見出し画像

香我美橋:歴史を繋ぐ青い橋

香美市の中心を流れる一級河川、物部川。
この記事では、古くから荒れ川として知られている物部川に架かる一本の橋についてご紹介したいと思います。

香我美橋

地元住民からは青橋と呼ばれ親しまれている『香我美橋』は神母ノ木(イゲノキ)と談議所間に架かる橋です。
ここから下流は広大な香長平野が広がるエリアで、弥生時代から稲作が盛んに行われていたそうですが物部川流域は古くから洪水被害に悩まされてきました。

物部川沿いで発掘された弥生時代の石包丁


そのため川の東西の往来は、すぐに壊れてしまう貧弱な仮橋や渡し船を使うしかなく、高知の歴史や地理を記録した江戸時代の貴重な地誌(1815年完成)『南路志』にも物部川について「水出ニハ渡なし(増水時には川を渡る手段がない)」と書かれています。(南路志 第1巻より)


また、1832年の『韮生道中記』(「香北町史」より引用)には「神母木川船渡あり、川幅百二十九間、船賃定なし、茶店・材木屋あり(神母木川には渡し船があり、川幅は約234メートル、船賃は定まっていない。茶店や材木屋がある)」ともありました。

いなかみさんのブログより引用させていただきました。
談議所側から見た神母ノ木。中央下に見えるのが船着場
明治時代の神母ノ木、談議所間の渡し船で使用された鑑札。神母ノ木の表記が神母村となっている

人々の往来だけでなく、物部川源流の白髪山などで伐採された良質な材木や木炭の水運のため神母ノ木や談議所あたりは物流の拠点としても栄えたそうです。


西岸に上井(うわゆ)・中井(なかゆ)・舟入(ふないれ)・島井(しまゆ)の四用水、東岸には父養寺井(ぶようじゆ)があり、それぞれ高知城下や浦戸湾などへの輸送のために利用されました。

香我美橋から山田堰を臨む
上井口

しかし前述の通り、暴れ川として知られる物部川は増水時には対岸に渡ることができず水が引くのをひたすら待つしかありませんでした。


明治の終わり頃、当時山田町長だった松尾富功禄は香北・山田と高知方面の交通を便利にすることが産業の発展に繋がると考え、香我美橋架橋のため奔走します。
しかし他町村からの反対や、交通の利便性を考えると十禅寺橋(現物部川橋)を架橋する方が先なのでは?という世論の圧力に苦しむことに。


十禅寺橋が架橋されれば談議所・神母ノ木は上流との物資の集散地としての機能が失われ、町の衰退につながります。
富功禄は親友である土居八郎に相談・協力を得て、私費を投じて1910年着工、翌年ついに香我美橋はつくられました。

いなかみさんのブログより引用させていただきました。後ろに見えるのが当時の香我美橋


土佐山田町合併40周年記念写真集『ふる里の日時計』を見てみると、架橋当時の香我美橋は木製の吊り橋のように見えます。
詳しいことは図書館等で調べても分からなかったのですが、高知から大栃区間のバスが開通したとされる1929年ごろにこの香我美橋は、青ではなく赤い鉄橋になったようです。


しかしこの香我美橋は1972年の繁藤災害により橋脚流失、中央部分が陥没してしまいます。

物部川直轄河川改修事業資料より引用
現在の香我美橋


翌1973年に架橋された現在の香我美橋の橋台には、赤橋時代の残骸が今も残されています。

神母ノ木と談議所の間に香我美橋が架けられてから今年で114年。
大栃方面へ向かう際や、山田に向かう際、いつも何気なく車や自転車で通る青橋ですが、たまには先人の生活や昔の街並みに思いを馳せながら渡ってみてはいかがでしょうか。


記事執筆にあたりご協力いただいた方々

山﨑酒店
山﨑真幹さま

前田光一さま

企画協力・校正
石川沙貴さま


いいなと思ったら応援しよう!