シロクマ文芸部|水を飲む|ゴルジェの女たち
ゴルジェの女たち ―前編―
アニマルクッキーを一つ、静かに噛み砕いた。
ロビーの隅に背をあずけ、ランは部屋を見渡した。
山奥の二階建て、寂れたホテル『スワン』。チーム「ゴルジェ」のいくつかある隠れアジトの一つだ。今日は非常招集がかかっている。
集まったのは五人の女たち。
カウンターの前で腕を組むナンバー2——マスターの実の妹。苦々しい顔をしている。何かを切り出す前の顔だ、とランは思った。
その周りに固まるコードネーム、トリプルナクスの三姉妹。長女ナー、次女クー、三女スー。三人は常にまとまって動く。水が低いところへ流れるように、自然と群れる。
そして、ランの隣に立つアコ。首をコキリと短く鳴らし、ロビーをひと舐めするように見回している。
何かがおかしい、とランは感じていた。
非常招集の理由を、ナンバー2はまだ誰にも告げていない。なのに、この場の空気はどこか——決壊寸前の水面に似ていた。
「みんな、聞いて」
ナンバー2は苦々しい表情で切り出した。
「マスターは留守よ。街の歯医者へ外出中。……マスターはね、最近『婚活』に目覚めているの。こともあろうに、私たちが行ってるよろしくない仕事から引退して、普通の男と結婚したがっている」
トリプルナクスの三姉妹が顔を見合わせた。
「え、じゃあ私たちは自由?」
「退職金は出ますか?」
「あちゃー、無職かぁ〜」
「泥にまみれた水は、きれいな水にはなれない!」
ナンバー2の妹は唇をとがらせた。
「マスターはね、すべてを清算してから結婚する気よ。これまで私たちを『水魚の交わり』みたいに重宝してくれたのは——最後にまとめて溺死させるためだったのよ」
嫌な話だと、誰もが感じた。
「つまり……妹の私も含めて、全員抹殺するってこと。マスターのあの大きな寝言で、化けの皮が剥がれたわ。だから、やられる前にやる。そして、マスターが部屋に隠してある大金を全員で分けましょう」
アジトの空気が、一瞬で「裏切り」の熱を帯びた。
「ああ。引き金を引いてしまえば『覆水盆に返らず』よ。いや、この場合は——『覆水、血の海に返らず』ね」
三姉妹の長女ナーは、指先で銃の形を作っている。
「異議なし。いくら屈強のマスターでも、同時に仕掛けられたら、たまんないっしょ。すべてを『水に流す』なんて器用な真似はできないわ。……流れるのはあの人の血だけよ」
次女のクーは爪をいじりながら言った。
三女のスーは両手で顔を覆い、すでに手に入るはずの大金を妄想して、その場でぴょんぴょんと跳ねながら言った。
「数で勝てる! 勝ったらあの大金を『湯水のように』使って、毎晩最高級水餃子を食べよ!」
ランは、手にしていたアニマルクッキーをもう一つ噛み砕いた。隣でアコが首をコキリと短く鳴らした。ロビーの視線は、そちらへ向かなかった。
「話が早くて助かる。じゃあ、準備と行こうか」
ナンバー2の現実的な脳筋作戦に、みんなが同意した。
マスターが戻るまで、まだ少し時間がある。
ナンバー2が作戦の準備を進める間、トリプルナクスの三姉妹は妙なものに目を留めた。カウンターの上に無造作に置かれた、水のペットボトルだ。
「これ、『ミズタマリの星神水』じゃない? マスター、男運を上げるために毎日これを飲んでるって噂よ」
三姉妹のテンションが一気に上がった。
「私たちもあやかりましょうよ! マスターを消したあと、最高の男を捕まえるために!」
三姉妹はグラスに水を注ぎ、一気にごくごくと飲み干した。
「あんたも飲みなよ」
コードネーム「コアラン」——妹のランに、グラスが差し出される。
ランは内心で冷ややかに笑った。アコも、同じだった——と、ランは思った。
(コアラは水を飲まない——)
彼女のコードネーム「コアラン」の由来だ。
野生のコアラがユーカリの葉の水分だけで生きるように、ランは絶対に「出所のわからない水」に口をつけない主義だった。用心深く行動すること——それが長く生き抜くための掟だった。
ランは完璧な「飲むフリ」をして、口を拭う瞬間にすべて袖の中へと吐き捨てた。
隣でアコも、同じようにした——はずだった。
数分後。
「う、うう……お腹が……!」
トリプルナクスの三姉妹が、一斉に下腹部を押さえて床に崩れ落ちた。
超硬水のミネラルが胃腸を直撃し、強烈なけいれんを起こしたのだ。
しかし激痛の割に「出ない」ため、彼女たちはただ猫背のまま、ロビーをのたうち回るしかない。
「ちょっと、あんたたち何やってんのよ!」
ナンバー2が怒鳴った、その時。
ガシャリ、と正面のガラス扉が開いた。
戻ってきたのは、マスターだった。
今日が診察日ではないことに途中で気づき、早めにアジトへ引き返してきていたのだ。そして運悪く——妹たちが自分を裏切って金を奪おうと話していた計画を、扉の向こうですべて盗み聞きしていた。
