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弱さを抱えたまま生きる〜『劇場版ちいかわ 人魚の島のひみつ』に思う

日曜日の午後、所用が終わって雨の神保町を歩いていたら、なんだかむしょうに淋しい気持ちになり、なぜかカレーが食べたくなった。

適当な店に入り、運ばれてきたカレーには生卵が乗っていて、うん、これこれ、と心の中の井の頭ゴローさんが喜ぶのを確認しながら食べていたら、ふと先日観た『劇場版ちいかわ』のことを思い出した。

そうだった、確か、仲間とはぐれたちいかわが、行き倒れ寸前に...

その時、隣のテーブルにいた20代くらいの3人組の女性たちのうちのひとりが突然、何の前触れもなくその続きを話し出したので驚いた。

「そこでひとりぼっちになったちいかわがな、島二郎の店にたどり着くんやけど、その店でカレー出されて食べてな...」

絵に描いたような共時性である。

しかし、それ以上に私を驚かせたのは、その女性のちいかわへの異様ともいえる熱弁ぶりだった。

大の大人が、『劇場版ちいかわ』のあらすじを、まるで自分の身に起こったことのように生き生きと話すのである。

これと同じテンションを、私はいつか、恵比寿の飲み屋で目撃したことがある。

あの時は確か『劇場版エヴァンゲリオン』だった。話し手は30代薬剤師の女性で、彼女もまた、我がことのようにシンジやアスカについて興奮気味に語っていた。

思えば私もまた、ロクな前情報もないまま『劇場版ちいかわ』を観に行き、そのホラーな展開に驚かされ、あれ以来、頭の中にセイレーンの歌声が響いて消えず、1日に15分はちいかわシンキングタイムがやってくる。

それがどうしてなのか知りたくて、Netflixで観れるちいかわアニメを片っ端からチェックしていたのだけど、このカレー屋での関西弁女子のテンションを見てようやく理由がわかった。

あれは、他の誰でもない、「私たちの物語」なのである。

『鬼滅の刃』しかり『進撃の巨人』しかり、社会現象級に大当たりする作品というのはどこかしら共通点がある。

それは、その作品について語る人に、まるで当事者みたいな顔をさせるということだ。

ここから先は私の勝手な解釈ですと前置きした上で言わせてもらうのだが、あれに出てくる「ちいかわ族」というのは、私からは現代の日本人にしか見えない。

なんか小さくてかわいいやつ、というのが「ちいかわ」のネーミングの由来だそうだけど、今、海外で日本人旅行者を「フェアリー(妖精さん)」のようだと評する向きがあるのをご存知だろうか。

神出鬼没で、あまり気配を立てずに観光地をするすると回っていく様子が、そう見えるらしい。
オンラインゲームでも話しかけるとたちまち逃げてしまうという日本人は、まさしく外国人から見たら妖精さんそのものだろう。

そして「ちいかわ」で描かれる世界は、まさしくそんなフェアリーである日本人の暮らす、かなりシビアな寓話である。

なにしろ、その設定ときたら働かざる者食うべからず、しかも仕事の選択肢が「採取」か「討伐」の二択という過酷さだ。

もちろん、主人公ちいかわだって例外ではない。ちいさかろうがかわいかろうが、討伐には行かねばならない。
だから内気なちいかわも竹ヤリ、じゃない、刺又をもって泣きながら震えながら討伐に行くのである。

相方のハチワレは洞窟で極貧暮らし。
遊び仲間のうさぎは高機能ハイテンションで意味不明の奇声を連発。

その他のキャラクターも独特だ。

常にお酒を飲んで街をふらつく、でも優しい大人、栗まんじゅう。
頼れるアニキの体育会系討伐ランカー、ラッコ。
資格マニアのけなげな働き者、シーサー。
ちいかわ族の身体を乗っ取り、かわいこぶるモモンガ。

みんなどこか、私たちの周りにもいそうな属性の者ばかりである。

そして主人公のちいかわは草むしり検定になかなか受からず、強くなりたい相棒のハチワレは、ともすれば変異して討伐対象のキメラ化しかねない危うさを持つ。
(キメラ化は欲望が引き金になる設定らしい)

