私の作風について。(脚本📗)
――世界を作っているようで、いつも「私は誰なのか」を書いている
自分の作品を三つ並べてみて、少し不思議な気持ちになった。
『忘却の花冠』。
『夢見鳥と妖』。
『暮れ泥む星原』。
舞台も設定も、登場人物も全然違う。
魔法と花冠の世界。
蝶と妖と神が生きる世界。
世界滅亡を一ヶ月後に控えた学園。
自分では、それぞれ別のものを書いているつもりだった。
けれど、少し離れて眺めてみると、どうも同じところを何度も掘っているらしい。
私はたぶん、「自分は何者なのか」という話が好きなのだと思う。
それも、登場人物に「あなたは誰?」と尋ねるだけではない。
私はどうやら、その問いを世界そのものにしてしまう。
忘れられたら、その人は存在しなかったことになるのか
『忘却の花冠』では、十三歳になると子どもたちに花冠が与えられる。
その花冠が枯れると、その人は「忌み子」となり、人々の記憶から消えてしまう。
私はこの設定を考えたとき、単純に「記憶を消す魔法って面白そう」と思ったわけではなかった。
たぶん気になっていたのは、
誰かに忘れられたら、その人は本当に存在しなかったことになるのか。
ということだった。
世界から「あなたはいなかった」と判定される。
でも本人は確かに生きている。
その矛盾を、私は「花冠」という形にした。
だから物語の中で花冠が枯れることは、単なる能力の発動ではない。
その人の存在そのものが否定される瞬間になる。
そして、そんな世界のルールに対して「そんなものはおかしい」と抗う人間が出てくる。
たぶん私は、こういう物語が好きなのだと思う。
世界のほうが間違っている可能性を、最後まで捨てない物語。
生まれ変わっても、自分は自分なのか
『夢見鳥と妖』では、蝶たちは転生する。
死んでも、また別の人生を始められる。
一見すると、かなり自由な世界だ。
でも、私はそこに代償をつけた。
転生するたびに、大切な記憶を失っていく。
何度でも生きられる。
その代わり、過去の自分が遠ざかっていく。
そして、その世界では忘れたくない記憶をタイムカプセルに残す文化がある。
自分で書いた記憶を、未来の自分へ残していく。
夢見鳥と妖.docx
これを書いていたとき、自分ではそこまで深く考えていなかったかもしれない。
でも今振り返ると、かなり自分らしい設定だと思う。
忘れてしまう世界だからこそ、忘れないためのものを作る。
生きることと忘れること。
死ぬことと生まれ変わること。
過去の自分と今の自分。
その境目を、私は蝶という生き物に背負わせた。
だから『夢見鳥と妖』は、世界観を作っているようで、実はずっと、
「過去の自分を失っても、自分は自分なのか」
ということを書いているのかもしれない。
「あなたはこういう人」と決められること
『暮れ泥む星原』は、もっと直接的だ。
世界が一ヶ月後に終わる。
空は永遠の夕暮れ。
その中で主人公のカナヨは、「女の子になれない」という呪いを抱えている。
そこにルネやサクとの関係が絡んでくる。
ルネはカナヨを「王子くん」と呼ぶ。
誰かから見た自分。
誰かに愛される自分。
誰かが望む自分。
自分が思っている自分。
それらが少しずつズレていく。
この作品を書いているときも、自分では「終末学園ファンタジー」くらいのつもりだった。
でも三作品を並べてみると、また同じことをやっている。
「私は私なのに、どうして周りの人は私を別の何かにしようとするんだろう」
という問いだ。
最後には、個人的な苦しみが世界そのものへの疑問に広がっていく。
たった一人の命を犠牲にして世界を救う。
それを本当に正しいと言っていいのか。
暮れ泥む星原.pdf
自分一人の問題から始まった物語が、いつの間にか世界のルールを疑い始める。
私は、こういう展開を何度も書いている。
たぶん私は、「居場所」の話を書いている
三作品を並べてみて、もう一つ気づいた。
私は登場人物に、よく居場所を与える。
学校。
宮殿。
家族。
友達。
師弟。
婚約。
仲間。
でも、その居場所はずっと安定しているわけではない。
花冠が枯れる。
記憶がなくなる。
誰かがいなくなる。
関係が壊れる。
世界が終わる。
一度手に入れた居場所を、何かによって奪われる。
そして主人公たちは、そのたびに問い直す。
「私はここにいていいのか」
たぶん私は、居場所が欲しい人間なのだと思う。
だから物語の中でも、登場人物たちに居場所を探させている。
ただ、私の脚本には欠点も多い
ここまで書くと、なんだか自分の作風を綺麗にまとめすぎている気がする。
