見出し画像

ホラー短編 『喰いの間』いわくつき物件からの脱出


【あらすじ】
 いわくつき物件で目を覚ました男。この部屋は以前いわくつき物件住みます系配信者のザマース尾八代が住み、その後謎の失踪を遂げた部屋だった。この奇妙な部屋から男は帰ることができるのか。生理的嫌悪感全開ホラー短編。



⬛︎閉じ込められた男 1



「さむ」
 寒さで目が覚めた。部屋が暗い。
 起きた瞬間、まず違和感があったのは匂いだった。
 明らかに自分の部屋の匂いではない。自分の部屋の匂いは自分では分からないが、明らかに他人の部屋にいることだけは分かった。
 次いで畳の感触。昨晩は仕事の疲れもあってか食べてすぐベッドに横になり、シャワーも浴びずにそのまま眠りに落ちたはず。しかも俺の部屋は畳ではない。
 周りに手を伸ばす。スマホが無い。真っ暗で部屋全体が見えない。明らかに自分の部屋ではない。寝起きで上手く頭が回らず、次第に焦りや不安、恐怖心が膨れ上がっていく。

 俺の右手には腕時計型の電子機器が巻かれていた。スマートウォッチではない。昔スマートウォッチを装着していた時期があったがあまりの煩わしさに外した時のことを思い出す。左手で電子機器をまさぐる。右手に巻かれているのはスマートウォッチよりもゴツゴツしていて無骨なデザインのようだ。いじくっているとそのデバイスが反応し、表示盤がほのかに青白く光を放つ。
 少しでも光があると不安が紛れるが、その光が部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせ、やはり見知らぬ部屋だということがわかり恐怖を際立たせた。
 そして、見知らぬ部屋だが、俺はこの部屋を知っていた。
 いわくつき物件だ。

 いわくつき物件に住みまくる動画配信者のコンテンツが一時増えたが、俺はブームが去ってからもこの類の動画を定期的に見ていた。知らない部屋の間取りを見るのが好きだったし、配信者のリアクションが面白く、また地域周辺の家賃相場との比較を知る驚きもあった。実際にその家賃でそこに住めるかどうか自問するのも楽しく、いつしか見るのが習慣化していたのだった。他人に言うほどの趣味ではないが、食事の時や暇な時に動画を流し見るのにちょうど良かったという感じ。
 そして今俺はそのいわくつき物件で目が覚めた。
 ここの家賃は1ヶ月1,000円。6畳のワンルーム。周辺の相場は確か25,000円くらいだった。元々家賃が安い地域らしく、どうやら都市部からは離れているようだったが、それにしても1,000円は怖い。安過ぎて怪しさが跳ね上がる部屋だ。飲食店に入ってもし他のカレーライスが800円なのに、いわくつきカレーだけ20円だったらどう思う?絶対頼まないだろう。

 なぜここに。拉致されたのか。というか、よりによってなぜこの部屋なのか。
 このいわくつき物件の動画はよく覚えている。
 配信者のザマース尾八代が住んでいた部屋だ。
 ザマース尾八代はぼさぼさの長髪に黒縁メガネがトレードマークの元ピン芸人。名前の由来は「おはようございます」を縮め過ぎ&元気良過ぎで「ざまーす」としか聞こえないところから付けられたらしい。尾八代の由来は知らない。本名ではないと思う。
 ザマース尾八代が元気にいわくつき物件を紹介するので怖さが薄れ、それも俺が視聴し続けた理由のひとつだ。過剰な恐怖演出はご飯のお供に適さない。ザマース尾八代の動画を見続けられたのはご飯のお供に適していたから、というのが大きい。
 他にもお気に入りのいわくつき物件系動画配信者はいたが、この部屋のザマース尾八代のシリーズは特に印象が強い。
 なぜなら、この部屋でのライブ配信を最後にザマース尾八代がどうなったのか誰にもわからないからだ。


 この部屋の動画配信は全部で4回あり、最初の3回は編集されたもの。そして最後の1回はライブ配信だ。
 金曜の20時からライブ配信があるということで、過去3回の内容から続きが気になっていた俺は、その日の仕事を終え急いで帰宅し、食事もさっと済ませ、缶チューハイとつまみを用意して待っていた。
 20時前からコメント欄が開放され、一気にコメントであふれかえる。みんな続きが気になっていたのだろう。この日は投げ銭も多かった。ザマース尾八代を心配するコメントが多く、「退去しろ」「今日はやめた方がいい」などのコメントがある一方で、「釣り乙」「オチに期待」「フェイクだろ?」などあくまでエンタメであるという立場のコメントも多かった。コメント欄からして熱量が異常だったことを思い出す。
 俺はニュートラルな立場。まだどっちに転ぶかわからないが、過去3回の編集された動画があまりにも異質だったので生配信は絶対リアルタイムで見届けねばと思っていた。視聴しているみんなもそうなのだろう。コメント数や投げ銭の金額からもそれは伝わってきた。

 20時になったがライブ配信が始まらなかった。加熱するコメント欄。安否を気遣うコメントがある一方で、「タヒんでる?w」などのコメントもあった。
 21時になっても動画画面が真っ暗で始まらない。コメント欄はますます熱を帯びて、今まさにとんでもないことが起こっているのではないかという期待感が膨らんだ。不謹慎ではあるがネット文化なんてそれが流儀みたいなところがある。ライブ配信が始まらないことがSNSでも話題になり、一気に視聴者数が増えた。ザマース尾八代を知る芸人たちも不安の声をSNSで投稿していた。同時接続視聴者数は減ることがなく増え続けていた。21時を過ぎた段階で約5万人が見守っていた。
 22時頃になりようやく配信が開始された。
 ピタッとコメント欄が止まった。
 そこには死んでいるかのように横たわったザマース尾八代が映っていたからだ。
 ぴくりとも動かない。画面越しからも生命力を感じ取れないのがわかり、精巧な人形のような、物体のようなものが畳の上に置かれている。そんな印象を受けた。
 全身を映していたカメラはそれからザマース尾八代の足元に寄った。そしてゆっくり顔の方まで移動した。そのカメラマンは映像の手ぶれなどもなく怯えているようには感じられず、観察や記録をしているような、趣味の悪い言い方をすれば撮影を楽しんでいるようにすら感じられた。ザマース尾八代のこの姿をどうぞ見てください、とでも言っているかのようなアングルだった。
 ザマース尾八代の顔が画面に大きく映し出された。今まで人間の死体を見たことは無いが、俺にはザマース尾八代が死んでいるように見えたし、コメント欄でも異常な状況であることがコメント数の多さや文字列から伝わってきた。
 ザマース尾八代と目が合った、気がした。生気を失った眼球が、それなのに画面越しの俺を見つめ返している、気がした。
 視聴者の中にはこれすらも壮大なドッキリであるとする見方をしているコメントもあったが、それらは少数で、すぐにコメントが流れていった。この部屋の住所をたずねるコメントが頻発した。近場だったら助けに行きたいというファンが思いの外多かった印象。SNSでもこの映像の切り抜き動画が一気に広まり、ザマース尾八代を知る芸人なども安否を気遣う投稿をした。皆一様にザマース尾八代と連絡が付かないことに焦りを募らせていた。ザマース尾八代の動画配信チャンネルの編集を手伝っている人物が1人いたはずだが、どうやらその人物とも連絡が取れないようだった。
 ザマース尾八代は死んでしまったのか。ドッキリなのか。
 死んでしまったのだとしたらあのライブ配信を撮影した人物は誰なのか。何もわからないまま時間が過ぎ、コメント欄は目で追えないほどの速さで流れていった。「無事でいてくれ」というコメントがついた投げ銭がどこか物悲しい。
 ライブ配信開始から10分ほどで映像は終了し、真っ黒な画面のままコメント欄だけが異様なまでに文字を吐き出し蠢いていたが、0時になったらコメント欄も閉じられた。