かつての仲間が怪物化して討伐対象になる日常という、あの可愛い絵柄で『進撃の巨人』もビックリのハードな設定である。

そんなの知らずにいきなり劇場版を観に行ったものだから、私は暗い映画館の中でかなりビックリしていたのだけど、そんな過酷な世界観の中、感心したのは主人公ちいかわの意外なほどの強さだった。

ちいかわって、ものがうまく言えないし、一見、弱くて頼りなく見える。

でも、それはとんでもない誤解で、実はちいかわ、ものすごく周囲をよく見ているし、気の毒なほど頭がいい。

ああ見えて危機対応力がめっぽう高い。怖がりながらも情報を集め、状況を見て、次に何をすべきかを冷静に考える。
行き倒れたところを島二郎に救われ、カレーを振る舞われた時も、そのことが後になって伏線として問題解決に生きてくるのだ。

今これを読んでいる人の中に、泣きながらご飯を食べたことのある人はいるだろうか。私はある。

劇場版ちいかわの中にも、ちいかわが何かの実をもいで食べながら泣く描写が出てくるが、私はあれを見て泣いてしまった。あれは『千と千尋』のおにぎり号泣と並ぶ名シーンだと思う。
泣きながらでもご飯を食べられる者は、なんだかんだいって強いのだ。

そんなちいかわで私が好きなエピソードのひとつに、別の世界線でハチワレがキメラ化してしまう話がある。

キメラ化というのは要は化け物になるということで、そうなるとそれまでの属性をなくし、かつての仲間を捕食するようになる。

ちいかわの世界では、いろんなきっかけで、かつての仲間がキメラのような存在に変わってしまうことがある。
その象徴的なキャラクターのひとりが、私の好きな「あのこ」だ。

「あのこ」はもともとちいかわがレモンにシールを貼る工場で働いていた時の同僚で、かつてはちいかわと互いにおやつを交換し合う仲だったのが、ある日キメラ化してしまう。

しかし「あのこ」はそれを悲しむどころか、強くなった自分を喜ぶ。
そして、かつてはみじめに狩られる側だったのが、自分が得た能力に酔い、嬉々として今度はかつての仲間を狩る側に回り始めるのだ。

さすがに同僚だったちいかわに出会っても手を出すことはなかったが、それも今後は怪しいもので、ちいかわ族だった頃の記憶が薄れていくにつれ、キメラ化すると思いやりとか友情、含羞や畏怖の念といった、目に見えない大事なものを代わりに失っていく。

ちいかわはそれがわかっているから、別の世界線でキメラ化したハチワレに向かって全身で怒りをぶつける。
そっちに行ってはいけない、と声にならない声で抗議するのだ。

このあたりはミヒャエル・エンデの『はてしない物語』にも描かれているけれど、急に強くなったり美しくなったり権力を得たりすると、人はそれまでの自分である弱者への共感を往々にして失いがちである。

ちいかわは自分が強くないのは悔しい。でも、悲しみも不安も落ち込みも、全部切り捨ててまで強くなりたいわけではない。
可愛くなりたいあまりに他者の身体を奪いとったモモンガみたいに、自分でないものになってまで目的を達しようとは思っていないのだ。

安心材料なんか何もない。
明日がどうなるかわからないし、いちばん大事な人が明日には隣にいないかもしれない。
でも、それでも生きていく。
不完全で弱い自分のまま、堂々と生きていく。 
そのたたずまいが、とってもいい。

ちいかわのあのどこかいつも不機嫌そうな表情からは、何だかそんな悲壮な決意が宿っている気が私にはしてならない。

悲しい。でも食べる。
怖い。でも出かける。
寂しい。でも笑う。
弱い。でも生きる。

私たちは、放っておくとつい成長しようとか何かを達成しようとか安易に考えがちだけど、本当のところ、結局はそれだけでいいのかもしれない。

で、かくなる上は、この世界の神である原作者・ナガノ先生の恩寵が、ちいかわにもたらされるよう心より願ってやみません。

どうかお手柔らかに。

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