょっとひっかかる。

何となく、黒龍とか、あるいは黒姫とか、黒とか水とかに関係する神さまをコシという世界に感じるのは私だけだろうか・・・と、ちょっとまて。黒とか水とか・・・今これを書いて「あっ」と思った。

「黒」と「水」と「龍神(蛇神)」と「黒い貴人」そして「越」。

なんだこれ全部、とある世界を示しているではないか。草薙の剣も、それがなぜコシの怪物の中なのか、なぜ貪欲に生贄いけにえを欲したのかという謎も、ここから解けるかもしれない。

ちょっと妄想して独りゴチてしまったけど、この話は全く別のことだから、今これを書くと支離滅裂になるし、別のテーマでしっかり調べてから触れることにしよう。

やっぱり、「古事記」に書かれているように、スサノオに退治されちゃった「生贄」を欲する怪物神が、コシの神さまだったように感じる。退治されて怪物は、イズモの地祇ちぎつまり人間の神さまに入れ替わったのだ。

怪物は、神さまというよりも「水の国のトーテム」なのかもしれない。

古い時代のコシ国で祀られた神さまは、婚姻を結んだヌナカワヒメも含めてみんなイズモ系。

それゆえ神社というもの自体は、コシ国を取り込むためにイズモが持ち込んだ、信仰によるまつりごとの場だったのかもしれない。

イズモ神がやってくる前、「カ行」で始まる「ケヒ」「ケタ」「コタ」は、果たして地域や部族の名前だったのだろうか、神の名前だったのだろうかは不明である。

「別系天神」を祀る「弥彦神社」(弥彦村)


居多こた神社」の次に古いのは「弥彦やひこ神社」だろう。

何の根拠があってそういうのかといえば、オヤヒコさまにこの地を「開拓せよ」と命じたのは、神武天皇であったということが社伝にあるらしいからだ。

神武天皇の立場であれば、それはありうると思う。

追いやられた高倉下

弥彦神社の祭神は「天香山命あめのかごやまのみこと」。ニギハヤヒと共に「天磐船あめのいわふねに乗って天から舞い降りた「別系」の天神ニギハヤヒの御子である。

「弥彦」の意味を「いよいよ貴い一番の 男子」と文字通りに解釈すれば、確かに高貴な家柄の長男を意味している。

この神さまは、日本書紀に「熊野の高倉下たかくらじ」として登場する神さまでもある。彼は神武天皇にニギハヤヒ政権を引き渡すための案内人となっていた。

神武政権にとって、功績のある人物がなぜ辺境に追いやられる?

「高倉下」を「高(御)座たか(み)くら」つまり玉座をくだす者と解釈すれば皇太子だったのかもしれないとも思えてしまう。

そう考えれば、自分の甥っ子をその座に就かせたい土着の外戚ナガスネヒコの勢力と対立していたり、別勢力の力を借りてまでナガスネヒコ勢力を権力から排除したかった背景も納得できる。

神武天皇に王権を差し出した時点で、「高倉下」という称号は消えたのであろうが、新政権にとって功績あるこの人物はむしろ、ある意味危険人物でもあったかもしれず、遠ざける理由はあったと思える。

本人にその気がなくてもその血筋によって内乱が起きかねない。こちらは嫡子であり、おそらく母親が神族ではないウマシマジとはもとより格が異なる人物なのだ。そばに置くべきではないだろう。

神武天皇が即位した後、天香山命はコシの開拓を命じられ、現在の潟県長岡市寺泊野積の米水浦よねみずがうらに上陸したことが弥彦神社の社伝にあるという。

第六代孝安天皇元年にコシの開拓を終えて亡くなり、弥彦山に葬られたらしい。

そして第十代崇神天皇の御代に、建諸隅命が弥彦神社の社殿を造営したとされている。それまでは陵墓としての弥彦山が崇められていたのかもしれない。

「天神」ではあるけれども、現王朝の系譜ではなく、ニギハヤヒの天降りに随伴した「別系」であり、尾張の祖神であったり、熊野の神ださまったり、新潟北部を開拓した神さまだったりしている、謎多き神さま。

ところで、ニギハヤヒの天降りに供奉した「二十五部人」の筆頭に「二田物部氏」がいるが、この系譜もコシの「出雲崎」の南にあって、北の「オヤヒコさま」と共に、イズモ族を押さえ込んでいたのかもしれないと感じさせる。

コシ国を開拓せよと言われて米水浦よねみずがうらなる海岸を選んで上陸したそのわけは、一体何だったのだろう?

