第9回:傾国の怨霊・女として『七代目堀田美月 怨霊事件簿』
天を割る激しい雷鳴の轟きとともに、どす黒い怨念の雨が容赦なく降り注ぐ。それは平安の栄華の裏側で、人間の浅ましさと権力の狂気が生み出した、凄惨極まる地獄の記憶。
女の名は、藤原薬子(ふじわらのくすこ)。
平城天皇の寵愛を一身に受け、その権勢は朝廷を震え上がらせるほどであった。しかし、嵯峨天皇側との容赦ない政争(薬子の変(平城太上天皇の変))に敗北した瞬間、栄華は完全に崩壊する。兄の仲成は射殺され、上皇は出家。孤立無援となった薬子は、捕らえられて生き恥を晒す屈辱を拒み、毒を煽って自害した。
誇り高き悪女の凄絶な最期。だが、現世が本当の恐怖に叩き落とされたのは、彼女の死の直後から、歴史の正史に克明に記録されることとなる「本物の天地異変と怪異」の幕開けによってであった。
薬子が死んで間もなく、まず「太陽の異変」が都を襲った。西国からの風に混じり、正体不明の灰が都の空を濁らせた。 昼間であるにもかかわらず、太陽の光が不気味に変色し、あるいは黒い影が太陽を覆い尽くす、事象が頻発する。天体が狂ったかのような不穏な暗闇が都を包み込み、人々は「お上の政争が天の怒りを買った」と恐怖に震え上がった。
さらに牙を剥いたのは、大地である。 弘仁年間の記録をめくれば、そこにあるのは絶え間ない「大地震の連鎖」だ。地鳴りとともに都が激しく揺れ、内裏の壁が崩れ落ち、圧死した庶民の悲鳴が響き渡る。
さらに地震が引き金となったのか、あるいは天候の狂いか、前代未聞の「大飢饉」が国中を襲う。作物は枯れ果て、餓死した人々の骸が都の随所に転がる凄まじい光景が現実のものとなった。
追い打ちをかけるように猛威を振るったのが、正史『日本後紀』にも生々しく記録されている「謎の疫病(悪性の疱瘡や咳逆)」の大流行である。
この病は容赦なく庶民の命を刈り取り、ついには朝廷の中枢、薬子を追い詰めた側の公卿たちまでもが次々と高熱にうなされ、血を吐くようにして急死していく不気味な連鎖を引き起こした。
太陽が翳り、大地が裂け、原因不明の疫病によって自分や家族の命が理不尽に奪われていくこの現実の大惨劇。これこそが、国中の人々に「薬子の怨念がこの国を呪っている」と確信させた。
「これは、官位を剥奪されて死んだ薬子の祟りだ。彼女の怨霊が、都を滅ぼそうとしている……!」
天変地異の連続と、国中から湧き上がる庶民の恐怖の怨嗟にガタガタと震え出した朝廷は、ついにその非を認め、公式に動かざるを得なくなる。
薬子の死から後年、朝廷は彼女の籍を元に戻し、その怨霊を鎮めるための儀式を執り行った。
――こうして、毒を煽って死んだ一人の女は、史実として刻まれた天変地異を人質に取り、国家が本気で恐れる「最恐の怨霊」へと変貌を遂げた。
◇
現代、都内の狭い賃貸アパートの一室。
堀田美月は、掃除機を片手に小さく伸びをした。
「よし。今日は部屋を片づけるか。」
スイッチに指をかけた、その瞬間――。
視界が突如として暗転する。
ジジジ……と不気味な音を立てて蛍光灯が消え、ワンルームの空気が一瞬で氷結した。 吐き出す息が真っ白に染まる。
「また。でもさ、こんなことに、馴れちゃうっていうのもね」
狭いワンルームを埋め尽くしたのは、濃密な死臭と、高価な香飾(こうしょく)が腐り落ちたかのような甘くおぞましい異臭だった。
壁の隅から染み出すようにして現れたのは、かつてこの国の頂点で男たちを狂わせた「稀代の悪女」――藤原薬子(くすこ)。
その十二単の裾からはどす黒い血泥が滴り、男たちを魅了したはずの美貌は、五臓六腑を溶かした毒の苦悶によって、見る影もなく引きつり、歪んでいる。
かつて己を「悪女」と罵り、泥靴でその尊厳を踏みにじった世界への、1000年分の怨嗟。 薬子は引き裂かれた喉から、血反吐を震わせるような、地を這う重低音の言葉を絞り出した。
「おのれ……おのれ、式家を、この我が誇りを泥に塗れさせた、現世(うつしよ)の全てどもめが……!
