突き詰めていくと、現実には実体がない
突き詰めて考えていくと、
「現実」と呼んでいるものには、
これといった実体がないことに気づきます。
会社も、お金も、役割も、
そして「私」という存在でさえ、
どこかにそれが自体として
あるわけではありません。
それでも私たちは、
確かに世界を生きていて、
現実は、確かな手応えをもっています。
では、この
「実体のない世界」は、
いったい何によって成立しているのでしょうか。
実体はない。でも、機能している
たとえば「会社」を考えてみてください。
会社は確かに存在しているように見えます。
私たちはそこで働き、
お金が動き、
役割があり、責任があります。
けれど冷静に見てみると、
「これが会社そのものです」と
言えるものは、どこにもありません。
事務所でしょうか。
登記簿でしょうか。
従業員でしょうか。
代表者でしょうか。
ホームページや、電話番号でしょうか。
どれも会社を構成する要素ではありますが、
それ自体が「会社」とは言えません。
会社というものは、
実体として存在しているのではなく、
人々の認識や合意、前提の重なりによって
機能している概念です。
にもかかわらず、
私たちはそれを「あるもの」として扱い、
現実として体験しています。
意識は静で、動きは観測によって立ち上がる
ここで、もう一段深いところに目を向けてみます。
私たちはつい、
「意識が現実を動かしている」
と思いがちですが、実際には少し違います。
意識そのものは、
何かを創り出したり、変えたりする
“動き”ではありません。
むしろ、全ての可能性を含んだ、
動きのない、静かな背景のようなもの。
そこに、
観測――
つまり「区別」や「前提」、
「どこを見るか」という切り取りが入ったとき、はじめて現象としての動きが立ち上がります。
何かが「起きる」のは、
意識が動いたからではなく、
観測が入ったから。
だから現実とは、
最初から決まったものが
外側に存在しているのではなく、
前提と観測によって
その都度、立ち上がっているものだと言えるのです。
現実は「在る」ものではなく、「成立している状態」
こうして見ていくと、
現実とは何かが
どこかに固定されて存在しているものではなく、
・どんな前提があり
・どんな合意があり
・それが繰り返され
・安定して見えている状態
—— それが、
私たちが「現実」と呼んでいるものだと分かってきます。
実体がないからこそ、
現実は成立します。
実体がないからこそ、
変わり得るし、
別の形で立ち上がる余地もあります。
現実に縛られすぎなくていい
現実に実体がないからといって、
私たちの体験が
ないわけではありません。
苦しさも、喜びも、
感情も、手応えも、
すべて確かに、ここにあります。
ただ、
「現実とはこういうものだ」
「現実は甘くない」
そんな前提が強くなりすぎると、
世界は一気に固くなります。
前提に気づいたとき、世界は少し緩む
現実が苦しく感じるとき、
それは、現実そのものが重いのではなく、
そこに与えていた意味や前提が
固まっていただけなのかもしれません。
世界は、
思っているほど
確かな形をしていない。
そう気づくだけで、
私たちはもう少し
自由な距離感で、
この世界に立てるようになります。
