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撮りたい。でもスマホ越しには見たくない。――AIに無茶振りしたら、存在しない眼鏡のWebサイトができていた話

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スマートグラスを買うために、まず「普段から眼鏡を掛けている人」になる準備をしていた。

我ながら、一体なんの準備なんだと思う。
けれど、普段メガネを掛けない人間がある日突然、カメラ付きのハイテク眼鏡を鼻に載せて現れたらどうだろう。「急にあいつどうした?」「ギークアピールか?」と余計なザワつきを生むに決まっている。

そこで少し前から、3COINSで見つけた1,200円の黒縁メガネを掛けて生活していた。
一見すると普通の伊達メガネなのに、紫外線に当たるとレンズがスッと濃くなる調光仕様。もともと眩しいのが極端に苦手で晴れた日はサングラスが欠かせないし、昔からちょっと「メガネキャラ」への憧れもあった。「坂本はいつも眼鏡(たまにサングラス)の人」という既成事実を先に周囲へ刷り込んでおき、ある日しれっと中身だけスマートグラスにすり替える。完璧なステルス作戦だ。

もっとも、周囲の誰もそこまで僕の顔面に関心を持っていない可能性は、いったん棚に上げておく。


新宿の雨と、白く曇った現在地

欲しいスマートグラスの条件は、僕の中ではごく当たり前のものだった。

カメラがあって、マイクとスピーカーがある。走っているペースや通知がチラッと視界の端で見える、控えめな極小ディスプレイ。外に出たら勝手にサングラスになる調光レンズ。そして何より、普段着にちゃんと溶け込むこと。

並べると欲張りセットに見えるかもしれないが、SFの世界のサイボーグになりたいわけじゃない。日々の暮らしの延長線上で欲しい理由を重ねていったら、自然とそうなっただけだ。

ネットで数週間スペック表とにらめっこしても埒が明かないので、都内へ出る用事のついでに、新宿のビックカメラとヨドバシカメラをハシゴすることにした。

その日は折悪しく、線状降水帯の警報が出るほどの蒸し暑い雨。
ガンガンに冷房の効いた量販店から外へ出た瞬間、例の1,200円スリコメガネが一気に結露した。目の前が真っ白になる。未来の視界を買いに来た男が、現在の視界を完全にロストしている。

濡れたレンズを拭きながら次の店舗へ滑り込み、フロア案内図を見上げてまた立ち尽くした。

「……そもそも、スマートグラスって何階にあるんだ?」

VRゴーグルなら、この10年の歴史があるから「ゲーム・VR体験コーナー」と誇らしげに書かれている。だが、その棚を目指すと見事に裏切られる。そこに並んでいるのは、頭をすっぽり覆うゴツいヘッドマウントディスプレイや、仮想空間へダイブするための重装備たちだ。

違う、そうじゃない。僕が探しているのは電脳空間に潜るためのヘルメットではなく、街を歩き、人の目を見て話せる「普通の眼鏡」なのだ。思想も文脈も根本から違う。

時計売り場の片隅か、骨伝導イヤホンの隣か、それともPC周辺機器の棚の奥か。売り場の定位置すら定まっていない事実そのものが、このデバイスの過渡期を生々しく物語っていた。


鏡の前で、スペック表はあっさり敗北する

売り場を彷徨い、ようやく実機を手に取って鏡の前に立ってみた。
そこで突きつけられたのは、「スペック表で満点に見えることと、自分の顔に載せたいかどうかは、まるで別問題だ」という残酷な現実だった。

  • Rokid:機能は本当に盛りだくさんで意欲的。けれど鏡を見ると、フロントの平面感が強すぎて、僕の顔と普段着に合わせると「機械を顔面にマウントしている人」の違和感が勝ってしまう。

  • Even G2:佇まいが抜群に美しい。繊細で、眼鏡として文句なしにかっこいい。毎日掛けたい。……なのに、カメラがない。

  • Meta Ray-Ban:サングラスとしての完成度やスタイルはさすがの一言。ただし、視界で情報をチラ見するディスプレイを完全に割り切って捨てることになる。 最近出たRay-Banブランドを外したMetaグラスの方が好きかも。

機能を取ると顔がサイボーグになり、デザインを取るとカメラが消え、スタイルを取ると画面が消える。

どれもあと一歩、僕の生活にピタッとハマらない。
「見た目くらい多少は妥協すれば?」と思うかもしれない。でも、スマホなら気に入らなければポケットに突っ込めばいい。眼鏡は顔の真ん中にあるのだ。その小さな違和感を毎朝引き受けるのは、他ならぬ自分自身だ。

