服部静尚@古代史講演2025第9回「難波京と大宰府」
2025年9月2日大阪産業創造館[服部静尚]古代史講演2025第9回「難波京と大宰府」
古代史研究家の服部静尚氏は、大阪産業創造館で開いた連続講演「難波京と大宰府」で、難波宮と大宰府政庁の成立をめぐる従来の歴史観に異議を唱えた。『日本書紀』には九州王朝の歴史が34年ずらされて転載されているとする古田史学・正木裕氏の研究成果を踏まえ、難波宮造営や持統天皇の吉野行幸、大宰府条坊都市の成立を再検証。発掘成果と文献を重ね合わせながら、「難波京は九州王朝の副都であり、大宰府こそ最初の都だった」とする独自の歴史像を提示した。
https://www.youtube.com/watch?v=-CxMlvYr5ek
===========
服部氏はまず、『日本書紀』に記された難波宮造営記事を取り上げた。通説では前期難波宮は652年に完成したとされるが、一方で天武紀には683年になって「まず難波に都を造る」との詔が現れる。すでに完成している宮殿を改めて造営すると宣言するのは不自然であり、記事同士が矛盾していると指摘した。
この矛盾について服部氏は、古田武彦氏や正木裕氏が提唱する「34年ずらし説」を紹介した。これは『日本書紀』編者が九州王朝の歴史を自らの歴史として取り込む際、年代を34年ずらして配置したという考え方である。683年の記事を34年前へ戻すと、645~652年の難波宮建設過程と自然につながり、記事全体が一連の流れとして理解できるという。
また、考古学的成果もこの見方を裏付ける材料になると説明した。難波宮跡からは652年前後と考えられる木簡や建築材が出土し、大規模な朝堂院や宮殿跡も確認されている。さらに宮域周辺では役所跡や漆容器なども多数発見され、中央官庁が集積した本格的な都であったことがうかがえるという。
服部氏は、難波宮に見られる朝堂院や大極殿、官衙配置は、その後の藤原宮や平城宮へ受け継がれた日本古代宮都の基本様式であると解説した。一方で、その原型はさらに古い大宰府政庁第1期に存在したとし、都城建設の源流は九州にあったとの見方を示した。
講演では、持統天皇の吉野行幸についても議論した。『日本書紀』では持統天皇が冬や夏を含め31回も吉野へ赴いたとされるが、飛鳥から吉野への距離や地形を考えると、数日で往復する記録は現実的ではないという。服部氏は、これも34年ずらされた九州王朝時代の記事であり、佐賀県周辺の「吉野」を指すとすれば軍事拠点への往来として合理的に説明できると述べた。
さらに、斉明紀と持統紀に分散して記された蝦夷来朝記事についても、人数や内容を照合すると一つの記事が二つに分割されていることが分かると紹介。こうした事例を積み重ねることで、『日本書紀』編纂時の歴史改編の実態が浮かび上がるとした。
講演後半では「条坊都市はなぜ造られたか」をテーマに、大宰府と難波京の都市構造を考察した。服部氏は、条坊都市は単なる都市計画ではなく、中央官庁と官僚住宅を一体的に整備するための国家プロジェクトだったと説明。律令制度では約9,000人もの中央官僚が勤務し、その家族を含めれば数万人規模の居住空間が必要となることから、碁盤目状の条坊は行政都市として不可欠だったと論じた。
発掘調査で大宰府周辺にも条坊道路や政庁跡が確認されていることを踏まえ、服部氏は「条坊都市が存在するという事実自体が、そこに都が存在した証拠である」と強調した。その上で、大宰府政庁第1期、前期難波宮、藤原宮、平城宮という順に日本の都城制度が継承されたとの見解を提示し、「古代国家形成の中心は九州王朝にあった可能性を考えるべきだ」と締めくくった。
