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東京慕情

【あらすじ】


食品メーカーの営業・拓海(28)は、数字に追われて摩耗する日々のなか、祖父の遺品である古いラジオを手にする 。深夜にスイッチを回すと、激しい砂嵐のようなノイズの向こうから、高校生の少女・文乃(18)の声が聞こえてきた 。他愛のない会話を進める二人だったが、コロナの存在を知らないなど、互いの日常が決定的に食い違っていることに気づく 。なんとその古いラジオは、2025年と2015年という「十年の断絶」を越えて、過去と未来を繋ぐ奇跡の機械だったのだ 。しかも、文乃は拓海の高校時代のクラスメイトだった 。時空を超えて響き合う、二人のあまりにも切ない慕情の記録が、いま静かに幕を開ける 。
 

第一章 凍る星、掠れる声


 
​ 12月の終わり、東京の夕暮れはせっかちで、あっという間に街を灰色に染めていく。
 
 吸い込む息が肺の奥で小さく凍りつくような感覚を覚えながら、俺は総武線のシートに深く身体を沈めていた。まだ帰宅ラッシュには少し早い時間帯だが、車内には歳末特有の、どこかせわしない空気が漂っている。誰もがスマートフォンの発光する画面に視線を吸い取られ、無言で指を動かしていた。その無機質な光の群れが、ひどく寒々しかった。
 
​ 俺は、中堅の食品メーカーの営業部で、毎日車を走らせて取引先を回る生活を送っている。
 
 12月は、一年の中で最も苛烈な季節だった。クリスマスや年末年始に向けた歳末商戦の特設棚の確保、冬の定番商品の追加納品。食品を扱う以上、賞味期限の管理や、他社との熾烈な売り場の奪い合いは避けて通れない。少しでも配送が遅れれば、スーパーの棚に穴を開けることになる。それは食品メーカーにとって致命的な失態を意味していた。
 
 後輩の木村が仕込んできた急な納期の方針転換や、現場との泥臭い調整に追われ、心身ともにすり減る毎日。どれだけ自社がこだわりを持って作った食品であっても、結局は売上の数字と効率だけで人間が評価される。その冷酷な世界に、俺の心は完全に摩耗していた。
 
​ そんな日々のなか、その日は珍しく、溜まりに溜まった事務処理と来期の売り場提案書を作成するため、終日、自宅での書類作成を許されていた。一歩も外に出ず、パソコンの画面に向かって数字を打ち込み続けるだけの静かな一日。
 
 夕方、すべての仕事を終えて画面を閉じたとき、スマートフォンが震えた。画面に表示されたのは、埼玉の実家に暮らす母さんの名前だった。
 
『拓海? 仕事忙しいところごめんね。あのさ、小岩のばあちゃんのことなんだけど。最近ちょっと足腰が弱ってきたみたいで、電話しても『大丈夫』としか言わないのよ。一人暮らしだし、この寒さでしょ。お母さん心配だから、今日仕事終わりにでも、ちょっと様子を見てきてくれない?』
 
 普段なら面倒に感じる母さんからの頼み事だったが、数字に追われる日常から少しだけ逃げ出したい気持ちもあり、「分かった、今から行ってみる」と短く返事をして、俺は小岩行きの電車に飛び乗ったのだった。
 
​ 築何年になるのだろう。木造の古い平屋は、新宿のコンクリートジャングルに慣れた身には、まるで別の時間が流れている異界のように思えた。
 
引き戸を開けると、冬の乾いた空気の底から、仄かな畳の湿り気と、古いストーブの灯油の匂いが立ち上ってくる。
 
「おや、拓海かい。こんな日に、どうしたんだい」
 
 奥から現れた祖母は、驚きながらも、すぐに嬉しそうに目を細めた。
 
「母さんから、寒くなったから様子を見てこいって言われてさ」
 
「まあ、あの子は相変わらず心配性だねえ。私は元気だよ」
 
 そう言って笑う祖母と一緒に、簡単な夕飯を食べ、差し出してくれた湯呑みから立ち上るほうじ茶の湯気をすする。その温かさは、俺の凍りついた輪郭を優しく解きほぐしていくようだった。居間の古い柱時計が、カチコチと低く重い音を刻んでいる。その音を聞いているだけで、都会の濁った血が、少しずつ綺麗な水に入れ替わっていくような錯覚すら覚えた。
 
​ 夜が更け、祖母が「先に寝るよ」と一階の奥の部屋へ引き上げていった後、俺は二階の、かつて祖父の書斎だった部屋へ移動したものの、やることがなかった。
 
 新宿のワンルームマンションなら、とりあえずテレビをつけるか、パソコンで動画サイトを流しっぱなしにするところだが、この古い家にはそんなものはない。スマートフォンの画面をスクロールしても、流れてくるのは見飽きたSNSのタイムラインだけだ。都会の喧騒から離れた地方の夜は驚くほど静かで、そして、ひどく退屈だった。
 
​ 手持ち無沙汰に部屋を見回していると、窓際の小さな文机の上に、それが静かに座っているのが目に留まった。
 
 木製のトランジスタラジオ。
 
 祖父が生前、冬の凍てつくような夜、一人で静かに聴いていた古い機械だ。なんとなく引き寄せられるように手に取り、裏蓋を外してみる。案の定、中に入っていた電池はすっかり錆びついて寿命を迎えていた。必要なのは、単三電池が4本。
 
「……ラジオでも、聴いてみるか」
 
 今夜はなんだか、妙に目が冴えて眠れそうにない。俺はコートを羽織ると、部屋を出た。確か駅からの道すがら、歩いて数分のところにコンビニがあったはずだ。静まり返った夜の冷気に身を震わせながら、ついでに夜食のカップ麺でも買ってこようと、暗い夜道へ足を向けた。
 
​ コンビニの看板の白い光が、冬の闇の中にぽつんと浮かんでいる。
 
 カツカツとアスファルトを叩く自分の足音だけが響く夜道を往復し、店員と一言も交わさずに買い物を終えた。手元には、ビニール袋に入った単三電池の4本パックと、温かいお茶、それから夜食のカップ麺。
 
​ 部屋に戻り、まだ冷たいままの電池を一本ずつ、ラジオの金属のバネにパチン、パチンと押し込んでいく。
 
 カチリ、とスイッチを回した。
 
 刹那、部屋の静寂を切り裂いて、ザザザ、という激しい砂嵐のようなノイズが溢れ出した。
 
 時計の針は、すでに深夜の一時を回っている。
 
 俺は息を詰め、濁ったダイヤルをミリ単位で慎重に回していく。真冬の深夜の電波はどれも冷たく尖っていて、ただ意味のない雑音のうねりだけが鼓膜を擦った。北関東のローカル局の天気予報が、霧の向こうのような不鮮明さで通り過ぎていく。野球のシーズンなどとうに終わった、静まり返った冬の深夜の電波の海。
 
 諦めて指を離そうとした、その時だった。
 
​ ノイズの、ほんの僅かな隙間に、柔らかな何かが混じった。
 
 それは音楽でも機械音でもなく、言葉の形をしていない、かすかな吐息のようだった。
 
「……あの、誰か、いらっしゃいますか?」
 
 耳を疑った。ノイズの向こうから響いたのは、まだ若い、少女の声だった。どこか遠くの深い井戸の底から響いてくるような、頼りなげで、けれど静かに通る声。ひどく緊張しているのが、電波越しにも伝わってきた。
 
俺は無意識に、プラスチックの筐体に向かって声を返した。
 
「……はい。聞こえていますよ」
 
ザザ、と電波が大きく暴れ、次の瞬間、彼女が小さく息を吸う気配が鮮明に届いた。
 
「あ、本当につながった……。嘘みたい。あの、お仕事中か何かですか? 夜遅くにすみません」
 
「いえ、大丈夫です。仕事は夕方に終わって、今はばあちゃんの家で一息ついて、のんびりしていたところですから。あなたは?」
 
「私は……葛飾の高校生です。高校三年生で、今、塾の冬期講習の宿題が全然終わらなくて。いつもみたいにラジオを聴きながら勉強してたんですけど、急にすごいノイズになっちゃって。慌てて直そうとツマミをぐちゃぐちゃ弄ってたら、なんだかラジオの向こうに人の気配がした気がして……つい話しかけちゃいました。変な人だと思われましたよね」
 