眼鏡にとって、佇まいは飾りじゃない。毎日掛け続けるための「絶対的な機能」なのだ。


撮影係になるために、出かけているわけじゃない

なかでも、カメラだけはどうしても外したくなかった。理由は極めて泥臭い。子育てと、山のトレイルランニングだ。

子どもが突然なんの脈絡もなく変なツボに入って、転がるように笑い崩れる瞬間。
山道を息を切らして駆け上がり、ふっと木漏れ日が抜けた瞬間。

そういう時間を残したい。けれど、ポケットからスマホを取り出して構えた瞬間、僕は「一緒に笑い転げていた父親」や「今ここを走っているランナー」から、ただの「記録係」に降格してしまう。

子どもの表情を直接見ていたはずの視線が、スマホの画面の枠内に収まっているかの確認作業にすり替わる。
手をつないだまま、走ったまま、自分の目線が見た生々しい数秒間だけをすっと残したい。欲しいのは視界を情報で埋め尽くす近未来デバイスではなく、スマホを取り出す理由を減らしてくれる道具なのだ。


冗談を言ったら、存在しない眼鏡が回り始めた

モヤモヤを抱えたある夜、半分やけっぱちの冗談でChatGPTに無茶振りを投げてみた。

「もうさ、僕が欲しい眼鏡って自分で作れないのかな?w ディスプレイを入れるとフロントが平らになって安っぽくなる制約、どうクリアすればいい?」

本気で工場を探す気なんて毛頭ない。賢いAI相手に愚痴をこぼす実験のつもりだった。
ところが、返ってきた答えが妙に真面目で面食らった。光を導くウェーブガイドの構造や部品の重量配分など、光学設計のツボを押さえた現実的な解説を真顔で返してくる。

面白がって壁打ちを続けていたら、ChatGPT Astraが勝手にテンションを上げて、頼んでもいないのに「ブラウザで3Dモデルをグリグリ回せるコード」まで勢いよく書き出してしまった。

頼んでないのに。

画面を開くと、僕の欲しかった眼鏡がポンと浮いている。フレームの色も変えられるし、調光レンズの濃度も変わる。ランニング中の小さなHUD表示シミュレーションまで動いている。あまりにおかしくて、せっかくだからドメインを当ててそのままWebに公開してしまった。SEN / 01 という、いかにもそれらしい名前までつけて。

もちろん、勘違いしてほしくないのだが、僕がハードウェアを作れるようになったわけでは決してない。
いざ本気で作るとなれば、金型代、基板設計、放熱、技適、バッテリーの重量バランス……考えただけで気が遠くなる。「いや、絶対無理でしょ!」と即座に我に返る。ハードウェアの現実はとんでもなく重い。

けれど、「なんか違うんだよな」という消費者の曖昧な文句が、AIとの対話によって「どの制約をどう解けばいいのか」という具体的な設計の足がかりにまで翻訳されたこと。その変化のインパクトは凄まじかった。


あんなに欲しかった画面が、急にどうでもよくなった

ところが、そこまでやってから、ふと根本的な前提がひっくり返った。

僕はずっと、スマートグラスを「人間が見るための小さな画面」として捉えていたのではないか。
どれくらい綺麗に表示できるか、スマホを出さずに何が見えるか。
もちろん便利だ。けれど、AIと一緒に生きる道具として考えるなら、もっと本質的な問いがある。

「AIから僕に何を見せるか」よりも、「僕のいる現実を、AIにどれだけ渡せるか」。

出力のリッチさではなく、入力の密度。
AIを「画面の向こうの検索窓」ではなく、文脈を理解して並走してくれる相棒として捉えるほど、重要なのは画面の解像度ではなく、AIに届く現実の解像度だ。

そう気づいた瞬間、カメラの役割が反転した。
子どもや景色を、あとで見返すために「残す」カメラ。それに加えて、今自分が置かれている状況を、AIに「伝える」カメラ。
同じレンズに、まったく別の役割が重なった。

状況をAIへ解像度高く渡せるなら、視界を塞ぐ立派なディスプレイなんて、そもそも要らないんじゃないか?