 それから一部界隈は大騒ぎとなった。SNSや動画投稿などでザマース尾八代の一連のいわくつき物件動画に関する考察が盛んに行われた。1割はドッキリ派。9割は死亡派。事件に巻き込まれたという意見や、ストーカーに殺されたという意見。中には幽霊や呪いによって死んだのだという意見もあった。
 誰にも何もわからない。結局、ザマース尾八代に協力していた編集スタッフすら消息がつかめず、あのライブ配信がなんだったのかわからないままいつしかその話題もみんなの中から薄れていった。

 どうやらあの部屋は栃木県にあるらしいと噂されたがそれ以上のことはわからなかった。
 東京に住んでいる俺にとってはあの時住所がわかっても駆けつける時間など無かったことがわかり、少しだけほっとした。誰も俺に責任を問いただすことなんかあるわけないが、一視聴者として彼のために何かできないかと思っていたのは事実で、だけど10分ではどうやってもあの部屋に駆けつけることなど不可能であるということが俺の責任を軽くしてくれた。例えそれが錯覚だとしても。
 そして俺は今、その部屋にいる。
 俺の右手に装着されたデバイスのほのかな明かりでもザマース尾八代のあの部屋だとすぐにわかったのはそんな理由だ。あの配信の10分間は異常で、いつまでも俺の心に残り続けていたのだ。

 ザマース尾八代が全4回のシリーズを過ごしたこの部屋は、第1回からして明らかに他の動画とは違い素人目に見ても危険なのがわかった。
 全編自撮りで行うザマース尾八代のスタイルは、手持ちのカメラで自分の顔と部屋の様子とを交互に映す。それとは別に一台定点カメラがあって、編集された動画ではその顔と部屋と定点映像の二台のカメラの映像で構成されている。
 元気が取り柄のザマース尾八代は毎回オープニングのあいさつである「おはようございます」とはとてもじゃないが聞こえない「ざまぁす!!ザマース尾八代!!です!!!」から始まるのだが、この部屋ではオープニングから違った。
 明らかに声が小さく、オープニングのあいさつすらしなかった。本当にここで生活するのが嫌そうなのが伝わってきて、それが今までと違い新鮮で動画の再生回数も突出して伸びていたのだ。
 動画の中で彼は物音がしていないのにしきりに背後を振り返ったりして落ち着きがなかった。そして今回は本気で帰りたいこと、続けられない、お蔵入りになると思うことなどをぶつぶつとつぶやいていた。
 いわくつき物件に住みまくる動画配信者は本拠地となる現住所が他にあって、ある種の別荘のような形でいわくつき物件を契約しまくっている。だからザマース尾八代のほとんどの動画は、いわくつき物件に1日宿泊してその様子を映像に残すというスタイルだった。

 ザマース尾八代の動画で部屋の配置を把握していた俺は、まずは明かりを点けようと壁のスイッチを探した。右手の腕時計型デバイスのほのかな明かりがありがたい。

 ぬる

 スイッチには何か粘度がある冷たい液体のようなものが付着していた。驚きのあまり声も出ない。思わずズボンで手を拭い指の匂いを嗅いだ。
「なんだよこれ」
 無臭で色も無い。透明で無臭のぬるぬる。なんなんだ。
 気持ち悪いが部屋の明かりを点けたい。右手のデバイスでスイッチに触れることにした。
 電灯が点いたものの、チカチカとしていて目が悪くなりそうだ。
 明るくなった部屋を見渡すと、やはりザマース尾八代が横たわっていた部屋で間違いない。
 なぜならこの部屋にはザマース尾八代の定点カメラと、おそらくザマース尾八代の最期を撮影していたであろうハンディカムが転がっていたからだ。
 つまり俺は目覚めた時、ザマース尾八代が死んだ部屋で、ザマース尾八代と同じ体勢になっていた、ということだ。あの時のライブ配信の姿と、俺がさっき目を覚ました時のことが重なってガタガタと震えた。
 なんで俺がこの部屋に?
 ほどなくして俺は、ザマース尾八代が初日の動画でしきりに部屋のあちこちをキョロキョロしていた理由を理解したのだった。
 はっきりとした音ではないが何か聞こえる。そしてはっきりと確認はできないが、視界の隅で何かが動いたような気がするのだ。まるでゴキブリの気配を察知してふと目線を向けたら本当に壁にゴキブリが張り付いていた時のような。ゴキブリがいたのならまだ良い。音や視界の隅に見えた原因がゴキブリだと判明するから。でもこの部屋では実際には何も聞こえていないし、何も見えない。ただ、何かがありそう。だから反射的に背後を振り返ったりしてしまう。
 俺には霊感が無いし、ザマース尾八代も霊感が無いと公言していた。もし霊感があったらこの部屋のヤバさがわかるのだろうか。いや、わかるのも嫌だな。霊感のキャパシティを一気に突き抜けてしまいそうな気がする。それほど何かがあると思わせるに十分な部屋だ。
 こんな部屋はとっとと出よう。電灯が点き部屋が明るくなったことで玄関への通路もわかった。ザマース尾八代はこんな部屋に3日も宿泊していたのか。あらためて彼の度胸を実感し、4日目の宿泊が永眠になっちゃうなんてな、などと思った。
 廊下を歩く。
 すぐさま違和感に気付く。気付きたくない違和感。普通の部屋であれば絶対にあるはずの。そもそも無きゃダメなもの。部屋として成立しないだろ。
 この部屋には玄関ドアが無かった。


