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#9 『白と黒のスプーン』の地下食堂と 廃劇場のスタバ。京東市場、時を止めた28年間の暗闇。

初めての駅で降りる緊張
いつだって初めての駅に降り立つ時はちょっと緊張するものだ。それが
ソウルであればなおのこと。 東大門から1号線で3つ。「祭基洞(チェギドン)」という街に、モーニングコーヒーもそこそこにやってきた。
今日はソウル旅行最終日。帰路につく前に、どうしても見ておかねばならないものがある。 それは廃劇場をリノベした京東市場内の店舗
「スターバックス京東1960店」である。
またスタバだけでなく、ぜひ行ってみたい食堂もあった。 日本のオシャレ雑誌のソウル特集写真に使われ、更にはあの人気番組『白と黒のスプーン』で火が付いた地下食堂「安東家(アンドンチッ)」。 元々、ソウル中の市場を訪問したいくらい市場の活気と喧騒が大好きな私。訪問しない手はなかった。

薬と市場の歴史
駅の改札を出て、ちょっと古めかしい階段を上がる。 ……と、途端に鼻孔に届いてくる韓方の強烈な香り。 左を見ると、宮廷のような深緑と赤の門に書かれた「薬令市場」の文字。

この門の向こうは漢方関連店舗がずらりと並ぶ

そう、ここはソウル中の薬草や高麗人参、煎じた韓方薬が集まる「薬の市場街」でもあるのだ。
なぜこの「祭基洞」に薬市場や京東市場ができたのかを知るには、少し歴史をひもとく必要がある。
今から600年以上前の1400年代、李氏朝鮮時代。この場所には「普済院(ポジェウォン)」という特別な医療機関があったという。 このポジェウォンは貧しい人や旅人のための無料の医療機関で、病気の人を治療したり、
行き倒れの人に食事や宿泊を提供していた。そもそもが、薬草や薬材が集まる場所だったのである。
そして1900年代前半、この祭基洞は「城東駅」という駅名で、ソウルと地方を結ぶ鉄道の始発駅として活躍した。 地方から薬草や植物だけでなく、
農産物をはじめ様々な食材が集まり、その新鮮な食材を列車から下ろし、駅前で荷ほどきして市場が形成された…というのが、この地のルーツである。
今は「城東」から「祭基洞」に駅名も変わり、地方への始発駅はお隣の清涼里駅になったが、薬令市と京東市場は変わらずに庶民の健康や食卓を支えている。

嗅覚と視覚の迷宮入り
薬令市を右手にみながら大通りをどんどん進む。 左手にはむきだしの高麗人参の根、壺や木の引き出しに入った薬草を売る韓方薬店がズラリと並ぶ。
診察やカウンセリングをやっている店舗もある様だ。干し草のような、
木の根のような韓方薬独特の匂いに圧倒されながら交差点を渡る。
いよいよ京東市場エリアに入った私をまず迎えたのは、ガラスケース内で
無数にうごめくスッポンたち、そしてウナギ。 しばらく歩いていくと赤い
ネオンで照らされた肉、肉、肉。そして乾物。 山盛りのポンテギ(蚕のサナギ)の匂いに少し心が折れかかりながら、テントの道を曲がり、市場の地下へと降りる階段を下る。

漢方薬だらけ(何の粉かわからない)
木の切り株や根っこ。効きそうだ!
うごめくスッポン達。

「本当に合ってるのかな?」 あまりに猥雑で迷路のようなソウルの市場を開拓するときは、いつも小さな不安が頭をよぎる。しかしその不安よりも
好奇心が勝つのが、これもまた常だ。

地下グルメ「安東家」の白菜マジック
階段を降りると、囲いのない食堂街。なんとなく人が集まる方に歩いていくと、白地にハングルで「アンドンチッ(安東家)」と書かれた大きな看板。

安東家

店の囲いはなく、中央のオープンキッチンを「コ」の字に囲む形でテーブルと椅子が並ぶ。 大きな蛍光灯で照らされ、他よりひときわ明るいその一角で、シャキシャキした美人の店主に促され真ん中の席につく。
ここは迷わず名物の「白菜のジョン(チヂミ)」、そして「ゆで豚」。
もちろん、ナムルやら浅漬けキムチやらもやしスープやら、肉を包む白菜(生)やら、卓いっぱいのバンチャン(おかず)に、セウジョン(アミの塩辛)、ニラが入ったカンジャン(醤油)、テンジャン(味噌)など、
自分好みにカスタマイズできる調味料もたっぷりだ。

左側が白菜のジョン。自分好みに味変して食す。

「マシケドゥセヨ~(おいしく食べてね)」 幸せなこのセリフを聞きながら、薄い黄色の衣をまとったピカタのような白菜のジョンを一口。
「なんなんだ~! この甘さは」
白菜の自然な甘み、そして歯ごたえが抜群に美味しい。白菜ってこんなに甘くて旨味がある野菜だったのか。 続いてゆで豚に塩辛を載せ、生白菜で食べる。この上なくジューシーで柔らかい豚に、シャキシャキした白菜が抜群に合う。コーヒー1杯で駆け付けたので、もう箸が止まらない。 気づけば、隣の学生(恐らく中国人留学生だろう)も夢中で食べている。 そう、おいしいものは人を無言にし、野生に回帰させるのだ。

