明日の朝、迎えに行きます《第一話》
【あらすじ】
午前三時。
花屋で働く葉月は、店長の麻里に代わって市場への仕入れを任されることになった。
まだ誰も起きていない夜明け前。
迎えに来るのは、店で働く年下の男・駿介。
「下に着きました」
その一通のメッセージから始まった朝の時間は、やがて葉月の日常を少しずつ変えていく。
夫とのすれ違い。
誰にも言えない想い。
夜明け前だけに存在する特別な世界。
あの朝の藍色の空と、白いワゴンのヘッドライトを、葉月はきっと忘れない。
✴︎
【EP.1】
九月の朝は、まだ夏の匂いを引きずっている。
夏川葉月(なつかわ はづき)は、洗面所の鏡の前に立ちながら、自分の顔を見つめていた。三十二歳。どこにでもいる普通の主婦だ。コンシーラーを指先で伸ばしながら、今日の自分を確認するように目を細める。こんな時間にメイクをするのは久しぶりだった。いや、正確にいえば初めてかもしれない。午前三時すぎ。窓の外はまだ完全な暗闇で、町は眠ったままだ。
フラワーショップ「はなまり」で働き始めて、もうすぐ一年になる。経営者は高校時代からの友人、早野麻里(はやの まり)。明るくて行動力があって、ちょっと無茶をしすぎるところが昔から変わらない。麻里に誘われてパートを始めたとき、葉月は花の知識はほとんどなかった。それでも麻里は「葉月なら大丈夫」と笑って迎え入れてくれた。
そうして一年が経ち、今日から仕事の内容が変わる。
二週間前、麻里が急に顔色を悪くしてバックヤードに倒れ込んだ。過労だった。病院の医師にはっきりと言われたらしい。「このまま続けたら入院になりますよ」と。麻里は苦笑いしながら葉月に事情を話してくれた。朝の市場仕入れから夕方の閉店まで、一日十時間以上をこなしていたのだ。自営業者がよくやる、限界まで詰め込んだスケジュールで。
「朝の市場担当、わたしがやるよ」
葉月が提案すると麻里は「ご主人に悪いよ」と遠慮した。
でも、今の状況は麻里には負担が大きすぎるのは明確だった。
「夫に相談してみる」
「葉月、ごめん。本当にありがとう。もしオッケー出たら、駿介くんに毎朝迎えに行ってもらうよう頼んでおく」
「わかった」
その日の夜、夫の裕也にそのまま話した。
「これから三時起きで十四時まで仕事になるけど大丈夫かな?」
「大変だね。俺は全然大丈夫、無理すんなよ」
「明日から対応できるって麻里に返事してもいい?」
「いいよ」
夫は気にする様子もなく言った。夕食のサバの味噌煮を箸でほぐしながら、その日会社で聞いてきたという政治の話に移っていった。裕也はそういう人だ。優しくて、話し好きで、大きな声で笑う。葉月はそれが好きだったし、今も嫌いじゃない。ただ、ふたりに子どもはいなかった。夫と最後に手を繋いだのはいつだっただろうか。
「今日から早く寝なくちゃ。寝れるかな?」
「寝れないかもな」
夫は笑っていた。
やはり寝れなかった。
深夜二時に目が覚めて、それからずっと天井を見ていた。隣で裕也が規則正しい寝息を立てている。結婚して五年、変わらない寝息。葉月はそっとベッドを抜け出して、音を立てないように洗面所へ向かった。
鏡の前で簡単にメイクを済ませた。慣れない時間のメイクはノリが悪く感じる。リビングの窓を少し開けて手を伸ばしてみた。少し肌寒い。何を着ていけばいいだろう。
スマホが震えた。
画面を見ると、見慣れない名前。町田駿介(まちだ しゅんすけ)。昨日の夕方、麻里の店で連絡先を交換したばかりだ。
下に着きました。
初めて届くたったそれだけのメッセージが、なぜか胸を躍らせた。夜が明けていく暗闇に誰かが迎えに来ることが非日常的で少しくすぐったい。
玄関で靴を履いて、厚手のカーディガンを羽織る。玄関のドアを開けると、九月とはいえ夜明け前の空気は想像していたより冷たかった。マンションの廊下に出ると、エレベーターを呼んだ。このフロアに誰かが起きている気配はない。エレベーターに乗る瞬間、一度だけ振り返る。夫がいる部屋のドアは静かに閉じていた。
エントランスを出ると、すぐそこに白いワゴン車が停まっていた。