いや、それより西の世界のはじっこからやってきた神武天皇が、何でいきなり「コシ」という未知なる辺境の開拓を命じたのか、それも謎である。

社伝に記載されていない「理由」が気にかかるのだ。

実は、この地にいてこそ気づくことになる、そっちの話を書いてみたくて、新潟の聖地の詳細をここに書いている。

「天津神」を祀る「天津神社」(糸魚川市)


さて、上越地方にはもうひとつの「越後国一宮いちのみや」がある。

ヌナカワヒメゆかりの地にあり、奴奈川神社と並んで立っている「天津神社」である。

そこは、崇神天皇の時に、やまと国造の椎根津彦しいねつひこの後裔である久比岐くびき国造が着任したエリアと思われる。

「天津神社」は崇神天皇の孫にあたる景行天皇時代の創建というが、これはおそらく、ヤマトタケルの東征と関係がありそうである。

ヤマトタケルの物語は創作が多いとしても、東征の将軍は痕跡を残している。

ヤマトタケル

そういえば、日本には盛沢山の面白い神話があるのに古代史を扱ったドラマや映画は少ない。

古代史をドラマ化するには、予算もかかるし、日本では不敬罪は廃止されたとはいえ、現王朝の前で面白さを狙うストーリー展開は物議をかもす危険性もありそうで、むやみに立ち入れないのかもしれない。

その中で「ヤマトタケル」という映画が昔あったことを思い出してAmazonのレンタルで視聴してみることにした。

まるであの円谷プロ作品のような怪獣映画だったのでびっくりした。

日本神話の中で謎めいている「ツクヨミ」と「ヤマタノオロチ」と「アメノムラクモ(クサナギ)の剣」と「スサノオ」が暗躍する。

ほぼイズモ神話のキャラをヤマトタケルが打ち負かすスファンタジーなので、物議は問題なさそうだが、これがまるでギリシャ神話の古族テューポーンと新族ゼウスの戦いを彷彿させた。

メソポタミアなら、さしづめシュメールのティアマトとバビロニアのマルドゥクだろうか、新vs旧の神さま交代劇は大陸神話の影響で、ヤマタノオロチみたいな怪物が登場するのだろうか。

シュメールの龍神ティアマトを追い払うバビロニアの太陽の牡牛のマルドゥク

日本ではヤマタノオロチ vs スサノオとなっているのだが、スサノオが自分の代わりにヤマトタケルを送り込むというのが映画のストーリーになっていた。

あれ?牛頭天皇スサノオは・・・マルドゥクが元ネタ?そもそも牛頭天皇は神仏習合から発生しているので、中央アジアで混ざり合った話がまぎれ込むのはありえるかも。

東夷と蝦夷

ところで、ヤマトタケルが東征する前に、史書では武内宿祢が下見をしているのだが、日高見国の倭人そのものと思える習俗について、宿祢はまるで他人事のように分析して語っている。

つまり、ここでヤマトには倭人特有の入れ墨文化等がないことがわかる。旧唐書にも「日本やまと国は国の別種」と書かれているので、神武天皇やニギハヤヒの率いた「天族」は非倭人だと確信している。

ヤマト神話に登場する「海幸」が倭族であり「夷」の親玉つまり「倭王」なのではないかと思えてしまう。倭族が海の民族たることは魏志倭人伝の記述にしっかり書かれており、なぜ入れ墨をするのか海人としての由来も書かれている。

「山幸」はもちろん陸の民族だ。ヤマト族の祖として日本の史書は扱っている。海と山の兄弟ゲンカの末、「山幸」が味方につけた海神さまは、おそらくかつて失脚した金印倭王の系譜なのではなかろうか。「太伯の裔」が中華の史書で揚々と勢力を盛り返す謎はそこで解けるかもしれない。

「夷」の中で、特に狂暴なのが「蝦夷」と史書に書かれている。「東夷」と「蝦夷」ではやはり意味するものがちがうようだ。

「蝦夷」が反乱をおこしたので九州を討伐した直後のヤマトタケルが再び討伐に向かうハメになる。

ヤマトタケルは東の地を「アズマ」と呼び、アズマのえびすをやりすごし、コシとシナノの抵抗を報告し、コシを吉備武彦きびのたけひこに任せてシナノに入り、そこからオワリに入ってその地で終わりを迎えた。

コシの様子は史書に書かれていないけど、その様子を探るべくコシに向かった吉備氏もまた四道将軍の一派である。ヤマトタケルに代わってコシ平定の策に尽力したと思われる。

「天津神社」はその前後で創建されたものと思われる。

景行天皇の東征時代にイズモ色の濃いコシに「ヤマトの神々」を祀り、やまと国造の椎根津彦しいねつひこの後裔である久比岐くびき国造を助け、ヤマト勢力を北へ伸ばすために「天津神社」は重要な役割をなしていたと思われる。

「天神神社」が置かれたくびき地方

コシ国には「夷」の痕跡を示唆する地名が多い。

プロ将軍の吉備氏や由緒ある国造という面々がコシ国に派遣され平定を任された痕跡ではないかと思える。

それで、この地の名前が「くびき」なのだろう。これは歴史用語としても使われるちょっとおそろしい名前で、昔からなぜこの名前なのか気になっていた。

韓国ドラマの「アスダル年代記」を見ていたら、ゾクっとした。原住民がそこにいただけで牛や馬のようにくびきにつながれる。「ああ、これがクビキなのだ」と自分の住む場所のいにしえの姿を見たような気がしてしまった。

自ら変化する意思も必要もないのに、外部からやってきた人物や文化や圧力によって変化し、巻き込まれてていくという性質は、この地では大昔から続いてきたらしい。

Saclaの 古代Note