アジョシの情けと、重たい体
いよいよ満腹で苦しくなってきて、もはやここまでと思った頃。 オープンキッチンの奥から、人のよさそうなアジョシ(おじさん)が麺の入った小鉢を手ににっこり微笑んで、「サービス」と言って目の前に置く。
私と隣の学生、夢中で白菜とゆで豚を食べる異国の客に、この店の名物である麺を食べさせてあげようと思ってくれたのだろう。 韓国の人のそんな「情」に何度も触れ、そのたびにソウル愛が深まっていく私としては、腹がはちきれようとも食べないわけにはいかない。
お礼を言って一口すすると、目を見張るようなスープのコク、そして麺のコシ。 具材は何もないシンプルな麺とスープだけできっちり勝負してくる潔さ。 安東家、間違いなくソウルを代表する良店だ。再訪を誓い、お礼を言って店を後にした。 満腹で身体はこの上なく重い。

高麗人参フロアの先へ
一旦地上に出て、またまたスタバの看板が小さく出ている階段を上る。 観光協会のようなたたずまいのフロアは、行けども行けども高麗人参売り場だ。

分け入っても分け入っても高麗人参 By 山頭火(←ウソ)

「本当にここで合ってるの?」 旅人はすぐ猜疑心にとらわれる……が、ふと足元を見るとスターバックスのロゴのサイネージ。

白地にグリーンが効いている!COOL!

新大久保などで時々道にロゴを投影している店はあるが、この高麗人参フロアに忽然と現れたロゴの粋さはどうだろう。 灰色の床に、白地の縁に緑の矢印。STARBUCKSのロゴ。 気づけば私は床のサイネージをパシャパシャと
10枚近く撮影していた。
そしてサイン通りに直進、右折。 ちょっと会社っぽいフロアを通り、映画館のドアを開ける。

重厚な扉

……と、そこには。
思っていたより大きな空間。 年月を経て色が変わった木の床や壁、剥き出しの天井の鉄骨……まぎれもなく「廃劇場」が広がっていた。

忽然と広がる別世界。
人との対比で天井の高さがわかるかも。壁のシミも愛おしい。
近くにあったら毎日行きたい!心 癒される空間

廃墟に灯る、再生の光
かつてスクリーンがあった場所はコーヒーのカウンターになり、天井からは色とりどりのアーティスティックなオブジェが下がっている。 そして壁には、映画のエンドロールのようにウェイティングの番号が映写される。 私はコーヒーを受け取り、劇場そのままに傾斜のついた座席に座り、思い思いに時間を過ごす人々を眺めた。
この「京東劇場」は1960年、市場の開設とともにオープンした。当時は映画だけでなく、演劇なども行われた地域のエンタメの中心地だったらしい。
しかし、テレビの普及やシネコンの発達により客足が遠のき、1994年に閉館となる。
驚くべきは、その後の時間だ。 スターバックスがリノベーションして店舗として再生させるまでの28年間。 京東劇場は買い手がつかずに、廃劇場兼市場の倉庫として、そのままの形で暗闇の中に放置されていたのだ。
そして2022年、再びよみがえった。 映写機に電源が入り、スクリーンに
灯がともるように。 人々はかつての娯楽の殿堂で笑い、語らい、コーヒーの味と香りに身をゆだねる。 そんな京東市場と京東劇場の数奇でもある歴史に敬意を表し、スターバックスはここを「京東1960店」と命名したという。
14世紀の普済院から、1960年を経て、現代へ……。 この地の歴史に思いをはせながら、想像の世界で時空を少し行き来してみる。

そろそろ行かなくては。 夕方のフライトに遅れぬよう、後ろ髪をひかれる想いで私は劇場のスタバを後にした。

【DATA BOX】
ROZÉ's Select:京東市場の時空旅スポット

1. スターバックス 京東1960店(Starbucks Gyeongdong 1960 / 스타벅스 경동1960점)
  Address: ソウル特別市 東大門区 古山子路36キル 3 (서울 동대문구 고산자로36길 3)
 Access: 地下鉄1号線「祭基洞(チェギドン)」駅 2番出口 徒歩約7分
              (京東市場 本館3F・高麗人参売り場の奥)
Hours:  9:00〜22:00
Close:  年中無休
Map (Naver): https://map.naver.com/p/search/스타벅스%20경동1960
Memo: 1960年代の廃劇場をリノベした圧倒的空間。壁に映し出される
             注文番号や劇場の段差を活かした座席など「非日常」を味わえる。 
            入口が少しわかりにくいので、床のサイネージを見逃さないように。

2. 安東家 ソンカルグクシ(Andongjip / 안동집 손칼국시)
Menu: 手打ち麺(ソングクス)、白菜ジョン(ペチュジョン)、
            ゆで豚(スユク)
Address: ソウル特別市 東大門区 古山子路36キル 3 新館 地下1階
              (서울 동대문구 고산자로36길 3 신관 지하1층)
Access: 地下鉄1号線「祭基洞」駅 徒歩約7分(京東市場 地下食堂街)
Hours: 月〜金 10:00〜18:00(LO 17:00) 土・日・祝 10:00〜17:00
   (LO 16:00) ⚠️ 早期閉店あり
Close: 第2・第4日曜、旧正月・秋夕(チュソク)連休
Map (Naver): https://map.naver.com/p/search/안동집%20손칼국시
 Memo: 日本の雑誌や話題の番組でも紹介された名店。
              白菜のジョン(チヂミ)の甘さは衝撃的。市場の地下ならではの
              活気ある雰囲気の中で、絶品の麺とゆで豚を楽しんで。

3. ソウル薬令市(Seoul Yangnyeongsi / 서울약령시)
Genre: 韓方・伝統市場
Access: 地下鉄1号線「祭基洞(チェギドン)」駅 2番出口すぐ
Map (Naver): https://map.naver.com/p/search/서울약령시
Memo: 駅を降りた瞬間から韓方の香りに包まれるエリア。宮殿のような
             門をくぐり、高麗人参や漢方薬が並ぶ通りを歩くだけで
             健康になれそうな、ソウルのディープなパワースポット。



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