近所の迷惑にならないよう、小声で挨拶をした。
「おはようございます」
声をかけると、助手席の窓がゆっくり開いた。
「おはようございます、乗ってください」
町田駿介は三十一歳、独身。葉月よりひとつ年下で、花屋の市場と配達担当として二年前から麻里の店で働いている。背が高くて、いつも静かで、店で顔を合わせると小さく会釈をする人だった。多弁ではないけれど、感じが悪いわけでもない。ただ、正直なところ葉月はこの人のことをよく知らなかった。店では挨拶と業務連絡しか交わしたことがなかったから。
助手席に乗り込んでシートベルトを締めると、駿介がワゴンを発進させた。
「遠くなかったですか」
「意外と近かったですよ」
「それなら良かった」
短い会話。でも不思議と沈黙が重くなかった。ラジオがつけっぱなしになっていて、深夜のパーソナリティが穏やかな声で話している。葉月はシートに背中を預けながら、窓の外を流れていく暗い住宅街を眺めた。
こんな時間に起きているのは、自分たちだけみたいだ。そう思うと、妙な親近感があった。
「市場まで四十分ほどかかります。道は混んでないんで、だいたい毎朝同じくらいですね」
「そうなんですね。麻里は毎朝これを?」
「ええ、ずっと。麻里さん、体力あるんですよ。こういう生活、向いてると思うんですけど、さすがに一人でショップも全部やるのは」
「無理だよね」
「無理ですね」
二人して同じタイミングで笑った。
それからは、たわいもない話が続いた。駿介はこの仕事を始めた経緯を話してくれた。もともと植物が好きで、大学では農学部にいたこと。卒業後は商社に就職したものの、スーツを着て数字を追う日々が自分には合わなかったこと。退職して、しばらく迷ったあとに麻里の求人を見つけたこと。
「花を売る仕事、向いてますか?」
葉月が聞くと、駿介は少し考えてから言った。
「向いてるかどうかはわかりません。ただ、毎朝市場に行くのは好きですよ。あの空気が」
「あの空気?」
「行ったらわかります」
笑い方が、穏やかだった。
葉月は自分でも気づかないうちに、運転席の横顔を見ていた。鼻筋が通っていて、切れ長の目。信号で止まるたびに、少しだけ表情が和らぐ。この人の顔は、いわゆる自分が「タイプ」と呼んでいた輪郭に近かった。
いや、ちょっと待て。
葉月は目を前に戻した。わたしは人妻だ。しかも夫を家に置いてきたばかり。そんなことを考えるのは筋違いにもほどがある。ただ、顔がタイプだと思っただけで、それ以上でも以下でもない。美術館で「この絵がきれいだな」と思うのと同じだ。鑑賞と恋愛感情はまったく別のものだ。
そう自分に言い聞かせているうちに、ワゴンが大きな建物の前に入っていった。
「あそこが市場です」
ワゴン車が何台も出入りしている。ライトが煌々と灯る建物の中から、人の声と花の香りが漏れ出していた。こんな時間にこんな場所があったのか。葉月には初めて見る景色だった。
駐車場にワゴンを止めて、駿介が先に降りた。葉月もドアを開けると、冷たい空気の中に、甘いような青いような不思議な匂いが混じっていた。
「寒いですね」
「花が悪くならないように夏場でもかなり冷えますよ。暖かい格好で来てください」
優しさが少し乗った業務用の会話。でもそれがちょうどよかった。
市場の中は活気があった。業者らしき人たちが行き交い、バケツに入った花が所狭しと並んでいる。葉月はただ後ろを歩きながら、その光景を目に焼きつけようとした。こんなところで毎朝、麻里と駿介は仕事をしていたのか。
駿介には顔なじみが多かった。すれ違う業者の人と短い言葉を交わしながら、迷わずに目当ての場所へと向かう。そのうしろ姿は、店にいるときとは少し違って見えた。頼りがいがある、というか、この場所に属している感じがした。
「今日のメインはバラとガーベラにしようと思ってます。季節ものはコスモスと、あと菊系をいくつか。夏川さんはどう思いますか?」
「わたしはまだ全然わからなくて」
「じゃあ今日は見ていてください。来週くらいから一緒に考えましょう」