少し早口で、自嘲気味に笑う彼女の声は、トゲだらけの現実を生きる俺の心に、不思議なほど心地よく染み込んできた。
 
「そんなことないですよ。俺も、じいちゃんの古いラジオをなんとなく回していただけですから。同じようなものですね」
 
「同じ、ですか……。なんだか、ちょっと安心しました」
 
彼女の緊張が、少しだけ解けたのが分かった。窓の外では、冬の星座たちが冷徹な光を放ちながら、夜空に縫い付けられている。静まり返った真冬の深夜、世界に二人きりになってしまったかのような、不思議な親密さが部屋を満たしていく。
 
​「あの、もしよければ、お名前を伺ってもいいですか? いつまでも『あなた』って呼ぶのも変ですし……あ、嫌なら、偽名でもいいんですけど」
 
遠慮がちに、でも少しだけ弾んだ声で彼女が言った。俺はふっと口元が緩むのを抑えられなかった。
 
「偽名にする理由もないですよ。俺は宮本拓海と言います。28歳です」
 
「28歳……! わあ、お兄さんですね。私は桐山文乃っていいます。18歳です。……あの、宮本さんって呼べばいいですか?」
 
「宮本、だと少し硬い気がしますね。仕事で毎日嫌ってほど呼ばれているので。……拓海でいいですよ」
 
「えっ、呼び捨てですか? それはちょっと緊張しちゃいます……。じゃあ、拓海くん、って呼んでもいいですか?」
 
スピーカーの向こうで、彼女が少し顔を赤らめているのが見えるようだった。その初々しさに、胸の奥が小さく、くすぐったいような音を立てた。
 
「ええ、それで構いません。じゃあ、俺はなんて呼べばいいですか? 文乃ちゃん、でいいですか?」
 
俺が少し照れながら尋ねると、ラジオの向こうで、文乃が弾んだ声で即座に返してきた。
 
「あ、ちゃんはいらないです! 文乃でいいですよ! 友達もみんな、そう呼んでるから!」
 
「文乃……。じゃあ、そう呼ばせてもらうね」
 
「はい! なんだかくすぐったいけど、嬉しいです。よろしくお願いします、拓海くん」
 
​お互いの名前を呼び合った瞬間、ノイズの向こうの距離が、一気に縮まったような気がした。それから俺たちは、夜の深まりを忘れて、ぽつりぽつりと色んなことを話した。
 
文乃は国語が得意だけど数学が壊滅的に苦手なこと。将来は、うまく生きられない子どもたちの止まり木みたいな場所を作るために、保育の勉強をしたいということ。彼女の紡ぐ言葉はどれも真っ直ぐで、新宿の数字だけの世界で擦り減っていた俺の心を、芯から温めてくれた。
 
​「拓海くんは、食品メーカーの営業さんなんですよね。毎日お仕事、大変なんですか?」
 
「そうだね。12月は特に忙しくて、毎日車で取引先を回りながら、売り場の棚の奪い合いさ。胃が痛くなることばかりだよ。……まあ、でも、今日は一日、在宅ワークだったから、ずっと家でパソコンを叩いてるだけだったんだけどね」
 
俺は何気なく、今日一日の穏やかな過ごし方を口にした。文乃を少し安心させたい、という気持ちもあった。
 
しかし、スピーカーの向こうから返ってきたのは、優しい相槌ではなく、すとんと腑に落ちないような、不思議そうな文乃の声だった。
 
​「え? 家でお仕事、ですか?」
 
「ん? ああ、そうだよ」
 
「……変わった会社なんですね。拓海くん、どこかお身体の具合でも悪かったんですか?」
 
「いや、体調は万全だけど。どうして?」
 
「だって、お家で仕事なんて、そんなの聞いたことないです。お仕事って、会社に行くものじゃないんですか?」
 
文乃の素朴な疑問に、俺は少しだけ引っかかりを覚えながらも、苦笑交じりに答えた。
 
「はは、まあ昔はそうだったけどね。今の時代、在宅ワークなんて珍しくもないだろ。あのコロナ以降、どこの会社も一気に増えたじゃないか」
 
当たり前の世間話として、俺はそう返した。
 
だが、その言葉に対する文乃の反応は、俺の予想を完全に裏切るものだった。
 
長い、奇妙な沈黙が、冷たいノイズを挟んで流れる。
 
​「……コロナ? って、なんですか?」
 
​受話器を持つようにラジオに耳を押し当てていた俺の指先が、ぴたりと止まった。
 
「え? なにって、あのコロナだよ。世界中で大流行した感染症の。マスクが一時期なくなったり、学校が一斉に休みになったりしただろ」
 
「え……? 何ですかそれ、聞いたことないです。新しいインフルエンザかなにかの冗談ですか……? 拓海くん、私をからかってます?」
 
文乃の声は、からかわれているのを警戒するような響きから、次第に、本当に何も知らない人間の純粋な困惑へと変わっていった。
 
「冗談じゃないよ。ニュースでも毎日嫌ってほどやっていただろ」
 
「やってないですよ! 私、毎日テレビのニュース見てますけど、そんな不気味な病気の話、一度も聞いてないです。それに、家で仕事をするなんて、そんなの漫画の中の話みたいです。……ねえ、本当にどうしちゃったんですか? 急に変なことばかり言って、怖いです」
 
​脳の奥で、冷たい氷の塊が強引に押し込まれたような、恐ろしい戦慄が走り抜けた。
 
嘘だろ。
 
俺は視線を落とした。自分のポケットから取り出したスマートフォンの液晶画面には、冷厳に【2025年12月】のデジタル数字が光っている。
 
コロナを知らない。在宅ワークという言葉に首を傾げる。
 
それは、彼女が「今」生きている世界が、あの未曾有の災禍が始まるよりもずっと前――。
 
​10年の、断絶。
 
この古い木製の箱は、電波の形をした時間を,、過去から手繰り寄せているのだ。俺の生きている2025年の現実と、彼女の生きている2015年の現実が、このノイズの向こうで奇跡的に接触している。
 
​「文乃……よく聞いてくれ。君は今、西暦何年にいる?」
 
「え? 何ですかその質問、やっぱり変ですよ拓海くん。……2015年ですよ。あと数日で、2016年の正月になっちゃうって焦ってる、普通の高校三年生です」
 
​静まり返った祖母の家の一室で、俺はダイヤルを握ったまま、呼吸の仕方を忘れたように凝固していた。
 
窓の外では、冬の凍てついた風が、じいちゃんの植えた梅の枯れ枝を小さく揺らす音が、ただ冷たく響いていた。
 

第二章 10年の波紋、縮まる距離


 
​「2015年……?」
 
 古びたスピーカーから流れてきた文乃の声は、凍りついた俺の耳の奥で、何度も不自然に反響した。
 
「ねえ、拓海くん? どうしちゃったんですか。急に黙り込んで……やっぱりからかってますよね? 2025年なんて、そんなのまるでSF映画じゃないですか。東京オリンピックだってまだやってないのに」
 
​ 冗談。からかい。
 
 文乃の言う通り、普通なら悪質な悪戯だと切り捨てて終わる話だ。だが、受話器のようにラジオに耳を押し当てている俺の脳裏には、それだけでは説明のつかない奇妙な確信が、冷たい汗となって背中を伝っていた。
 