⬛︎ザマース尾八代 1日目


 この物件はやばい。
 玄関に足を踏み入れた瞬間に分かった。この部屋はやばいと。靴を脱いで部屋に上がる。台所の前の通路が冷たく、靴下を通り越して足裏に伝わってきた。ここで1日過ごすのは辛い。居間に荷物を下ろし、定点カメラとハンディカメラを取り出す。

 不動産屋に止められた時点で気付くべきだった。この物件が今までとは質が違うということに。家賃1,000円というインパクトに動画映えを狙ってしまった配信者としての性か。
 霊感が無い俺はどんないわくつき物件も全く気にならなかった。もちろん不気味さやじめじめした感じなど、ここに住み続けたらそりゃあ自殺したくなるかもな、と思える部屋はこれまでもあった。ラップ音だったりうめき声が聞こえたこともあったが、聞き間違えであったり野良猫の鳴き声が人間の声に聞こえただけだろうとやり過ごした。
 そもそも家というのは鳴るものだ。日本の昔の家屋は木が使われる部分が多い。湿度によってそれが音を出す。ネズミだっているしそれを狙う野良猫だっているだろう。だから家は鳴るものなんだ。無音などあり得ないのだ。地形や気温によって数百メートル先の轟音が反響してピンポイントで部屋に届くケースもある。人が把握できることなんて微々たるものでしかないのだ。
 だけど、この物件はそういう類のやばさではない。霊感は無いが、ここに居続けるだけで生命エネルギーのようなものが吸われ続けている気がする。
 体力や精神力ではなく、どちらかと言うと寿命のような。もちろん寿命がわかるはずも無いのだが、ここにいると実感してしまう。明らかに俺の命が削られていると。

 正直に言うと動画配信なんか辞めたい。
 この部屋に入った瞬間にそう思った。
 だがいわくつき物件住みまくり系配信者としての変なプライドと、収益が上向きであることが踏みとどまらせてしまった。
 どうせいつもと同じように1日泊まって、1本分、できれば2本分の動画素材を撮影できれば終わりだ。こんな部屋とっとと解約してやる。お祓いにも行こう。信じちゃいないが今回ばかりはお祓いに行った方が良いと思う。動画配信の知り合いに良いお祓い師を紹介してもらおう。
 そいつに「おつかれ!」とメッセージを送ったらすぐに返信が来た。
「すぐ出ろ」
 それだけ。
 全身の肌がゾワっとし、思わずスマホを持つ手に力が入った。そいつには俺が今いわくつき物件にいることはもちろん、撮影に行くことすら教えていないのだ。
 続けてメッセージが入る。
「お前から連絡が来た同じタイミングでお祓い師の先生から電話が来た。「お知り合いで危険な目に遭っている方はいませんか?」って」
 やばい。目の焦点が合わなくなる。足に力が入らない。思わず壁に手を突く。

 ぬる

「うぉ!!」
 右手に粘度がある液体のようなものが付着した。壁を見るとさっきまでは無かったのに透明なぬるぬるの液体が垂れていた。思わずズボンで手を拭った。手の匂いを嗅ぐが無臭。なんなんだ。ローション?っていうかなんで壁に?配管の故障などの欠陥では無いことだけは部屋の構造からわかった。
 その間も知り合いからメッセージが立て続けに届く。
「いいから早く出ろ」
「死ぬぞ」
「返事しろ」
 文字で返信するのが煩わしくなりそいつに通話をすることにした。スマホの通話ボタンを押すが反応しない。
「え?あれ?」
 スマホの画面は動くのでフリーズしているわけではない。なぜか通話ボタンだけが反応しない。恐怖が最高潮になった。とにかく部屋を出なければ。気が急いる。荷物をかき集めてカバンに仕舞い込み、慌てて玄関へと向かう。
 だが、そこには玄関が無かった。
 間違いなく玄関のドアを開けてこの部屋に入ってきたのに。いつの間にかドアがあった場所は冷たい壁に覆われていた。
 力が抜けた手からスマホが落ち床にぶつかる。カバンも床に落とした。足の踏ん張りが利かず、床にへたり込んだ。
 その間も、知り合いからはメッセージが届き続けていた。


⬛︎閉じ込められた男 2


 玄関のドアが無い。下駄箱はあるのに玄関の扉があるであろうはずのところが壁になっている。
 この部屋は一体なんなんだ。
 いざとなったら窓ガラスを割ってでも外に出れば良い。
 居間の明かりを頼りに玄関のドアがあるはずの壁を凝視する。他の壁とは質感が違う。どうやらここだけ新たに塗り固められたようだ。ぬるぬるの液体が無いのを確認してその壁に触れる。昨日今日出来たような壁ではなく、もう何年もずっとこの壁のような、そんな年季が右手から伝わってくる。
「俺はどうやってこの部屋に運ばれてきたんだ?」

 ピコン

 右手のデバイスが光りバイブレーションが右手首に伝わる。
 デバイスには「100」と表示されていた。100?なんの数字だ。デバイスの表示盤を触るが何も反応しない。デバイスの右脇の辺り。アナログ腕時計で言えば竜頭の部分にスイッチのような突起があるが、押しても何も反応しない。ただ100と表示されているだけのデバイス。外そうにもベルトの留め具が溶接されていて外せない。
 人が死んだいわくつき物件の部屋に拉致され、右手には外せないデバイスを装着され、しかも玄関ドアが無い。
 俺は不安や恐怖感が麻痺してきたのか、次第に怒りが込み上げてきた。理不尽さと理解不能さと。何かメッセージや指令などがあればそれにチャレンジできるだろうが、ノーヒントのまま不穏な部屋に放置されている。なんなんだまったく。

 居間に戻り部屋の中をいろいろ探してみるが元々殺風景な部屋なので家具もなく、あるのはザマース尾八代が使っていたであろう固定カメラとハンディカメラ。それと寝袋と、カバンの中には彼の財布や食料が入っていた。なんとなく財布の中身を見てしまったが、1万円札が5枚入っているだけで他には何も入っていなかった。レシートもクレジットカードの類も何も入っていない。カードポケットに使用感はあるので元々カードが入っていたが、抜き取られたのだろう。なぜ?金は抜かず他のものを抜いていったんだ。犯人はなぜ金以外を抜いたんだろう。
 そこでふと俺はとある疑念が浮かんだ。
 もしかして壮大なドッキリなのではないかと。俺がこの部屋に放置されてからの映像が全て動画配信されていて、俺の行動を見て誰かが楽しんでいるのではないか?そして俺が財布から金を盗むかどうかも見られてるんじゃないか?ぬるぬるに驚いた様子とかも撮影されてたのでは?
 そう考えると定点カメラがどうしても気になる。ずっと稼働していて俺のことを配信してたのでは?
 誰かに見られているかも知れないという若干の気恥ずかしさを感じながら、定点カメラに手を伸ばす。触った瞬間にこれが稼働していないことがわかった。定点カメラは冷たく、そもそもバッテリーが切れていた。カバンの中を漁って充電ケーブルを見つけ、定点カメラを充電してみた。保存されている動画の中に何かヒントが見つかるかも知れない。
 ハンディカメラも同じくバッテリーが切れていた。おそらくこの中にはザマース尾八代の死体を撮影した映像が残っている。見たくはないがいつか見なければならないだろう。気が重いが。気が重いなど言ってる場合ではない。俺はいわくつき物件に閉じ込められているのだ。ハンディカメラも充電しておく。