花を選ぶ駿介の目は、さっきより少し真剣だった。バケツの前でしゃがんで、茎の状態を確認したり、花びらの色を比べたりしている。葉月はその隣に立って、ただ見ていた。
「これ」
駿介が差し出したのはコスモスだった。薄いピンクの花びらが、繊細に重なっている。葉月が手を伸ばすと、駿介の手のすぐ横に自分の指があった。花びらに触れると、思いのほか柔らかかった。
「きれい」
「色がいいですよね」
「これ、もらっていきます」
どれくらいの量にするか、業者の人と交渉している。葉月はそれを横目に市場の雰囲気を観察していた。
朝の市場の空気。
その言葉の意味が、わかった気がした。
仕入れが終わると、ワゴンに花を積み込む作業が始まった。重い桶を運ぶのは駿介が率先してやってくれた。葉月は軽いものを手渡す係になったが、それでもほとんどのことを駿介がこなした。
「ごめんなさい、わたし、なんの役にも立てなくて」
「気にしないでください。すぐに慣れますよ」
あっさりしているのに、不思議と嫌な感じがしなかった。気を遣われている感じもなくて、ただ本当にそう思っている、という言い方だった。
ショップへ向かう帰り道、行きよりも会話は弾んだ。葉月の育った街の話になって、駿介がその近くに祖父母の家があったと言った。同じ路線のバスに乗っていたかもしれない、という話で笑った。世間は狭い、という言葉が嘘みたいにリアルだった。
ショップに着くと、積み荷を降ろして水を入れ替えて店内に運び込む作業が続く。これがなかなか重労働だった。腕と腰に来る。葉月は途中で一度、桶を床に置いて息をついた。
「大丈夫ですか」
「平気です、ちょっと休んだだけ」
「無理しないでください」
葉月が桶の前でしゃがみ込むと、駿介が向かいから桶に手をかけて持ち上げた。その一瞬、自分の顔の目の前に駿介の顔があった。本当に一瞬。駿介は気にしていないようだった。なのに葉月は一瞬だけ固まった。
ばかみたいだ、と思った。
すべての作業が終わったのは、九時をまわった頃だった。駿介はてきぱきと配達用の花をワゴンに積み直して、出かける準備をしている。葉月はバックヤードでエプロンをつけながら、ガラス越しにその様子を眺めていた。
ワゴンのドアを閉めて、駿介が振り返った。
「また明日の朝、迎えにいきます」
それだけ言って、ワゴンに乗り込んだ。エンジン音が遠ざかっていく。
葉月はしばらくその場に立っていた。
また明日の朝、迎えにいきます。
仕事の話だ。業務連絡だ。それ以外の何物でもない。でも不思議なことに、その言葉は約束みたいに聞こえた。夫が「帰るよ」と言うときとは、全然違う種類の言葉として、胸のどこかにぽとりと落ちた。
葉月は自分のスマホを取り出した。LINEを開くと、駿介からの「下に着きました」というメッセージが残っている。それに対して自分はまだ何も返していなかった。既読にしたままのメッセージ。
その時、店の電話が鳴った。
「葉月? 今日はどうだった? 駿介くんと大丈夫だった?」
麻里の声だ。少しかすれていて、まだ本調子ではない。
「大丈夫だったよ。すごかった、市場って」
「そうでしょ。あそこの空気、好きじゃない?」
「うん、瑞々しい香りがして空気が澄んでて気持ちがいいね」
「でしょ。ありがとね、葉月。なるべく早く朝の市場に復帰できるようにするから」
麻里が復帰を急いでいる。
「無理しないで。ゆっくりでいいよ」
「ありがとう、本当に助かってる」
電話を切った。
ゆっくりでいい。
口から出たその言葉は麻里を思いやった言葉だけではなかったような気がする。得体の知れない新しい何かが自分の内側で疼いていた。
店内に朝の光が差し込んでいる。バケツの中で、さっきのコスモスたちがわずかに揺れている。薄いピンクの花。
明日の朝も、あの白いワゴンが来る。
窓の外はすっかり明るくなっていた。夫はもうとっくに出勤している時間だ。今頃どこかで缶コーヒーでも飲みながら、同僚と話しているだろう。葉月の朝がこんなふうに始まっていたことを、たぶん想像もしていない。
べつに、それでいい。
ただ葉月は、今日という朝が始まったばかりであることを、少しだけ惜しいと思っていた。