 このざらついたノイズの感触。深夜の静寂のなかで、まるで隣の部屋にいるかのように生々しく響く彼女の呼吸の気配。
 
​「文乃、落ち着いて聞いてくれ。俺も、何が起きているのかさっぱり分からない。だけど……俺のスマートフォンには、はっきりと『2025年』って表示されているんだ。嘘を言って君を怖がらせるメリットなんて、俺には一つもない」
 
「スマートフォン……? スマホ、ですか? ガラケーじゃなくて?」
 
「ガラケーなんて、こっちの時代じゃもうほとんど誰も使ってないよ。みんな画面が大きなスマホだ」
 
「嘘……。だって、私の周りはまだガラケーの人も半分くらいいますよ? 私のスマホだって、まだ買ったばかりのアイフォン6だし……」
 
​ アイフォン6。
 
 脳髄を直接揺さぶられるような感覚だった。俺が大学生の終わり頃に使っていた、今や骨董品のようなモデルの名前が、彼女の口から「買ったばかり」として飛び出してきたのだ。
 
​「確認しよう」
 
 俺は湧き上がる動悸を抑え、少しでも確かな証拠を掴もうと声を張り上げた。
 
「文乃、今そっちで一番流行っている曲は何だ? あと、今年の総理大臣は誰だ?」
 
「えっ? ええと……流行っている曲、ですか? 塾の友達はみんな三代目J Soul Brothersとか、ゲスの極み乙女。とか聴いてますけど……。総理大臣は安倍さんです。これ、ニュースをやっていれば当たり前じゃないですか」
 
​ 胃の奥がキュッと収縮する。すべてが、俺の記憶にある『2015年』のピースと完璧に一致していた。
 
「こっちの時代じゃ、そのどちらも……いや、なんでもない。じゃあ、これならどうだ。文乃、君の部屋に今、新聞か何かはあるか? 日付が分かるものだ」
 
「あ、あります。今日の夕刊が、勉強机の上に置きっぱなしになってます」
 
「日付を、上から順番に読み上げてみてくれ」
 
「……ええと、平成27年、12月28日、月曜日……です。これで満足しました?」
 
​ 平成27年。
 
 2015年12月28日。
 
 俺のスマートフォンの画面にあるのは、2025年12月28日。
 
 ちょうど、きれいに10年の歳月が、この古い木製のラジオを境界線にして、歪んで繋がっている。
 
​「信じられないかもしれないけど……」
 
 俺は大きく息を吸い込み、窓の外の、何も語らない夜空を見つめた。
 
「俺のいる世界は、2025年12月28日の月曜日だ。君のいる世界から、ちょうど10年後の未来だよ、文乃」
 
​ スピーカーの向こうで、文乃が小さく息を呑む音が聞こえた。
 
 それから、長い、長い沈黙が流れた。ラジオが拾うかすかな砂嵐の音だけが、二人の間の断絶を証明するように部屋を満たしていく。
 
「……本当に?」
 
 ぽつり、とこぼれた文乃の声から、それまでのトゲのような警戒心が消えていた。ただ、あまりにも巨大な現実に直面したときの、迷子のような、心細い響きだけが残っていた。
 
「本当に、拓海くんは……10年後の未来にいるの?」
 
​「ああ。間違いない。俺にとっても、信じられないことだけど」
 
「じゃあ……」
 
 文乃の声が、少しだけ震えた。
 
「じゃあ、確かめさせて。私の部屋の窓からはね、葛飾の古い給水塔が見えるの。夜になると、てっぺんの赤いランプが一つだけ、寂しそうに点滅してるんだけど……。拓海くんのいる未来でも、その給水塔は、まだそこにある?」
 
​葛飾の給水塔。
 
小岩にあるこの祖母の家からなら、二階の窓を開ければ、江戸川の向こう側の景色がかすかに見えるはずだった。俺は衝動的に立ち上がり、窓のクレセント錠を回した。
 
ガラガラと古いアルミサッシを開けると、切り裂くような12月の凍てつく夜風が、容赦なく俺の頬を叩いた。
 
​目を凝らして、夜の闇の先を見つめる。
 
遮るもののない冬の夜空の下、遠く、葛飾の街並みのシルエットの向こうに――あった。
 
暗闇の中にぽつんと、静かに赤く点滅する、見覚えのある古い給水塔の光。
 
​「……見えるよ」
 
思わず、声が掠れた。
 
「今、窓を開けて見てる。文乃、君の言う通り、赤いランプが一つだけ、ゆっくり点滅してる。俺のいる2025年の世界でも、あの給水塔は、ちゃんとそこにあるよ」
 
「あ……」
 
スピーカーの向こうで、文乃が小さく弾むような声をあげた。
 
「つながってる……。本当に、同じ景色を見てるんだ」
 
​その瞬間、お互いの胸の中にあった目に見えない壁が、音を立てて崩れ落ちたのが分かった。10年の時空を超えて、同じ瞬間に、同じ光を見つめているという奇跡が、二人の心を急速に結びつけていく。
 
寒さに耐えかねて窓を閉め、俺は再びラジオの前に腰を下ろした。
 
​「なんだか、急に現実感がなくなっちゃいました」
 
文乃はそう言って、ふふ、と力なく笑った。
 
「あ、あのね、拓海くん。さっき、在宅ワークって言ってたでしょ? 会社に行かないでお家で仕事するってやつ。……それって、未来ではみんなやってるの?」
 
​少しだけ、文乃の言葉から余計な硬さが取れ始めていることに気づき、俺の胸の奥がわずかに温かくなった。
 
「全員じゃないけど、かなり一般的になったよ。パソコンとインターネットがあれば、書類も会議も全部家でできちゃうからね」
 
「へえー、すごいなぁ。じゃあさ、学校は? 未来の高校生も、お家で授業を受けたりするの?」
 
「そうだね。さっき話した『コロナ』の時は、何ヶ月も学校が休みになって、みんな家のパソコンで先生の授業を受けてたんだよ」
 
「えっ、何それ、ずるい! ……あ、ずるくないか、学校に行けないのは寂しいもんね」
 
​あ、と文乃が自分で口を押さえるような気配がした。10歳上の男に対して、つい「ずるい!」とタメ口が出てしまったのが恥ずかったのだろう。
 
「あ、すみません、つい……」
 
「いいよ、敬語じゃなくて。俺たち、こんな不思議な電波で繋がった、世界で二人だけの秘密の仲間みたいなもんだろ?」
 
​俺がそう言って笑うと、文乃は少し沈黙した後、はにかむような、小さな、でもとても嬉しそうな声を出した。
 
​「……じゃあ、お言葉に甘えて、ちょっとずつ敬語なくしちゃおうかな。……あ、でも、拓海くんは28歳だから、やっぱりちょっと緊張するけど」
 
「はは、そんなに威厳のある大人じゃないから大丈夫だよ。毎日数字に追われて、取引先に頭を下げてばかりの、しがないサラリーマンさ」
 
「ふーん……。でも、お仕事頑張ってるの、かっこいいと思うよ?」
 
​サラリと言い放たれた文乃の言葉に、俺の心臓がどきりと跳ねた。
 
東京の冷酷なビジネスの世界で、数字だけで評価され、誰からも「頑張っている」なんて言われない毎日を送っていた。そんな俺の乾ききった心に、10年前を生きる女子高生の真っ直ぐな言葉が、あまりにも優しく染み渡っていく。
 
​「……ありがとう。文乃にそう言われると、なんだか救われるよ」
 
「あ、からかってないからね! 本当にそう思ったから言ったの!」
 
焦ったように早口になる文乃の声が、愛おしくてたまらなかった。いつの間にか、彼女の言葉からは「です・ます」の硬さが消え、年相応の、瑞々しい響きが溢れ出していた。
 
​「ねえ、拓海くん」
 
「ん?」
 
「未来の世界って、楽しい?」
 
「……そうだね。色々変わったけど、悪いことばかりじゃないよ。現に、こうして10年前の文乃と話せているわけだしね」
 
「ふふ、確かに。これ、未来のどんな発明よりもすごいよね。……ねえ、もう一つ聞いていい?」
 
「何でもどうぞ」
 
「私……18歳の私は、今、保育士さんになりたくて一生懸命勉強してるんだけど。10年後の28歳の文乃は、ちゃんと、いい保育士さんになれてるかな?」
 
​ その問いに、俺は息を止めた。
 
 2026年の世界。今、この瞬間のどこかに、28歳になった「桐山文乃」が生きているはずなのだ。
 
​「……調べてみようか?」
 
 俺はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。現代のインターネット検索なら、同姓同名の人間や、葛飾の保育園の情報を探すことなど、容易なはずだった。
 