実際のところ、私の脚本はそんなに洗練されていない。
むしろ、かなり粗い。
設定を思いつく。
キャラクターを思いつく。
過去を思いつく。
新しい種族を思いつく。
新しい能力を思いつく。
新しい伏線を思いつく。
そして、それを捨てられない。
結果として、話がどんどん膨らんでいく。
たぶん私の脚本の一番の問題は、
「何も思いつかないこと」ではなく、「思いついたものを減らせないこと」
なのだと思う。
一つの物語の中に、十個くらい入れたくなる。
全部面白いと思ってしまう。
だから、読んでいる側からしたら、
「結局この物語は何の話なの?」
となる瞬間もあると思う。
これは自分でも直したいところだ。
台詞も、説明しすぎる
私は登場人物に、感情を喋らせすぎる。
悲しいなら「悲しい」。
好きなら「好き」。
怖いなら「怖い」。
傷ついているなら「傷ついている」。
その人物が何を考えているのか、読者に分かってほしくなる。
でも、本当に上手い脚本なら、全部説明する必要はない。
泣く。
黙る。
手を離す。
目を逸らす。
帰ってしまう。
そういう行動だけで、感情を伝えられる。
私はまだそこが下手だ。
「感情を説明すること」はできるけれど、「感情を隠して見せること」がまだできない。
だから、これから脚本を書くなら、今までよりもっと削りたい。
喋らせない。
説明しない。
余白を作る。
たぶん私に必要なのは、何かを付け足す技術だけじゃなくて、何かを捨てる技術なのだと思う。
それでも、三作品を書いて分かったことがある
『忘却の花冠』を書いた。
『夢見鳥と妖』を書いた。
『暮れ泥む星原』を書いた。
全部、処女作だ。
そして今、四作目を書いている。
正直、止まっている。
しんどい。
三回も世界を作った。
三回もキャラクターを作った。
三回も物語の始まりから終わりまで考えた。
だから、
「また一から作るのか」
と思ってしまう。
でも、三作品を振り返って一つだけ確信したことがある。
私はたぶん、毎回違う話を書いているようで、同じ問いを抱えている。
忘れられても、自分は自分なのか。
生まれ変わって記憶を失っても、自分は自分なのか。
他人から役割を与えられても、自分は自分なのか。
そして、その問いに対する答えを、私はまだ持っていない。
だから何度も物語を書いてしまうのかもしれない。
私は「答え」を書いているわけじゃない
昔は、物語を書くときには何か伝えたいことが必要なのだと思っていた。
読者にメッセージを届ける。
何かを教える。
最後に答えを出す。
そういうものだと思っていた。
でも、自分の作品を振り返ると、どうも違うらしい。
私はたぶん、答えを知っているから書いているのではない。
分からないから書いている。
「自分って何なんだろう」
「人に忘れられたらどうなるんだろう」
「過去の自分がなくなったら、それでも自分なんだろうか」
「誰かに愛されていても、その愛が自分を縛っていたらどうなんだろう」
そういう答えの出ないことを、キャラクターにやらせている。
だから私の作品には、世界の終わりが出てくる。
記憶が消える。
転生する。
呪われる。
花冠が枯れる。
人間ではなくなる。
誰かを失う。
そういう極端な状況に置けば、
「それでも、この人は自分として生きるのか」
が見えるから。
私の作風は、まだ未完成だ
私はまだ、脚本家として完成していない。
構成も荒い。
台詞も説明的。
設定も盛り込みすぎる。
キャラクターを増やしすぎる。
たぶん、プロの脚本と並べたら足りないところだらけだと思う。
でも、自分の作品を三本並べてみて、
「私は何を書いているんだろう」
という問いには、少しだけ答えられるようになった。
私は世界を作っている。
でも、本当に作りたいのは世界ではない。
私はキャラクターを作っている。
でも、本当に書きたいのはキャラクターだけではない。
私は物語を作っている。
でも、本当に追いかけているのは物語の先にある、
「あなたは、あなたであることを誰かに奪われても、それでも自分でいられるのか」
という問いなのだと思う。
たぶん私は、これからも何度も形を変えて同じことを書く。
魔法になるかもしれない。
妖になるかもしれない。
終末になるかもしれない。
全然違う作品になるかもしれない。
でも、その奥底にはきっとまた同じものがいる。
「私は誰なのか」
という、なかなか答えを出してくれない問い。
そして私はたぶん、その問いに決着をつけるためではなく、問いを抱えたままでも生きていける物語を探すために、これからも書くのだと思う。