 カバンを漁ったりカメラ2台を充電している間にも俺は時々振り返ったりして背後や何も無い壁を凝視した。電灯スイッチのぬるぬるもなんとなく目に入った。相変わらずぬるぬるしていて、電灯の光を受けてぬらぬら反射している。
「んぐっ!」
 手元に視線を戻そうとした瞬間に壁の異変に気付いて思わず声が漏れた。
 先ほどまでは普通の壁だったのに、今はぬらぬら光を反射していた。壁にぬるぬるの液体が付着している。いつの間に?天井から壁をつたって垂れてきたのか?
 壁に近づくと天井から垂れているわけではなさそうで、それゆえにどこからこのぬるぬるが発生しているのか見当が付かない。壁から滲み出ているのか?
「くせぇ」
 酸っぱい匂いが鼻をつく。思わず顔を背けた。なんの匂いだ。なんとも言えない匂いが不快感を刺激する。なんなんだよマジで。
 もういい加減外に出よう。俺は玄関とは反対側にある壁の窓から外に出ることにした。窓の外は真っ暗で、部屋の明かりを全て飲み込む一面の黒だ。
 窓に手を掛けるが絶望と恐怖に襲われた。窓が開かない。絶対に開かないであろうことを指が感じ取る。窓がびくともせず、そもそも窓サッシ自体が一切振動しない。
 窓ガラスが強化ガラスになっているのか何をやっても割れなかった。窓ガラスに見えて黒い壁なのか。冷たく分厚い鉄の壁を叩いているような、そんな無力感を抱く。
 近隣に誰も住んでいないのか、大声を出しても何も起きなかった。それ以前に、どんなに大きな音を出してもこの部屋の外には漏れていない感じだ。外に響いていかないというか。完全防音で部屋全体が覆われているのか。それともこの部屋には外という概念がもう無いのかも知れない。そんな荒唐無稽なことを考えてしまう。
 冷静になろう。
 俺は今閉じ込められている。玄関ドアは無い。窓も開かない。大きな音を出しても誰にも気付かれない。壁の一部にはぬるぬるが発生している。
 右手には謎のデバイス。
 ふとデバイスを見ると「95」と表示されていた。
 右手が重く感じた。「100」から「95」に減ったのは確実に良く無いことだろう。カウントダウンなのか、それとも何かをすると減らされるのか、何もわからないが、この部屋にいるとこのデバイスの数字は減らしてはならないものだということがデバイスから伝わってくる。まるで初めから決まっていたルールであるかのように。

 今出来ることは何か。
 それは飯を食いながらザマース尾八代の映像を見ること。結局俺が家で毎日してたことをこんな状況でもしようとしていることに我ながら呆れる。
 ザマース尾八代のカバンに入っていたカップラーメンを取り出す。賞味期限は過ぎていたが食えれば良い。
 蛇口を捻ると普通の水が流れて安心した。もうどんな変なことが起きても不思議じゃない。やかんに水を入れてガスコンロで沸かす。電気もガスも使えるのがありがたい。
「箸入ってねーよ!」
 カバンの中にも台所にもどこにも箸が無い。指で食うか?いや、それはやめておこう。誰に向けるでもない怒りに腹を立て、それでも腹は減る。俺は腹が減ると不機嫌になるタイプの男だぞ。
 とりあえずカップラーメンに湯をそそぐ。少し冷ましてスープごと麺をすするか。むせそうで嫌だな。こんな部屋に閉じ込められてる方が嫌か。その前にトイレ行こう。トイレは普通にあった。トイレがあるのは当たり前なのに、玄関ドアが無いことでトイレのありがたさが身にしみる。まぁいざとなったら台所でするしかないけどな。こんな部屋に忖度することなんか無いんだし。拉致した奴の顔色をうかがうのも馬鹿らしい。

 ピコン

 デバイスの数字が「90」になっていた。
「ごめんなさい」
 なぜか声に出して謝っていた。数字が減る法則がわからない。何がいけないのかわからないがとりあえず謝る。俺はダメな新入社員か。数字の減るペースは一定では無い。時間にばらつきがある。だから時間経過で数字が減っているわけではなさそうだ。おそらく何かの行動が影響しているのだろう。スマートウォッチで言えば運動時以外にドキドキした時にも変動する心拍数のような、そんな判定があるのではないか。
 そんなことを考えながらトイレで用を足す。いわくつき物件で、拉致られているにも関わらず、便座に座っておしっこをする俺。誰への配慮なんだ。

 ザマース尾八代の荷物を漁り、箸の代わりになるものが無いか探すがやはり無く、しょうがないのでスープごと麺をすすることにした。麺の量を調節するのが難しい。スープと麺を顔一面にぶちまけてしまう恐怖に怯えながらなんとかカップラーメンを完食した。腹が落ち着くと脱出するやる気が湧き起こってきた。
 状況を整理する。玄関ドアが無い。窓ガラスも割れない。大きな音を出しても外には漏れてない。そして時刻は不明だがおそらく夜中で、近くに他の建物も無さそうだし、人も歩いていないのだろう。夜の山奥で遭難したかのような心細さだ。
 水もトイレもあるし、寝袋やわずかな食料はザマース尾八代のものがある。夜が明けてから本格的に脱出するか。夜中だと例え外に出られてもその後暗闇の中知らない土地を歩くのは無謀だし、本当にここが山奥だったら脱出できてもリアルに遭難する。

 ひとまず寝て、朝になるのを待つかと思ったが、俺が目覚めたのはさっきで眠気など無い。それに他人の寝袋に入るのも少し抵抗感があった。もちろんこのまま寝るには寒すぎるので寝袋は使わせてもらうつもりだ。でも眠くも無いのに他人の寝袋の中で長時間過ごすのは避けたい。変なところで潔癖な俺。そんな感じで寝袋を広げると、手が嫌な重さを感じ取る。明らかに寝袋だけの重さではない。寝袋の中に何かが入っている。ずっしりくる重さ。寝袋の顔を出すところを確認するも特に何もない。ファスナーをゆっくり開く。すると、先ほど嗅いだ酸っぱい匂いが鼻をついた。寝袋の中にはぬるぬるが満遍なく敷き詰められていた。
 もはや声も出ない。またゆっくりファスナーを閉め、寝袋など無かったことにする。匂いも気になるので寝袋は玄関側の通路に移動させた。幸いなことに手にぬるぬるは付着しなかった。だが気持ち悪いので手を洗う。