​「ううん、ダメ!」
 
 文乃は慌てたように、でもきっぱりとそれを拒んだ。
 
「それは、自分で頑張って確かめるからいいの。未来の私に、答え合わせされちゃうなんてつまらないもん。……それよりもさ」
 
​ 文乃はそこで、少し声を潜めた。まるで、深夜の静まり返った家の中で、誰にも聞かれたくない秘密を打ち明けるような、甘やかで、特別な響きを帯びた声。
 
​「明日も……拓海くん、またお話ししてくれる?」
 
「もちろん。……ただ、俺もずっとばあちゃんの家にいるわけじゃないんだ。明日の昼には東京の自分の部屋に帰るし、仕事もある。それに、毎日この時間だと文乃も寝不足で受験勉強に響くだろ」
 
「あ……そっか。拓海くん、お仕事あるもんね。……じゃあ、もうお話しできないの?」
 
​ スピーカーの向こうで、文乃の声が目に見えてしおれていくのが分かった。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛む。
 
​「ううん、そうじゃないよ」
 
 俺は、じいちゃんの古いラジオを愛おしく見つめながら、声を柔らかくした。
 
「このラジオ、自分のマンションに持って帰るから。だからさ……明日の夜、俺が仕事から帰ってきたら、またスイッチを入れる。文乃は、部屋で勉強しながら、ラジオを聴いて待っててくれないか?」
 
​ 一瞬の静寂の後、ラジオの向こうから、世界中の光を全部集めたような、嬉しそうな吐息が漏れた。
 
​「……うん! 待ってる! 私、ずっとラジオつけて、勉強しながら待ってるから。拓海くんが帰ってくるの、待ってるね」
 
「ああ、約束だ。……あ、もうすぐ一時半になっちゃう。そろそろ宿題に戻らなきゃな。文乃、おやすみなさい」
 
「おやすみ、拓海くん。お仕事、無理しないでね。……じゃあ、また明日!」
 
​ ザザ……ザザザザ……。
 
 カチリ、と向こうのスイッチが切れる音がした瞬間、スピーカーからは、ただの冷たい砂嵐のノイズだけが虚しく響き渡った。
 
​ 俺は、静まり返った暗い部屋の中で、しばらくの間、じっとラジオを見つめていた。
 
 指先にはまだ、文乃の声の温もりが残っているような気がした。スマートフォンを開くと、画面には【2025年12月29日 01:32】の文字。
 
​ 10年の断絶を超えた、深夜の秘密の対話。
 
 明日からは、お互いの日常の部屋で、俺たちの物語が紡がれていく。
 

第三章 灯りの灯る部屋、おかえりの声


 
​ 12月29日。世間の多くの企業が「仕事納め」を終え、街がにわかに浮き足立つ連休初日。俺のスマートフォンは、朝から狂ったように鳴り響いていた。
 
​「宮本さん! 特設棚のかまぼこと伊達巻、夕方の便で追加効きませんか!? 完全に読み違えました、売れ行きが倍以上です!」
 
 取引先のスーパーの担当者からの悲鳴のような電話に、俺は営業車のハンドルを握り締めながら必死に声を返した。
 
「無理を言わないでください、配送のトラックはもう全部出払ってます! ……分かりました、俺の車に積めるだけ積んで、直接そっちに回します!」
 
​ お正月用の食材が並ぶ歳末商戦の売り場は、まさに戦場だ。一つの棚の空きが、そのまま致命的な機会損失になる。後輩の木村が手配し忘れていた地方の問屋への出荷調整も重なり、俺は昼飯を食う暇さえなく、都内と埼玉の往復を繰り返した。
 
 夕方を過ぎ、幹線道路は帰省や買い出しの車で激しく渋滞し始める。真っ赤なブレーキランプの列に閉じ込められながら、俺はただ摩耗していく精神をすり減らしていた。
 
 何のために、誰のために、俺はこんなに必死に頭を下げて車を走らせているんだろう。28歳。数字と効率だけを求められる毎日に、ふと、底知れない孤独が襲ってくる。
 
​ すべての処理を終え、新宿のワンルームマンションに帰り着いたのは、夜の21時を回った頃だった。
 
 鍵を開け、冷え切った暗闇が広がる部屋に足を踏み入れる。いつもなら、コンビニの弁当を投げ出し、ただ疲労感に身を任せてベッドに倒れ込むところだった。
 
 だが、今の俺には、真っ先に手を伸ばべきものがあった。
 
​ コートも脱がないまま、小岩のばあちゃんの家から持ってきた、あの古い木製のラジオを机に据える。じいちゃんが遺した形見のラジオ。今はばあちゃんが一人で暮らすあの実家から、譲り受けてきたものだ。
 
 本当に、また繋がるのだろうか。昨夜の出来事は、仕事のストレスが見せた都合の良い白昼夢だったんじゃないか。
 
 重い鼓動を刻む胸を抑えながら、カチリ、とボリュームのツマミを回した。
 
​ ザザザ、ザザ……。
 
 冷たい砂嵐のノイズが、静まり返った部屋に響く。俺は指先に全神経を集中させ、ゆっくりとダイヤルを回していった。電波の海を、ミリ単位で探る。
 
 ノイズが一段と大きくなり、諦めかけた、その瞬間だった。
 
​「……拓海くん?」
 
​ ノイズの奥から、ずっと俺を待っていたような、切実ではっきりと通る声が響いた。
 
​「文乃……!?」
 
「あ、繋がった! よかったぁ……! 拓海くん、おかえりなさい!」
 
​ スピーカーの向こうから、弾むような、心底ホッとした文乃の声が聞こえてきた。その「おかえりなさい」の温かさに、一日中張り詰めていた俺の身体から、すうっと毒気が抜けていくような感覚を覚えた。
 
​「ただいま、文乃。……もしかして、ずっと待っててくれたのか?」
 
「うん。20時くらいから、ずっとラジオつけて宿題やってた。今日はね、数学のベクトルの問題が全然解けなくて、もう諦めてラジオのツマミばっかり弄ってたんだよ。本当に帰ってくるのかなって、ちょっと不安だったから……声が聞けて、すごく嬉しい」
 
​ 素直に「嬉しい」と口にする文乃の言葉に、心臓の奥がどきりと跳ねる。
 
 新宿のワンルームで、一人。だけど、この小さな箱の向こうには、俺の帰りを心待ちにしていた18歳の女の子が確かにいる。
 
​「待たせて悪かったな。世間は休みなんだけど、俺の仕事は年末が一番のピークでさ。今日もいろんなところに頭を下げて、車を走らせて……今やっと帰ってきたところなんだ」
 
「そっか、本当にお疲れ様。……拓海くん、まだコートも脱いでないでしょ? 声がちょっと寒そうだもん」
 
「え? ……ああ、よく分かるな。今、部屋の電気をつけたばかりだ」
 
「ふふ、なんとなくね。ほら、早く上着脱いで、あったかいものでも飲みなよ。私、待ってるから」
 
​ 文乃の少しからかうような、でも気遣いに満ちた言葉に、俺は苦笑しながらコートを脱ぎ、電子レンジでマグカップの牛乳を温めた。
 
 お互いの「いつもの部屋」の気配が、電波を通じて混ざり合っていく。
 
​「ねえ、拓海くんの部屋って、どんなところなの?」
 
 ホットミルクをすすりながらラジオの前に座ると、文乃が興味津々という風に訊ねてきた。
 
「狭いワンルームだよ。ベッドと、小さな机と、テレビがあるくらい。文乃の部屋は?」
 
「私の部屋はね、散らかってる。予備校のテキストとか、保育の専門学校のパンフレットとかが机の上に山積み。あ、でもね、窓辺に小さなサボテンが置いてあるんだ。友達が誕生日にくれたやつ」
 