我は藤原式家が娘、薬子なり。
聞け、地を這う無知なる虫ケラよ。我が受けた屈辱の深さを!
日食が太陽を貪り、弘仁の大地が裂け、お前たちの身内が疱瘡(ほうそう)に焼かれて血を吐き、のたうち回って死んでいったあの大惨劇……それこそが、この薬子が煽った毒の、現世への呪いそのもの!
天を狂わせ、大地を腐らせ、1000年経とうとも、我が五臓六腑を焼き切ったこの灼熱の怨み、断じて潰えぬわ……!
今こそ我が祟り、その身に刻めぃ……!」
美月は、無言のまま、スマホを取り出した。
「あ、お母さん? ほら、藤原薬子って、どんな人だっけ。 ……うん。 ……そう。 ……ああ、思い出した。……やっぱり、そうなんだ。」
「おばあちゃんから、フリーマンとベッツとのベンチ内のスリーショットの写真来たよ。えっ、ベンチ内は駄目なの。一般人は絶対に入れないの。だって、3人とも最高の笑顔だよ。次は、グランドキャニオン見に行くって?。やっぱ、パワフルだわ。ありがとね。じゃあね」
美月は、薬子に向くと
「あなたの気持ちはわかる。あなたが求めたものは、女としての幸せよね。愛されたいという。
日本中の男をひざまずかせる権力とか、式家の再興とか、そんなものは全部、あの人(平城上皇)に狂おしいほど愛されたいっていう、ただ一人の女としての願いの『おまけ』みたいなものでしょ」
美月はスマホをベッドに置くと、髪をかき上げ、すっと息を吸い込んだ。
「……でもさ。ちょっといい?」
「自分が幸せになりたかっただけ。」
「ただ、好きな人の隣にいたかっただけ。」
「でも、その願いは、誰かの人生を壊した。」
「そして、その壊れた人が、今度は怨霊になった。」
「悲しいよね。怨霊って、そうやって増えていくんだ。」
「この千年の間、自分以外の人に降りかかった災いを考えたことはある?」
「あなただって、吉子がああなるとは思ってなかったよね。」
「あなたが受けた苦しみは本物。でも、あなたが追い落とした伊予親王や、その母の吉子……彼らも同じように苦しんで怨霊になったのよ」
「……ねえ。」
美月は、顔をしかめて
「自分では気づいてない?」
「……何?」
「部屋に染み付きそうで嫌なんだけど」
ワンルームの空間がぐにゃりと歪み、そこから、呼ばれてもないのに大潮惣五郎がぬっとドヤ顔で姿を現した。我が意を得たりと腕を組み、薬子を偉そうに見下ろす。
「ワシも、それを懸念しておった」
どの口が言うのか。すかさず美月の冷徹な一喝が炸裂した。
「惣五郎さん。あなたも、あなたよ。呼んでもいないのに、勝手に現れてさ。用がないなら帰って。不法侵入」
「……!」
ハシゴを綺麗に外され、一番怒られた惣五郎は、ガックリと肩を落とし、すごすごと空間の歪みの中へと退場していった。
美月が薬子の方を見ると、いつの間にか、その姿も消えていた。
バチッ。
部屋の電気が何事もなかったかのように点灯する。
美月は黙って掃除機を持ち直す。
ブォォォン――。
ワンルームに掃除機の音だけが響き始めた。
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