 相変わらず部屋の四方から聞こえるとも言えない何かが聞こえ、見えるとも言えない何かが見えていて、いちいち俺はキョロキョロした。何も無いのはわかっているのに、反射的に振り向かずにいられないのだ。
 このままでは脱出する前に精神が参ってしまう。いざという時に力が出ないかも知れない。絶対に脱出してやるという怒りにも似た何かによって、俺はかろうじて正常さを演じていた。
 今はできることをしよう。固定カメラの映像を見て脱出のヒントを得るんだ。

 ピコン

 デバイスが「85」を示す。
 数字は順調に減り続ける。いまだに減るきっかけがわからない。それより、この数字は朝まで持つのだろうか。寝ている間に「0」になることはないのだろうか。そして、「0」になった時、俺はどうなってしまうのだろうか。

⬛︎ザマース尾八代 2日目


 昨日は眠ることが出来なかった。
 当たり前だ。玄関が消滅。窓は開かないし割ることもできない。有能なお祓い師様は知り合いを通して危険を訴えてくるだけ。
 編集担当の山田くんに緊急事態であることを連絡しようとしたが、なぜか山田くんにも通話が出来ず、文章での救助依頼も送ることが出来なかった。スマホがぶっ壊れているわけではなく、なぜか「助けて」や「部屋から出ることが出来ない」という意味合いの文章だけが打ち込むことが出来なくなっていた。その代わり「元気」や「大丈夫」、「腹減った」など差し障りの無い文字はいくらでも打てるしメッセージを送信することは出来た。
 他に出来るのはこれまで通り山田くんに依頼してきた編集に対する指示だけ。編集依頼に関しては過去の送信履歴からコピペしたので送ることが出来た。
 だから昨日の映像素材と編集依頼を山田くんに送信することしか出来なかった。
 スマホは使えるのに助けを呼べない。当然のように110番にも電話が出来なかった。

 脱出できないのだから俺には映像素材を撮影することしかできない。
 定点カメラと手持ちカメラの録画ボタンを押す。
 玄関ドアがあった場所を撮影し、「やっぱり今日もドアがありません」とカメラマイクに向かって言う。ドアがあった壁を触るとそこもぬるぬるしていた。そのぬるぬるは酸っぱい匂いをしている。俺はもう精神が壊れてしまったのだろうか。驚くこともなく淡々と手を洗った。
「壁がぬるぬるで、酸っぱい匂いです」
 淡々と映像に収める。

 その頃にはもう眠気などなく、何時間起きているのかわからないがやけに頭が冴え渡っていた。そして、もう俺はここから出られないのであろうという確信のようなものがあった。腹も減らない。ただ、動画配信者として、映像を収め、声を吹き込み、山田くんに依頼を送信する。それだけの生命体になった。
 山田くんに昨日の映像素材を添付し編集依頼を送信した。山田くんからは「了解しました!」というこれまで通りの返答。人間とやり取りできるのがなぜかたまらなく嬉しく、とても愛おしい行為に思えていた。山田くん、いつも不満ひとつ言わずに編集をしてくれてありがとう。おかげで俺は動画配信者として生きていけるようになったよ。だがそのせいでこんな目に遭ってるけどな!俺は固定カメラから三脚をもぎ取り、それを窓ガラスに何度も何度も叩きつけた。何か叫んでいたが自分でも何と叫んでいたのかわからなかった。ただ胃の奥の、腹の奥の奥の方から吐き出される怒りや後悔や恨みや妬みなどを三脚に込めて、何十回も叩きつけていた。
 窓ガラスはビクともせず、俺の右手の皮は剥け血が出た。転がった固定カメラが俺を映している。山田くんはこの映像を見て何を思うだろう。助けを呼んでくれるだろうか。いや、山田くんはここの住所を知らない。そして、誰にもここの住所をメッセージ送信することなどできない。
 俺は死ぬんだ、ここで、きっと。

 部屋に違和感があり玄関の方に目をやる。
 部屋が狭くなっている。
 玄関ドアの壁が近づいてきたのか。
 もうどうでもいい。俺は動画配信者。壁を撮影するだけだ。
「壁が近づいてきました」
 そう、カメラに話した。

⬛︎閉じ込められた男 3


 定点カメラの充電が100%になった。
 保存されている動画は4つで、全てこの部屋の様子だ。1本あたり5時間ほどの内容。実際に投稿されていたシリーズ3本は10分くらいに収まっていたのでほとんどの素材が使われていなかったことになる。動画サイトに投稿された動画は3本あった。この定点カメラには4本の動画が残っている。4本目はおそらく生配信の時の映像なのではないか。もしかしたら生配信の時にザマース尾八代の死体を撮影していた人物が映っているかも知れない。
 だがもし犯人だとしたら定点カメラごと処分したはず。なぜこの部屋に残したんだ。そしてそいつが俺をこの部屋に拉致したのだろうか。とにかく脱出だ。1本目から順番に見ていこう。
 全部で約20時間ほどの映像素材だが、当然全てを等倍で確認することなどできない。いつ右手のデバイスのカウントが「0」になるのかわからないのだから。
 20時間見て何もヒントが無く、しかもカウントが残りわずか、という状況が一番やばい。
 まずは1本目の映像素材を見る。
 生配信の際は「どうせヤラセだろ」というコメントもあったが、生素材を見てはっきりとした。ヤラセなわけがない。ザマース尾八代は終始落ち着きが無く、怯えていた。
 画面の中でザマース尾八代はスマホを操作し、それから慌ててカバンに自分の荷物を仕舞った。俺が今手に持って見ている定点カメラも乱暴に回収され、カバンに仕舞われる。暗くなる画面。その後衝撃と共にカバンから定点カメラがこぼれ落ちたらしい。レンズは座り込むザマース尾八代の後ろ姿と、その先にある玄関ドアを映していた。
「ドアが…、え?」
 明らかに混乱しているザマース尾八代。ドアがどうしたというのだろう。ふと視線を映像から外し、玄関の方を見たがこちらの部屋はやはり壁だった。映像の中ではザマース尾八代が見つめている先にはドアがある。ザマース尾八代はいつでもドアから外に出られたはずだ。なぜ出ないのだろう。
 動画投稿サイトで見た時のザマース尾八代チャンネルのことを思い浮かべてみる。全3回のシリーズでは回を増すごとに衰弱していくザマース尾八代が心配で生配信を見届けようと思った。顔つきがやばくなっていくのもそうなのだが、言動も何を言っているのかよくわからずコメント欄も荒れていた。普段とは違う雰囲気の動画内容にも関わらず、編集のテロップはいつも通りの明るい調子で、それもまた異質感を際立たせていたのだった。
 いつもの元気なあいさつは無く、「チャンネル登録とグッドボタンをお願いします!」も言わず、テロップだけは使い回しの元気なあいさつの文字で、チャンネル登録などのお願いも派手な加工でされていた。多くの視聴者は「これが本物のいわくつき物件の影響力なのか」と感じたことだろう。それぐらい見ただけでわかるやばさだった。