​ 他愛のない、けれど愛おしい日常の共有。
 
 「です・ます」の敬語がすっかり消え去った文乃の口調は、まるで年の離れた幼馴染のようでもあり、それ以上に、一人の特別な女の子としての瑞々しさに満ちていた。
 
​「文乃は、そっちの2015年の世界で、どこの学校に通ってるんだ?」
 
 俺は何気なく訊ねた。
 
「私? 葛飾にある、都立青葉(あおば)高校だよ。拓海くんは知らないよね」
 
「……え?」
 
​ マグカップを掴んだまま、俺の身体がピキリと凝固した。
 
 都立青葉高校。それは、俺の母校の校名だった。
 
​「私のクラス、今ね、受験前なのに全然ピリピリしてなくてさ。担任の五島先生なんて、進路指導のたびに『とにかく健康第一だ』って、それしか言わないんだよ?」
 
「五島……。……待って、文乃。そっちの担任って、五島先生なのか? 体育教師の、いつも竹刀を持って歩いてる、あのゴリラみたいな五島先生?」
 
「えっ!? なんで知ってるの!? 拓海くん、青葉高のOBなの?」
 
「……まさか。待て、嘘だろ」
 
​ 脳裏の霧が、猛烈な勢いで晴れていく。
 
 2015年。葛飾。青葉高校。三年生。担任は五島。
 
 初日に「桐山文乃」とフルネームを聞いた時は、ただの同姓同名の別人だとばかり思っていた。高校の教室では、お互い目も合わせなかったのに。一言も話したことがなかったから、結びつくはずがなかったんだ。
 
​「文乃……文乃はもしかして、三年二組だった?」
 
「え? うん、そうだけど……え? なんで……?」
 
「俺だよ。宮本だ。宮本拓海。文乃と同じクラスで、廊下側の真ん中の席にいた、あの宮本だよ」
 
「えええええっ!?!? 宮本くん!?」
 
​ スピーカーから、ひっくり返った文乃の悲鳴が響いた。
 
​「う、嘘……っ! 『宮本拓海』って、あの宮本くん!? いつも静かで、一言も喋らないから、下の名前なんて意識したことなかった……! っていうか、ええっ!? じゃあ私、昨日からずっと、10年の未来にいるクラスメイトの宮本くんと話してたの!?」
 
「それは俺のセリフだよ。まさか、じいちゃんのラジオから高校の同級生の声が聞こえてくるなんて、誰が想像できる?」
 
​ 驚きが通り過ぎた後、押し寄せてきたのは、猛烈な照れ臭さと不思議な愛おしさだった。10年の時空と電波を超えて、今、俺のワンルームマンションの部屋で、こんなにも親密に話している。
 
​「あ、はは……なんか、すごいね」
 
 文乃が、どこか照れくさそうに笑った。
 
「10年後の宮本くんは、なんだかすごく優しくて、声も大人っぽくて……別の大人と話してるみたい」
 
「それは、俺が28歳になったからだよ。文乃だって、あと10年経てば、俺と同じ28歳になるんだ。未来の同じ世界で、同じ28歳として、また会えるかもしれないんだぞ」
 
​ そう言うと、ラジオの向こうで文乃が小さく息を吸う気配がした。
 
 少しの沈黙。スピーカーから聞こえる砂嵐の音が、急に彼女の静かな鼓動のように思えてくる。
 
​「……ねえ、拓海くん」
 
「何だ?」
 
「あのさ……こっちの教室にいる宮本くんとはね、私、やっぱり明日からも話せないと思う」
 
「え? なんでだよ。せっかくこうして同じクラスだって分かったんだから、学校でも話しかけてくれればいいのに」
 
「だって……話せないよ」
 
​ 文乃の声が、急に小さくなった。それまでの驚きを含んだ口調ではない。深夜の静寂に溶けてしまいそうな、ひどく熱を帯びた、一人の女の子の響きだった。
 
​「こっちの教室にいるのは『宮本くん』であって、このラジオの『拓海くん』じゃないんだもん。今までずっと話したこともなかったのに、急に話しかけるの、なんか気まずくって……。あ、別に嫌いってわけじゃないからね! 本当だよ?」
 
「ああ、分かってるよ」
 
「そうじゃなくて……っ。私にとっては、毎晩こうやって、私の『おかえり』を待っててくれる、今の、未来の拓海くんが特別だから……。声だけだけど、拓海くんと話してると、その、すごく安心するっていうか。もし未来の街で、同じ28歳になって会えたら、私、拓海くんのこと、ちょっと……」
 
​ 心臓が、耳が痛くなるほど大きな音を立てた。
 
 受話器のように押し当てたラジオの筐体から、文乃の張り詰めた、今にも泣き出しそうなほどの照れと緊張がダイレクトに伝わってくる。教室の「宮本くん」ではなく、未来の「拓海くん」だからこそ、彼女は恋心を抱いてしまっているのだ。
 
​「あーーーっ!! もう、ダメ! 今のナシ!!」
 
​ 突然、スピーカーの向こうで文乃が頭を抱えて叫ぶような声が響いた。
 
​「文乃、どうしたんだ?」
 
「なんでもない! なんでもないから今のは忘れて!! バカバカ、私、何を言ってるんだろう……っ。未来の拓海くんを相手に、深夜のテンションでおかしくなっちゃった! 恥ずかしすぎて死ぬ……!」
 
「文乃、俺は――」
 
「もう終わり! 宿題戻る! 拓海くん、おやすみなさい、また明日!!」
 
​ カチリ。
 
 俺が言葉を返すより早く、引きちぎるような切羽詰まったスイッチの音とともに、激しい砂嵐のノイズが部屋を満たした。
 
​ ザザ……ザザザザ……。
 
​ 俺は、受話器代わりのラジオを握りしめたまま、新宿のワンルームマンションのベッドの上に立ち尽くしていた。
 
 耳の奥で、彼女の最後の焦った声と、その直前の、消え入りそうに甘いニュアンスが何度も何度もリフレインする。
 
​ 胸が、狂ったように高鳴っていた。10年の時空を隔てているというのに、俺の心は、完全に同い年の、18歳の彼女に奪われようとしていた。
 
​ スマートフォンを開くと、画面には【2025年12月29日 22:20】の文字。
 
​ 明日も、仕事は山積みだ。だが、俺の胸には、彼女が残していった嵐のような熱量が渦巻いていた。一刻も早く明日になってほしい。またあの声を聴きたい。
 

第四章 同じ夜の散歩


12月30日。 お互いが同じ高校の、同じクラスの同級生だと分かった翌日。運命の悪戯か、あるいは導きか、俺は仕事の都合で懐かしい葛飾の街にいた。
歳末のトラブル処理と追加配送が重なり、この日は最初から深夜まで東京の東側を駆け回るスケジュールが組まれていた。新宿のマンションまで仕事用のワンルームバンを走らせて帰るには遅すぎる時間になるため、俺はあらかじめ、青葉高校の最寄り駅近くにあるビジネスホテルに当日泊の予約を入れておいた。
傷だらけの仕事用の車を出発させる前、俺が新宿の部屋から真っ先に運び出したのは、小岩のばあちゃんの家から持ってきた、あのじいちゃんの古い木製のラジオだった。 一晩でも、彼女との通信を途切れさせたくなかった。カバンの中でずっしりと重い木箱の存在を感じるたびに、胸の奥が不思議と温かくなった。
 