今のプロンプトは、現実の「あらすじ」に過ぎない

AIに何かを相談するとき、僕らはいつも「こういう状況なんだけど……」から話し始める。
誰と何を話したか、どの資料のどこで詰まっているか、どんな空気感だったか。本題に入る前に、せっせと背景を文章にして打ち込み、スクショを貼り付ける。

これって、自分が見たり聞いたりした現実世界を、AIが読める形へ必死に手作業でエンコードしている状態だ。
しかも渡せるのは、自分が言語化できた「あらすじ」だけ。そこからこぼれ落ちたニュアンスや空気感は、どれだけ賢いAIにも伝わらない。

たとえば街を歩いていて、古いトタン看板の褪せた青に目を奪われ、「この青、いいな」と呟く。
その瞬間の一人称視点の画像と、位置情報と、僕の一言が結びついて残る。
あとでデスクに向かい、「さっきの青をデザインに使いたい」と言ったとき、一から状況を説明しなくても、AIと同じ景色を指差しながら会話ができる。

いわば、現実世界の「Context Bridge(文脈の架け橋)」。
画面に答えを表示させることより、僕とAIの間にある説明の摩擦をゼロに近づけること。
この視点を持った瞬間、僕の中でスマートグラスの優先順位は根底から覆った。


人生を防犯カメラ化したいわけじゃない

ただし、この話は一歩間違えると「じゃあ24時間ずっとカメラを回して、生活のすべてをAIに吸わせればいい」という短絡的なディストピアへ転がりがちだ。

僕が欲しいのは、自分の人生を防犯カメラ化することではない。
ここで言う「密度」とは、テラバイト単位の生データのことではなく、僕の意図と結びついた「文脈の濃さ」だ。何時間もの垂れ流し動画より、一枚の写真と「ここが気になった」という一言のほうが、はるかに雄弁な文脈になる。

何より、子どもの笑い声をAIに「子どもが機嫌よく遊んでいた」と要約されても困るのだ。
そこは要約するな、と。言い間違いも、甲高い引き笑いも、その場の空気ごと残したいから撮っている。思い出として愛でる記録と、AIへ渡すコンテキストは、保存のレイヤーが根本から違う。

そして当然ながら、僕の視界には常に「相手」がいる。
子どもも、仕事相手も、僕のAIにデータを食わせるために生きているわけじゃない。「便利だから」を免罪符に、他人のプライバシーを踏み荒らしていいはずがない。
録画中であることが誰の目にも明らかなこと。必要な場面でオフにできること。どのデータを外へ渡すかを、自分の意思でコントロールできること。
入力の密度を上げたいからこそ、「入力しない自由」が担保されていなければ、安心して顔に載せることなんてできない。


デザインは、接続し続けるための「インフラ」だ

そう考えると、一周回って「見た目のかっこよさ」がますます最重要要件になってくる。

AIに現実の文脈を渡したいなら、その眼鏡を朝から晩まで自然に掛けていられなければ話にならない。
重いから外す、服に合わないから引き出しに眠る、充電が面倒で掛けなくなる。そうなった瞬間、どんなに賢いAI機能も、僕の現実とは完全に切断されてしまう。

普通の眼鏡として掛けたいと思える佇まい。疲れない軽さ。外と室内をシームレスに行き来できる調光レンズ。
これらはガジェットとしての「おまけ」ではなく、現実とAIを接続し続けるための「土台そのもの(インフラ)」だったのだ。

スリコの1,200円メガネで周囲へ地ならしをしていた僕の滑稽な遠回りも、あながち間違っていなかったのかもしれない。


画面を増やすより、目の前の時間を増やしたい

普段からAIを使ってコードを書き、デザインや文章を作っている。新しいものをあっという間に生み出せる感覚は、純粋に刺激的で面白い。

けれど、なんでも綺麗に生成できる時代だからこそ、僕が本当に手放したくないのは「今日目の前で子どもが笑い転げた生々しい瞬間」であり、「自分の足で息を切らして山を駆け上がった生身の時間」なのだ。

生成された架空の世界に浸るためではなく、今ここにある現実を愛おしむために、テクノロジーを使いたい。
SEN / 01のWebサイトに置いた「画面を増やすのではなく、目の前の時間を増やす」という言葉。
最初は「スマホを取り出さずに撮影したい」というだけの意味だった。けれど今はそこに、「現実をAIに説明し直す手間を減らし、もっと目の前の現実に没頭したい」という願いが重なっている。

……まあ、あれこれ偉そうに語ってはみたものの、SEN / 01はまだブラウザの中で虚しくくるくると回っているだけだ。

どこかのメーカーがこれとまったく同じ思想の一本を明日ポロッと発売してくれたら、僕は喜んで自作ごっこをやめて秒でレジへ走る。メガネキャラの下準備は、もう完璧に整っているのだから。

ただ、次に売り場へ行くときは、店員さんに聞く最初の質問が変わりそうだ。

「これ、僕の使っているAIに、どこまでつながりますか?」

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