 定点カメラはその後ザマース尾八代に拾われ、最初の位置に置かれた。
 レンズはずっとザマース尾八代のスマホ操作の情景を映していた。後ろを振り返ったり、立ち上がって部屋の中を歩き回ったりして落ち着きがない。壁を凝視したりしている。
 倍速で映像を見るが特に違和感は起きていない。ただザマース尾八代の不審な行動だけが映されていた。俺と同じく窓ガラスを割ろうとしているところも収められていた。
 1本目の動画が終了した。
 2本目の動画へ。これも倍速で見る。
 2本目の動画を見ながら実際に動画サイトに投稿された編集済みの動画のことも思い出す。1本目よりもさらにやばさが増したザマース尾八代。
 1本目の動画と同様に後ろを振り返ったりスマホをいじったりしている。
 すると突然定点カメラに手を掛けた。定点カメラは畳の上に落ち、ザマース尾八代が居た窓ガラス側とは反対の方にレンズが向いた。何もない壁を映す定点カメラ。ザマース尾八代の怒鳴り声と何かを激しく叩く音が部屋の中に響き渡り、カメラはそれを収音し続けていた。
 俺の手元の定点カメラからでも耳を塞ぎたくなる大きな音が飛び出してくる。ザマース尾八代が何を叫んでいるのか聞き取ることは出来ないが、おそらく俺が今思っているようなことを叫んでいるのだろう。この部屋に閉じ込められた怒りや恐怖、気が狂ってしまいそうな状況に抗うために叫び怒り、それを叩きつける。きっと三脚で叩きつけているのだろう。ふと手元の映像から視線を外し窓ガラスの方を見る。こちらの窓ガラスには傷ひとつ付いていない。そして三脚はこの部屋には無い。投稿動画でのハンディカメラ視点の映像には定点カメラが三脚に乗っていたのが映っていたので、あの時点では三脚があったのは間違いない。

 ザマース尾八代はなぜ玄関ドアを開けて外に出ようとしないのか。
 もしかして出られないのではないか。
 もしかして、彼も俺と同じように壁があるように見えていたのではないか。
 そんな想像をした。
 ザマース尾八代の右手に血が滲んでいて、当時はそれもコメント欄を荒れさせるきっかけとなった。「やりすぎ」とか「血はやばい」とか「BANされるんじゃ?」とか。

「壁が近づいてきました」
 定点カメラの中のザマース尾八代がそんなことを言った。画面を凝視するがどこの壁も近づいているようには見えない。やはり彼にだけそう見えているのか。編集された投稿動画も3本とも特に部屋内の変化は確認できなかったが、もしかしてザマース尾八代にはそのように見えていたのか。
 定点カメラの中で「壁が近づいてきました」とザマース尾八代が言いながら見つめた先は玄関へ向かう通路だ。俺もふと部屋から玄関の方に目を向けた。
 全身が粟立つ。定点カメラを放り投げそうになった。
 壁になっていたのだ。さっきまで通路の突き当たりの玄関ドアだけが壁になっていたのに、居間のすぐ先が壁になっている。これではもうトイレに行けないじゃないか。
 そんなことをふと考え、その滑稽さに俺は笑った。笑って笑って笑いが止まらなかった。怖い。このまま壁が居間に迫ってくるのか。怖い。小便とうんこはどうすりゃいいんだ。声をあげて笑う。怖い。

 ピコン
 ピコン
 ピコン
 ピコン

 右手のデバイスが振動し続けた。みるみる内に数字が減っている。笑える。うんこに反応してんのかこいつは。うんこセンサーか。大笑い。俺は泣いていた。迫り来る壁と、減り続ける数字と、狂ってしまったザマース尾八代と、死体となったザマース尾八代と。色々なものがぐっちゃぐちゃになって俺の頭の中を駆け巡り、声のような何かが耳の奥の耳小骨を振動し続け、俺の眼球はせわしなくギュルギュル回り、見えるとも言えない何かを捉え続けようとする。
「あぁ……、あ、ああ………」
 俺の口から音が漏れ出ていく。それは音と一緒に俺の魂の一部すらも持っていってしまうようで、それと同時に俺の背筋と腹筋は力を奪われ、もはや座ってもいられないのだった。
 畳に横たわる俺。その姿はこの部屋で目覚めた時と同じ格好でもあり、ザマース尾八代の死体の格好とも同じであった。

 ピコン
 ピコン
 ピコン

 振動とアラームを止めない右手のデバイス。
 そして突然部屋の中に糞便の激臭が蔓延した。あまりの臭さに、泣きながら俺は先ほど食べたカップラーメンの未消化の麺を酸っぱい匂いのにがい液体と共に吐き出した。吐いても吐いても吐き足りないほど吐いた。胃酸の酸っぱい匂いと、ラーメンスープの味噌風味と、苦味と、そして、糞便の激臭とが混ざり合い、俺は胃の中に吐き出すものが無くなっているにも関わらずずっとえづいた。口の周りがドロドロぐちゃぐちゃに汚れ、顔面全体を歪ませてえづき続けた。

 俺は理解した。
 壁のぬるぬるが酸っぱい匂いだったのは、あれは胃液だったのだと。この部屋の胃液が漏れ出た匂いだったのだと。そして今は糞便の激臭が壁全体から漏れ出ている。
 俺はこの部屋に喰われたのだ。
 最初のぬるぬるは唾液。次のぬるぬるは胃液。そして今は大腸の中。壁が迫ってきて、部屋が狭くなり、俺はこの部屋の口から入り喉を通りついには大腸にまで来てしまったのだと。

 右手のデバイスを見ると「20」にまで数字が減ってしまった。
 デバイスの竜頭を必死にカチカチと押しまくるとアラームが止まった。アラームを止めるだけの機能?俺が弱ると数字が減るのか。いたぶり、弱らせ、そして食べやすくしているのか。精神と魂を咀嚼して消化しているのか。
 俺は泣きながら、吐き気を抑えながら、大笑いした。口からゲロと胃液とよだれを撒き散らしながら笑った。こんなに笑ったのは小学4年生の頃におとうさんに脇腹をくすぐられた時以来だ。あの時は笑い死ぬかと思った。子供の力では絶対におとうさんの手を引き剥がせない。大笑いして苦しい。苦しいのに大笑い。助けて。あの時はおかあさんがおとうさんを止めてくれたっけ。
「おかあさん……」
 俺はドロドロぐちゃぐちゃの顔を洗い流す勢いで大泣きした。涙とゲロと胃液とよだれで顔面がぐちゃぐちゃだ。