すべての業務が終わり、ホテルの狭いシングルルームにチェックインしたのは夜の22時半。 俺はすぐに、ラジオをデスクの真ん中に据え、カチリとボリュームのツマミを回した。
ザザザ、ザザ……。 冷たい砂嵐のノイズが響く。指先に神経を集中させ、ゆっくりとダイヤルを回していくと、じきに電波の海の中から、ずっと俺を待っていた優しい声が弾けた。
 
『……拓海くん!? こんばんは!』
 
「文乃、こんばんは。夜遅くに待たせて悪かったな。実は今、仕事の都合で葛飾のビジネスホテルに泊まってるんだ」
 
『えっ!? 葛飾!? じゃあ、今、私と同じ街にいるの!?』
 
文乃の声が一気に跳ね上がった。嬉しさと驚きが、電波を通じてダイレクトに鼓動となって伝わってくる。
 
「ああ。駅前の、あの茶色いビジネスホテルだよ。文乃の家からも、そんなに遠くないだろ?」
 
『うん! 自転車なら10分くらい! ……ねえ、拓海くん。私、今からそこまで行ってみる!』
 
「は?……おい、今からって、もう夜の23時だぞ?」
 
『だって、10年後の拓海くんがそんなに近くにいるんだもん!もちろん、直接は会えないって分かってる。分かってるけど……ちょっとでも近くに行きたいから、今から部屋を抜け出して走っていく!』
 
受話器代わりのスピーカーの向こうで、パタパタと上着を羽織るような慌ただしい音が聞こえ、俺はベッドから飛び起きた。
 
「待て待て文乃! 夜中に女の子が一人でそんな距離を歩くのは危ないだろ。……分かった、そこまで遠いからさ。俺も今からそっちの方に向かって歩く。中間地点のどこかで落ち合おう。もちろん、会えないけどな」
 
『……! うん、分かった! 気をつけて行くね!』
 
親に見つからないようにこっそり玄関を開ける音、夜の静寂へと小走りで駆けていく足音がノイズの向こうから愛おしく響く。 俺もラジオにイヤホンを差し込み、それを厚手の上着のポケットに大切に忍ばせて、夜の帳へと踏み出した。
 
2025年の冬の夜気は冷たい。だが、耳元のイヤホンから聞こえる文乃の少し弾んだ息遣いが、俺の胸を不思議と温めていた。
 
『拓海くん、今どこ?』
 
「駅前のロータリーを抜けて、あの大きな並木通りを歩いてる。そっちは?」
 
『私も! ちょうど今、並木通りの交差点のところ! 拓海くん、そっちの並木通りはどんな感じ?』
 
「うーん、街灯が全部LEDになって、昔より少し明るいかな。あと、昔あった古い本屋が、今はコンビニになってる」
 
『ええっ、あの本屋、潰れちゃうんだ! ショック……。あ、でも、あの大きな歩道橋はまだある?』
 
「あるよ。今、その下にいる」
 
10年の時差。 文乃の歩く2015年の夜道と、28歳になった俺の歩く2025年の夜道。 見える景色は少しずつ違っていても、俺たちは確かに、お互いを目指して同じ道を歩いていた。ポケットのラジオに手を添えて歩く俺の姿は、周囲から見れば奇妙かもしれない。だが、俺にとっては、10年前のクラスメイトと時空を超えて歩み寄っているような、夢のような時間だった。
 
『ねえ、拓海くん。もうすぐ、青葉高校の裏手にある、あの小さな河川敷の公園だよ。そこを中間地点にしない?』
 
「ああ、ちょうど俺もそこに近づいてる。案内してくれ」
 
静まり返った住宅街を抜け、暗い土手を上がっていく。 やがて、視界が開け、穏やかに流れる川と、その向こうに広がる東京の夜景が見えてきた。
 
『着いた!』
 
と文乃が嬉しそうに息を弾ませる。
 
「俺も今、公園のベンチの前にいる。文乃は?」
 
『私も、そのベンチの前に立ってるよ』
 
2025年、28歳になった俺の目の前にあるのは、経年劣化で少し塗装の剥げた木製のベンチ。 2015年、18歳の文乃の目の前にあるのは、まだ新しさの残る同じベンチ。 俺はポケットからラジオを取り出し、ベンチの真ん中にそっと置いた。
 
「じゃあ、ここに座ろうか」
 
俺がベンチに腰を下ろすと、イヤホンの向こうから、衣類が擦れる微かな音が聞こえた。
 
『ふふ、座ったよ。なんだか不思議だね。私は誰もいないベンチに一人で座ってるのに、隣に、大人の拓海くんが座ってる気がする』
 
「俺もだよ。隣に、マフラーを巻いた文乃が座ってる気がする」
 
冬の星座が、遮るもののない夜空に冷たく輝いている。 直接触れることはできない。手を伸ばしても、そこにあるのは冷たい夜気だけだ。それでも、俺たちの心は、高校時代のあの狭い教室にいた頃よりも、ずっと、ずっと近くに寄り添っていた。ラジオの真空管の微かな熱が、俺の手のひらをじんわりと温めている。
 
『拓海くん』
 
「ん?」
 
『今日ね、会いに来てくれて、私、すごく嬉しかった。明日からの冬期講習、めちゃくちゃ頑張れそう』
 
文乃の横顔が、声のトーンだけで鮮明に脳裏に浮かぶ。優しくて、一生懸命で、愛おしい、俺の特別な女の子。
 
「ああ。でももう遅いから、風邪ひかないうちに早く帰るんだぞ。俺もホテルに戻る。また明日も、話そうな」
 
『うん! 約束ね!』
 
10年の時を隔てた、同じ夜の公園。 冷たい風が二人の間を吹き抜けていく中、俺たちは名残惜しそうに、何度も「また明日」を繰り返しながら、ラジオのボリュームをゆっくりと絞った。
 
木製のラジオを両手で大事に抱え直し、俺は誰もいない隣のスペースを見つめた。 確かな温もりを残したまま、俺たちの特別な冬は、少しずつ深まっていく。
 

第五章 同じ空を見上げて


12月31日。大晦日。
葛飾のビジネスホテルをチェックアウトした俺は、午前中のうちに新宿のワンルームアパートへと戻っていた。 部屋の掃除をしても、テレビを眺めていても、頭の中にあるのは昨夜のあの河川敷の公園のことばかりだった。28歳にもなって、何度も時計を盗み見ながら、静まり返る夜の時間をただ待ち侘びていた。
いつもより少し早めの夜の21時過ぎ。待ちきれなくなった俺が机の上の古い木製ラジオのツマミを回すと、冷たい砂嵐 of ノイズの向こうから、ノートにシャープペンシルを走らせる規則正しい音が小さく聞こえてきた。文乃が勉強をしながら、早めにラジオをつけて待っていてくれたのだ。
 
「文乃? こんばんは。ちょっと早かったか?」
 
『あ、拓海くん! こんばんは!ううん、ちょうど今一区切りついたところ。お母さんのお手伝いも終わって、お部屋で冬期講習の復習をしてたの。繋がって嬉しいな』
 
スピーカーの向こうから、ほっとしたような文乃の優しい声が響く。 2015年の終わりを刻む文乃と、2025年の終わりを刻む俺。生きている年号は違っても、俺たちは他愛のない話をのんびりと紡ぎながら、大晦日の特別な夜を一緒に一歩ずつ進めていった。
 
そうして静かに時間が流れ、いよいよ日付が変わる数分前。
 
「なぁ、文乃。ちょっと窓開けて外見てみてよ。星が凄く綺麗だぞ」
 
『え、窓? うん、ちょっと待ってね……わ、本当だ! 風は冷たいけど、空がすっごく澄んでる!』
 
受話器代わりのスピーカーから、ガラガラと窓を開ける音が響く。同時に、冬の冷たい風の音が吹き込んできた。俺もまた、アパートの狭いベランダへ続く窓を大きく開け放った。
 