マスターの両手には、狩猟用の散弾銃が握られていた。
「へぇ……私の寝言、よく聞こえてたみたいじゃない」
マスターの冷え切った声がロビーに響く。
「お腹を壊して、ミミズみたいにうねっている奴らから、楽にしてあげるよ!」
ゴルジェの女たち ―後編―
散弾銃の轟音が鳴り響き、ロビーの壁が容赦なく弾け飛んだ。
「ひぃっ、お腹痛いのに!」
超硬水でお腹をカチコチに硬直させ、猫背のまま逃げ惑う三姉妹は、マスターにとって格好の標的だった。逃げる間もなく散弾を浴び、三人はお腹を押さえたまま一瞬で天国へと駆け上がっていった。
一方のナンバー2は、カウンターの下で顔を歪ませていた。
(流行りのAIとかに相談したほうが良かった? どこが悪かったの……)
すでに三人が失われた。残りも、生きているかどうかわからない。
数の利に、自分が大きな気持ちになっていたのも悪かった。姉であるマスターの恐ろしさを、あなどっていた。
だが——姉に好き勝手やられるのは、どうしても嫌だった。
「あんたの遅活のせいで、私たちは水の泡よ!」
カウンターから飛び出たナンバー2の妹が叫んだ。
密かに隠し持っていた特殊なボーガンを素早く引き抜く。シュッ、と鋭い矢が放たれ、見事にマスターの胸へと突き刺さった。
「ぐっ……!」
マスターは苦悶の表情を浮かべた。しかしさすがはゴルジェのナンバー1だ。妹をにらみつけると、再び銃口を向けた。
「向こう見ずな泥水みたいな人生をやり直すんだよ!」
バァン。
妹は、床に倒れ込んだ。
胸を撃ち抜かれたマスターも、そのまま崩れ落ちた。
「……生きてる?」
物陰の暗がりから、声がした。
アコだった。
「うん……。でも、みんな……」
「関係ないわ。マスターの大金を私たちが全部いただくの」
ランはアコとともに、マスターの部屋がある二階へと駆け上がった。
部屋の奥に鎮座する、古びた鉄製の重厚な金庫。しかも半開きで、中の一万円札がはみ出している。
「あった——!」
気づいたときには、アコの背中が金庫へと駆けていた。
(あのマスターが、こんなわかりやすい場所に大金を入れておくだろうか)
ランの足が、一瞬止まった。
「待って!」
でも、遅かった。
バチバチバチバチィィィッ!!
金庫の表面から、凄まじい高圧電流が放たれた。
「用心深くが……つい、嬉し……くて」
アコは、白い煙を体から出しながら床に倒れ込んだ。
「お、お姉ちゃん……!!」
アコは、もう息をしていなかった。
しばらく、ランは動けなかった。
部屋が、しんと静まり返っている。煙だけが、ゆっくりと天井へ昇っていった。
——気づけば、ずっとそうだったような気もした。
ランはゆっくりと立ち上がり、気持ちを切り替えた。
部屋の隅に大量に積まれた、水のケースに視線を向ける。
注意深く、一つの箱を開けた。
中に、大金が入っていた。
一万円札がぎっしり詰まったボストンバッグを肩にかけると、ランは姉に小さな声でバイバイと別れを告げた。
「私の流す涙は、聖水ではなく、ただの食塩水だ」
科学的視点で分析することで気を取り直すことにした。
ランはホテルの前に停めてあった車に飛び乗り、アクセルを限界まで踏み込んだ。山道を猛スピードで下っていく。
やがて、山を降りるにつれ、張り詰めていた緊張が解けていった。
喉が、カラカラに乾いていた。
「はぁ……み、水……」
ふと見ると、道路の脇に一台の自動販売機があった。
ランは車を急停車させ、自販機へと駆け寄る。
だが——その自販機は、どこか不気味だった。
並んでいるボタンの商品のすべてが、あのホテルのロビーで見たものと同じ「透明な水のペットボトル」だけだったのだ。
ランは一瞬、手を止めた。
(……大丈夫かな、これ。またあのお腹が痛くなるお水じゃないよね?)
喉の渇きは、もう限界だった。
「……まあ、自販機のお水なら、工場できれいにされてるよね」
自分に言い聞かせ、チャリンとお金を入れる。
ガコン、と落ちてきた冷たいペットボトルのキャップを開け、一気に喉へと流し込んだ。
「い、生き返る……!」
昼下がりの山道が、ひっそりと続いていた。
その、幸せな瞬間だった。
山道のカーブの奥から、プシューーーッ!!という不穏な破裂音が響いた。
左右にふらふらと蛇行しながらこちらへ向かってくる、巨大な大型トラック。
「あれ……」
だんだん近づいてくる。
逃げないと——
そう思ったが、遅かった。
何トンもある鉄の塊が、ゴロゴロドカーン! と突っ込んできた。
——ドンッ。
激しく凹んだ車と、ひらひらと風に舞う一万円札。
そして、誰の喉も潤せなかったお水が——アスファルトの上へ、ゆっくりと広がっていくだけだった。
(ゴルジェの女たち・fin)