⬛︎ザマース尾八代 3日目


 右手がじんじん痛い。
 手のひらの皮が剥けていて昨日三脚で窓ガラスを殴打したことを思い出した。窓ガラスには傷ひとつ付いていない。相変わらず眠れず、それ以前に寝袋にはぬるぬるが詰まっていて寝られるはずも無かった。すべてが当たり前のように感じられるほど俺の頭はおかしくなってしまったのだろうか。
 腹も減らない。1泊のつもりで来たので途中でカップラーメンを買ってきたが、結局食べずに済んだ。コンビニ店員が箸を入れ忘れていたのでむしろちょうどいい。いや、箸があれば自殺できたかも知れない。そう考えるとやはりあのコンビニ店員は許せない。あいつまで俺の救いを奪うのか。でも割り箸では自殺なんて不可能か、などと思い直す。
 玄関ドアを塞いでいた壁が居間の方まで迫り、トイレにも台所にも行けなくなってしまった。
 壁から酸っぱい匂いだけじゃなく、糞便のような匂いがしてきた。俺の代わりに便所に行ってくれたのか。そんなどうでもいいことを考えて片頬を少し上げた。

 部屋がさらに狭くなっていく。
 6畳ワンルームだったのに、今は3畳くらいしかない。三方の壁が近づいてきたからだ。動いているところは見てないのに、目を離すと近づいている。このまま潰されるのだろうか。せめて不動産屋にはクレームを言いたい。3畳しかねーじゃねーか、って。家賃下げろ、って。「家賃500円のいわくつき物件に住んでみた」という動画を投稿してバズらせて金持ちになるぞ。


 生配信をしよう。ふと思い立った。
 昨日と一昨日の動画素材を山田くんに送ったが返答はいつもと変わりなかった。あの動画を見ても何も感じないのだろうか。「動画サイトにアップロード終わりました」という報告ももらってるので、山田くんはいつも通り仕事をこなしてくれている。
 山田くんには今日撮影した動画素材を編集してもらい、追加で最後に生配信の告知を差し込むように依頼した。今日中に動画をアップロードしてもらい、明日20時から生配信があると伝えてもらう。
「了解しました!」といういつもの返信が頼もしく感じた。
 生配信で現状を訴えれば助けを呼んでくれる視聴者がいるかも知れない。この部屋のことに詳しい視聴者がいるかも知れない。近くに住んでる視聴者がいるかも知れない。助けてくれるかも知れない。かも知れない。かも知れない。助けて。助けてください。生きたい。死にたくない。

 山田くんにメッセージを送り終えると俺の身体に異変が起きた。
 右手の怪我をした部分が膿んでいた。そのジュグジュグした肉から血液以外にも黄色がかったドロリとした液体もあふれてきた。思わずズボンで赤と黄色の体液を拭った。右手が熱い。右手だけではなく左手も、両足も、熱い。
 右手の膿んだ部分は少しずつ少しずつジュグジュグ範囲を広げていき、まずは右手人差し指がぼとりと畳の上に落ちて転がった。痛みは無いが熱い。右手人差し指を失ったというのに、俺はあきらめにも似た、こうなることがあらかじめ察していたような、そんな気持ちだった。この部屋の糞便の激臭が、俺の右手の人差し指があった辺りからも匂ってきて俺は嘔吐した。
 俺は慌ててスマホを操作しようとしたが、左手も膿んでしまい、指も融け落ちてしまい、操作できない。両手が糞便臭い。
「助けて………」
 落としたスマホの画面が光り、知り合いがお祓い師の先生の伝言を送ってくれたのが見えた。
「遅ぇよ………、遅ぇよ!!」
 俺はありったけの大声で叫ぼうとしたが、俺の唇もいつの間にか膿んでいて、ぼとりと落ち、赤い血液と黄色い体液を垂らしていた。口の中が鉄の味や苦い味がして吐き出す。つばと一緒に膿んだ舌もぼとりと吐き出してしまった。
「うぅぁぁぁ…あぁぁ」
 助けてくれ。言葉にならないうめき声でそう願った。俺は融けた身体から糞便の悪臭を放ちながらそう願った。もう助かるはずが無いのに。笑える。俺は頭がおかしい。両足が融け、糞便臭くなり、左手も、腹も融け、糞便臭くなり、それでも助かって生きていられると思ってるのか。これは笑える。これまでのどんな動画よりも笑える。俺は馬鹿だ。一番面白いコンテンツがこんなところにあった。全身が膿み、融け、爛れ、赤黒い血液と、淀んだ黄色い体液と、糞便の悪臭を撒き散らす動画配信者だ。俺だ。俺を見てみんな笑ってくれ。動画を拡散しろ。再生数をぶん回せ。俺はここだ。
 畳の上に横たわる。
 この部屋に来てから3日目にしてようやく俺は眠気に襲われた。眠くて眠くてしょうがなかった。


⬛︎閉じ込められた男 4


 少しずつ、少しずつ、壁が迫ってきている。
 壁はぐじゅぐじゅと液体を噴き出し、飛沫が俺の身体に掛かった。赤黒く変色した壁には無数のひだが敷き詰められていて、一本一本が指のようにのたうち回り、獲物を求めて伸びてくる。
 俺は見ていた定点カメラを投げ捨てた。もう動画をチェックしている余裕なんて無い。
 視界の端で何か動いているようなものの正体が分かった。壁だ。壁自体が蠢いていたのだ。今は三方の壁が蠕動している。ぬるぬるを溢れさせながら、激臭を放ちながら、ぬらぬらと蠕動している。
 音は壁同士がこすり合わさった時に発生している音だった。獲物を目の前に壁が蠢いていたのだろう。
 畳の上で横たわる俺は次第に手足が熱くなっていくのを感じた。慌てて両手を見る。手が、融け出していた。熱い。熱い。足も融けている。熱い。おそらく服の下では他の部分も融けているだろう。全身が熱かった。ザマース尾八代はこんな目に遭っていたのか。そんな状況で自分を撮影し、動画投稿をしていたのか。
 実際に動画投稿サイトに編集した動画を投稿していたのは別に編集担当者が居たそうだが、疑問なのはなぜザマース尾八代は編集担当者に助けを求めなかったのかだ。
 でも同じ状況になってわかった。きっと助けが届かなかったのだろう。ザマース尾八代が出来たのは、動画を撮影することだけ。それを編集担当に送ることだけ。俺がザマース尾八代の定点カメラ映像を見て違和感が無かったように、編集担当も何も感じなかったはずだ。だからいつも通り編集し、動画を投稿した。4日目の生配信はザマース尾八代本人が撮影する予定だったのだろう。生配信で助けを求めようとしたのかも知れない。