やがて、時計の針が重なり、新しい年へと世界が切り替わった、まさにその瞬間だった。 ドン、と遠くでお腹に響くような低い音が響き、ビル群の隙間の夜空に、新年を祝う大輪の鮮やかな光が弾けた。
 
『すごーーい!!花火! 拓海くん、花火だよ!!』
 
「ああ、こっちでも上がってる。綺麗だな……」
 
東京の東の端にいる文乃の世界と、西の端にいる俺の世界。 新年の幕開けを迎えたそれぞれの冬の夜空に、偶然にも同じように美しい大輪の華が咲いている。その不思議な重なりが、俺たちの心を強く揺さぶった。
 
『不思議だね……。私が見てるこの綺麗な光を、10年後の拓海くんも、今、同じ瞬間に見上げて、綺麗だねって言い合えてる』
 
「ああ。空だけは、ちゃんと繋がってるんだな」
 
俺はベランダの手すりをギュッと握り締めた。冷たい夜気が頬を刺すが、耳元から聞こえる文乃の声の温もりのせいで、少しも寒くはなかった。
 
『ねえ、拓海くん。私、そっちの未来に行くのが、なんだか楽しみになってきちゃった』
 
「え?」
 
『だって、専門学校を卒業して、私が28歳になったら、ちゃんと拓海くんと同じ世界で、同じ場所で、今度は並んでこの花火を見られるかもしれないでしょ? だから、私、受験もその先の勉強も、絶対に頑張るね』
 
文乃の健気な笑顔が、声のトーンだけで鮮明に脳裏に浮かぶ。 愛おしくて、胸が苦しくなるほどだった。
「ああ。俺、2026年の世界で、ずっと待ってるから。文乃が28歳になって、俺の前に現れるのを、何年でも待ってる」
 
『ふふ、私、絶対にそっちの2026年の世界に行くからね。28歳になった私を見つけて、びっくりしないでよ?』
 
「驚かないよ。どんなに変わってても、俺はすぐに文乃だって分かるさ」
 
最後の大きな花火が、夜空いっぱいに光の余韻を残しながら、ゆっくりと消えていく。 新しい年が明けた静寂の空の下、俺たちは何度も「おめでとう」を言い合って、名残惜しそうにラジオのボリュームを絞った。
 
窓を閉め、静まり返った部屋で、俺は自分の両手を見つめた。 高校三年生の時に、夜中にラジオを通じて未来の俺とこんな不思議な経験をした文乃なら……今年、この2026年の世界のどこかで、俺の前に現れてもおかしくはないはずだ。
 
そんな淡い期待が、冬の冷たい胸の奥に、小さな灯火のように宿っていた。
 

第六章 届かないチョコレート


新年の喧騒はあっという間に過ぎ去り、気がつけば季節は2月へと移り変わっていた。 2016年の高校の教室では、俺と文乃は相変わらず言葉を交わす機会のない同級生のままらしい。だけど、夜のラジオを通じて二人の空間を共有している今の俺にとっては、あまり関係のない話だ。
 
街が甘い香りに包まれるバレンタインデーの日の夜。新宿のワンルームアパートでいつも通りラジオをつけると、ツマミを回した瞬間に、スピーカーの向こうから文乃の声が聞こえてきた。
 
「文乃?こんばんは。今日も遅くまで勉強か?」
 
『あ、拓海くん、こんばんは! うん、一応机には向かってたんだけど、最近ちょっと集中力が切れやすくてダメだなぁ。そっちはどう? お仕事忙しかった?』
 
「いや、2月に入ってからは割な落ち着いてるよ。そっちの東京は、ここ数日かなり冷え込んでるだろ。風邪ひかないように気をつけろよ」
 
『ふふ、ありがとう。でも部屋の中は暖房でポカポカだから大丈夫』
 
穏やかな笑い声のあと、ラジオの向こうが少しだけ静かになった。 シャープペンシルを机に置くような、微かな音が響く。
 
『……そろそろ固まったかな……?』
 
文乃は、自分に言い聞かせるように小さな声でそう呟いた。
 
『あ、拓海くん、ちょっと待ってね!』
 
何のことか尋ねる間もなく、スピーカーの向こうでバタバタと慌ただしい足音が響き、ドアが開く音がした。
 
どうやら、何かを急いで取りに走っていったらしい。俺は受話器代わりのスピーカーに耳を傾けながら、その賑やかな気配に思わず口元を緩めていた。 しばらくして、少し息を切らせた文乃が部屋に戻ってくる気配がした。
 
『お待たせ! お父さんたちに見つからなくてセーフだった。……じゃーん! 拓海くん、これなぁ〜んだ?』
 
弾んだ声とともに、スピーカーのすぐ近くで、プラスチックの型から何かがコロンと外れる小気味いい音が響く。
 
「いや、これって言われても見えないんだけど」
 
『あ、そっか! ラジオだから見えないんだった! じゃあ、正解を言うね?』
 
くすくすと楽しそうに笑う文乃。自分のうっかりに照れている彼女の顔が、声のトーンだけで鮮明に浮かんできて、胸の奥がじんわりと熱くなる。
 
『正解はね、拓海くんへのバレンタインチョコでした! 晩ご飯の後にキッチンで作って、冷蔵庫で冷やしてたんだ。でも、10年の壁があるから手渡しはできないでしょ? だから、これは“拓海くんにあげたつもり”のチョコ! 私が代わりに美味しく食べてあげるね。拓海くん、はい、あーん!』
 
スピーカーの向こうで、文乃がサクッと小さなチョコレートを口に含む音が聞こえた。
 
『んー! 美味しい! 拓海くん、私の手作りチョコ、ちゃんと届いた?』
 
「なんだよそれ。届くわけないだろ。俺、一口も食べてないんだけど」
 
ぶっきらぼうに言葉を返しながらも、俺は愛おしさで胸がいっぱいになっていた。俺を想ってチョコを作ってくれたこと。届かない現実を寂しがる代わりに、音声しか繋がらないラジオを使って、そんな可愛い方法で笑わせてくれようとしたこと。
 
『もう、そこは“美味しかったよ、文乃”って言ってよ! 28歳の大人の余裕はどこにいったの?』
 
「大人の余裕なんて、文乃の前じゃ最初からボロボロだよ」
 
俺が本音を漏らすと、文乃は、
 
『……もう、すぐそういうこと言うんだから』
 
と、今度は本当に照れたように声を小さくした。ラジオのインジケーターのオレンジ色の光が、俺の狭い部屋をぽつんと照らしている。手渡すことのできないチョコレート。だけど、俺の口の中には、確かにどんなお菓子よりも甘くて、少しだけ切ない味が広がっていた。
 
「文乃、ありがとうな。気持ち、ちゃんと受け取ったよ」
 
『……うん。どういたしまして』
 
受話器を置くようにラジオを切り、俺はふう、と静かに息を吐いた。 大晦日の夜に抱いた「2026年のどこかに文乃がいるかもしれない」という淡い期待は、この切ないバレンタインを経て、もっと強固な祈りのようなものに変わっていた。
 
冷え切った冬の部屋で、自分の両手をぎゅっと握り締めた。
 

第七章 記憶


 
3月に入り、窓の外の空気はほんの少しだけ柔らかさを帯びるようになっていた。
 
その日の日中、営業先を回っていた28歳の俺は、得意先のオフィスで新しく赴任してきたという担当者を紹介され、思わず声を上げそうになった。なんと、高校の時の同級生だったのだ。結構仲の良かった里中。お互いに驚き、名刺を交換したあと、親睦を深めるという目的も兼ねて、近くの定食屋で一緒にランチを食べる流れになった。
 
他愛のない昔話で場が温まってきた頃、俺の胸の奥で、ずっと抑えていた衝動が頭をもたげた。文乃の現在について、こいつなら何か知っているかもしれない。 だが、高校時代に一度も話したことのない彼女の近況をいきなり訊ねるのは、あまりにも不自然だ。俺は頭をフル回転させ、大人の世間話を装いながら、別の男の同級生二人の名前を思い浮かべた。
 