 熱い。全身が熱い。左手首の先はもう融け落ちてしまった。両足首から先も。融けた部分から血液と体液が滲み出る。その間も右手のデバイスは律儀に数字を減らしている。
 15。
 10。
 5。
 アラームを止めたいが竜頭を押すための左手がもう俺には無い。クソ。なんでこんなことに。俺は右手を振り上げ蠢く畳を殴り付けようとした。その時奇跡が起こった。右手ごと融け落ちたおかげで右腕を振り上げた勢いでデバイスがスポッと抜けたのだ。ゴトッという音を立てて畳の上に落ちたデバイスがけたたましく鳴り響く。数字が0になる前に外せたからなのか、先ほどのアラームとは全然違う緊急性を感じる警告音に切り替わった。表示盤のライトも赤に変わっている。
 俺は「ざま見ろ!」と叫んでいた。激しく蠢く壁と畳。

 ガラガラガラ

 窓ガラスが開いた。あれだけ叩いてもびくともしなかった窓ガラスが、開いていたのだ。デバイスが肉体から離れたことで窓ガラスのロックが解除されたのだろうか。
 俺は両手両足の先が融けて失くなっていたので両ひじと両ひざを必死に動かし、蠕動する畳に抗って、なんとか窓まで這いつくばった。腹の肉も融け、小腸が少し体外に出そうになっていた。全身が自分の体液と、壁と畳からのぬるぬるとでぐちゃぐちゃだったが、それでも必死に這い上がった。
 「ざま見ろ!」
 もう一度叫ぶ。
 鳴り響く警告音。俺にはそれが悔し紛れに叫ぶガキの甲高い絶叫に聞こえて気分が良かった。
 俺はデバイスとこの部屋を背中に、窓から外に脱出した。

 数秒間、落下の浮遊感が身体を包む。

 ぐちゃ

 俺はぐちゃぐちゃどろどろした何かの上に落ちた。
 そこは糞便の激臭に加え、幾重にも折り重なった死体の山から発生している腐敗臭。ひとつやふたつじゃ済まない。大量の死体でなければここまでの激臭にはならないだろう。俺はまた吐いた。鼻を塞ごうにもひじから先はもう俺には無い。
 俺は、脱出したんじゃない。窓ガラスから排便されたんだ。部屋に喰われ、喰い終わったから排便されたんだ。
 それに気付き、俺は大量の死体の山の一部となった。
 けたたましく鳴り響いていたデバイスの警告音はぴたりと止み、余韻だけがいつまでもこだましていた。

⬛︎ザマース尾八代 4日目(生配信当日)


 22時頃。ザマース尾八代のハンディカメラを壁が操っている。
 壁がうねうねと蠕動し、壁の無数のひだがまるで人間の指のように動きハンディカメラを器用に操作し、食べ終わった獲物を撮影している。
 約10分間撮影し、その後蠢く壁は狭く狭くなり、ザマース尾八代を開いた窓まで運び、そこから排泄した。

⬛︎山田


 ザマース尾八代さんから久しぶりに編集投稿依頼が来た。
 生きてたんだ、あの人。半年ほど前に動画投稿が途切れて以来、ネットでは「ザマース尾八代失踪の謎」なんて考察サイトが乱立したけど僕のところにすら音沙汰が無かった。考察サイトを僕も興味深く読んで回った。結局真実など誰にもわからないし、ザマースさんが編集依頼を唯一出している僕ですら何もわからない。ザマースさんとは編集代行サービスでマッチングしただけでネット上でのやり取りしか面識が無く、直接会ったことが無い。

 ザマースさんからはいつものような事務的な定型文で編集依頼と動画サイトへの投稿依頼が届いた。僕は依頼された仕事をこなすだけ。いつも通りもらった動画素材をチェックした。

 動画は定点カメラの映像で、ザマースさんではない知らない男が映っていた。30歳から40歳手前くらいの男。特にこれといった特徴の無い中肉中背の男。
「誰だこれ。まさか仕込みの俳優?」
 そう呟きながら編集作業を続ける。

 ザマース尾八代さんが最後に消息を絶った例のいわくつき物件の部屋に居るその知らない男は、畳の上で腕と足をばたつかせて奇妙な動きで這いつくばって、何かを叫びながらそのまま開いている窓から身を投げ出して落ちた。
「あ」
 思わず声に出る。
 僕はいろんな動画配信者から編集依頼を請け負っているので、ありとあらゆる衝撃映像を見まくってきた。その中でもこの映像は特にやばい。みぞおちにズシンと来るものがある。
 この映像をアップロードして良いのか?映像編集の腕の見せ所ってことか。ザマース尾八代さんからの編集依頼もいつも通りの定型文だし。この知らない男が窓から落ちる寸前で映像をフェードアウトさせればアカウントBANの対象にはならないだろう。
 僕の編集に掛かればバズること間違いなし。いろんな視聴者を虜にする動画の完成だ。
 動画の最後にはお馴染みのザマースさんの「チャンネル登録!グッドボタン!よろしくお願いし!ます!!」というストック映像を差し込む。編集室にザマースさんの元気な声が響いた。何か雑音が混じってるようにも聞こえたが、大きな問題じゃないだろう。
 僕はこの動画を編集し、シリーズ最新作として動画サイトにアップロードした。


 【ニュース速報】

 栃木県の山中で変死体が発見されました。遺体の身元は東京都在住の会社員小丸川隼人さん(35)。薬品のような液体で融かされた跡がありました。
 警察によりますと小丸川さんは12月1日に行方がわからなくなっており捜索願いが出されていました。第一発見者は山中を登山している男性で「人のようなものが倒れている」と110番通報がありました。その後身元が判明。小丸川さんは動画配信者ザマース尾八代さんのリスナーと見られ、同時期に捜索願いが出されているザマース尾八代さんの事件と関連があると見て事件と事故両方で捜査を行なっています。
 小丸川さんの遺体の近くに黒縁メガネを掛けた状態の白骨化した成人男性も見つかり関連を調べています。
 また、先ごろザマース尾八代さんの動画チャンネルに投稿された動画に、小丸川さんによく似た人物が映っているとの情報もあり捜査を進めています。
 警察は現在、同チャンネルへの配信停止をプロバイダへ要請していますが、断続的に新たな動画が投稿されており、注意を呼びかけています。



いいなと思ったら応援しよう!

さかもと五度 チップ!ありがとうございます! これからも社会平和に貢献する記事を書き続けます!