「そういえばさ、あいつらどうしてんのかな。ほら、野球部だった佐藤とか、あと鈴木とか。それから……窓側の席にいた、桐山さん、だっけ? あのへんの奴らって、今も連絡取ってたりする?」
 
我ながら完璧なカモフラージュのつもりだった。里中は
 
「あー、佐藤なら地元で親の仕事継いでるよ。鈴木は確か結婚して埼玉にいるはず」
 
と、最初の二人については気さくに教えてくれた。 しかし、文乃の名前に差し掛かった瞬間、里中は箸をピタリと止め、怪訝そうな顔で俺を見てきた。
 
「え、でも桐山さんは……お前だって知ってるだろ?」
 
一瞬、何を言われているのか分からなかった。知っている? 俺が何を? 怪訝な顔で見つめられたまま、俺の脳の奥底で、10年間完全に眠っていた、分厚い記憶の蓋が凄まじい勢いで跳ね上がった。
 
そうだ。思い出した。桐山文乃。彼女は、あの高校の卒業式の日の夕方、家に帰っている途中で信号無視の車に跳ねられて――。
 
当時はまともに話したこともなかったし、もう式も終わって学校を卒業した後のことだった。お通夜にも葬式にも行かなかった。だから、28歳になった俺の記憶からは、あいつの悲劇的な結末が、すっかり消え去ってしまっていたのだ。 そこからのランチの味は、全く覚えていない。生きた心地がしないまま、どうやって残りの仕事を終えてアパートへ帰ってきたのかも記憶になかった。
 
その夜、深夜の静寂の中で、俺は祈るような気持ちでラジオのツマミを回した。
 
ザザ……ザザザ……。
 
冷たいノイズの向こうから、いつも通りの、あの愛おしい文乃の声が聞こえてくる。
 
『拓海くん、こんばんは!』
 
その声を聴いた瞬間、心臓が痛いほどに脈打った。俺は喉の渇きを覚えながら、必死で声を震わせないようにして問いかける。
 
「……文乃。なぁ、卒業式って、いつだっけ?」
 
『え? ふふ、何言ってるの、明日だよ? さっきまで、明日のために制服のリボンとか一生懸命綺麗にしてたんだから』
 
明日。やっぱり、明日なのだ。 あいつは自分の身に明日降りかかる凄惨な運命なんて、一ミリも知らずに楽しそうに笑っている。 そこからの会話は、俺の頭にはほとんど入ってこなかった。文乃が嬉しそうに明日の段取りや、友達と約束しているアルバムの話を熱心に語りかけてくるのを、俺はただ
 
「ああ……」
 
「そっか……」
 
と、完全に上の空で相槌を打つことしかできなかった。手のひらは冷たい汗でびっしょりと濡れていた。
 
『――だからね、本当に楽しみ。あ、ごめんね、明日卒業式だから、今日はもう寝るね。また明日、終わったらたくさんお話ししよう?』
 
文乃がそう言って、いつものようにラジオを切ろうとした時。
 
「あのさ、文乃……」
 
俺はスピーカーにしがみつくように、狂おしい声を絞り出した。
 
「変なこと言うかもしれないけど。……明日の卒業式には行かずに、ずっと家にいてくれないかな?」
 
受話器代わりのスピーカーの向こうで、文乃の気配がぴたりと固まった。 一生に一度の晴れ舞台に、行くなと言われたのだ。戸惑うのも、怒るのも当然だった。
 
長い、引き裂かれそうなほどの沈黙が二人の間を流れる。 やがて、文乃は一言だけ、ぽつりと言った。
 
『そっか……』
 
その声のトーンからは、彼女がどう思ったのか、何も読み取れなかった。 再び訪れた一瞬の沈黙の後、もう一度、文乃が静かに口を開く。
 
『じゃあ、寝るね……』
 
パチリ、と冷たい音を立てて、ラジオの向こうの気配が消えた。砂嵐の音だけが、静まり返った俺の部屋に虚しく響いている。
 
その夜、俺は一睡もすることができなかった。
 
文乃は、俺のあの不条理な言葉をどう受け止めたのだろうか。明日、彼女は卒業式に行ってしまうのだろうか。それとも、家にいてくれるのだろうか。
 
10年前の過去に向けて、届くかどうかも分からない必死の祈りを捧げながら、俺はただ、冷たい暗闇の中で朝が来るのを待ち続けていた。
 

エピローグ


 
あれから、半年という月日が指の隙間をこぼれ落ちていった。
吹き抜ける風の冷たさにハッとさせられるものの、西日に照らされたアスファルトは、まだ夏の微熱を微かに残している。世界がすっかり秋の色彩に染まりきる手前で、季節は名残惜しそうに足踏みをしていた。
 
外回りの途中、俺は自動販売機で買った冷たいお茶を喉に流し込む。 冷気は容赦なく胸の奥へと落ちていき、それが俺に、いま生きているという確感をかろうじて与えてくれた。
 
あの卒業式の夜。 俺は祈るような、あるいは呪うような気持ちで、ノイズの海にラジオのチューニングを合わせた。だが、あの日以来、文乃がその波間に現れることは二度となかった。
 
俺の思いは、届かなかったのだろうか。 それとも、あの歪んだ運命の歯車を、俺たちは変えることができなかったのだろうか。
 
何も分からない。答えをくれるはずの波長は、もうどこにも存在しない。 それでも、俺は生きていかなければならなかった。世界は俺の喪失など意に介さず、ただ冷徹に明日を連れてくるからだ。
 
空になったペットボトルをゴミ箱へ放り込み、手の甲で額の汗を拭う。 傾きかけた西日が、営業車のフロントガラスに反射して俺の目を鋭く刺した。現実に戻る時間だ。重い足取りで車へ歩み寄り、ドアノブに手をかけようとした、その時だった。
 
背後から、世界のすべての音を圧し拉ぐような声が、俺の鼓膜を震わせた。
 
「――拓海くん」
 
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。 忘れるはずがない。その響きを、その温度を、俺の魂は焼き付けられるように記憶している。微熱を孕んだ秋の風が、俺の髪を激しく掻き乱していった。
 
俺は、一瞬だけ、立ち止まる。
 
だが、振り返らなかった。
 
もしあの日、ラジオの向こうで運命が変わったのだとしたら。文乃が不条理な結末から逃れ、この世界のどこかで生きてくれているのだとしたら――彼女はもう、俺の知っている文乃であってはならないはずだ。過去の因果から切り離され、俺のいない新しい人生を、まっさらな足跡で歩んでいなければおかしい。 今ここで俺が振り返り、彼女を呼び止めてしまえば、せっかく断ち切ったはずの歪んだ運命の糸が、再び彼女を縛り付けてしまうかもしれない。
 
いや、それ以前に――これは半年間、彼女を想い続けて狂いそうになった俺の脳味噌が響かせた、ただの都合のいい幻聴なのではないか。
 
本物なのか、それとも俺の未練が生んだ幻なのか。 確かめる術はない。だが、もし本物なら彼女の未来のために、もし幻なら俺が現実を生きていくために、ここで振り返るわけにはいかないんだ。 姿なんて見えなくていい。ただ、彼女がこの空の下のどこかで生きていてくれさえすれば、それでいい。
 
だから、俺は振り返らなかった。
 
前を見据えたまま、俺は営業車のシートに滑り込んだ。ドアが閉まる鈍い金属音が、過去との境界線を引くように車内に響く。
 
震える手でキーを回し、アクセルを踏み込んだ。 バックミラーを見る勇気は、俺にはなかった。ただ陽炎の立つアスファルトの先だけを凝視し、車を急発進させる。
 
遠ざかるエンジン音だけが、答えを置き去りにしたまま、夕闇の迫る秋の空へと溶けていった。

#創作大賞2026 #恋愛小説部門

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