今日くらい、どこへでも_5
この記事はマスクドnote企画投稿作品です。
【ゆきのしたチーム 5 小説】

今日くらい、どこへ行ってもいい気がした。
いつもの景色が、やけに息苦しく感じたから。
夕方の駅の雑踏の中、私はふと思いつき券売機で一番遠くまで行ける切符を買った。
いつもは帰宅するが今日は「なんとでもなれ」としか思わない。
誰も私のことを知らない場所へ、行きたい――。
昨日、結婚前提で付き合っていた彼氏と別れた。
彼は私と同時進行していた彼女と結婚するらしい。つまり私が浮気相手。
それを知った途端、怒りや悲しみという言葉では到底表せないものがこみ上げてきた。
ただ喉が締め付けられる感覚。
爆発するのを忘れた爆弾のように、静かに。
自動改札に切符を通し、ホームへ足を進める。
この週末は、あてのない旅に出よう。私の足取りは重く、しかし速かった。
席に腰を下ろし一息つくと電車が動き出した。
私はスマホを取り出して電源を切り、カバンの底にそれを放り込む。
窓の外の夕暮れが映画のように目まぐるしく切り替わる。
それを見ているうちに重苦しい心が少しだけ軽くなった。
――どのくらい揺られていただろうか。
降り立った駅は、地元よりもずっと眩しかった。
誰も知らない雑踏が妙に心地がいい。
知らない街で、知らないバーに入り、私はカウンターチェアに腰を下ろす。
「どうしました? 顔が曇っているようですが……」
顔を上げるとバーのマスターが心配そうな目でこちらを見ていた。
四十代くらいの落ち着いた雰囲気の男性。動作はしなやかで、流れるように無駄のない動き。
私は、ほっとして思わず事情を話していた。
話を聞き、頷きながらマスターは静かにカクテルを作り、ふっと笑みをたたえ、透き通った赤いカクテルを差し出す。
「……もう一度、素敵な恋を」
「ありがとう……ございます」
口にすると甘みが喉を通り、胸の奥につかえている苦みを流してくれる。
――もう一度、歩きだそう。
バーを出た私は、少しだけ前を向けていた。
あてもなく来た街。偶然空いていたホテルにチェックインし、眠りにつく。
翌朝、海辺を歩く。
ふと、海を見て立ち止まる。
――これ、もういらないよね。
海に向かって銀色のリングを、思い切って投げた。
帰りの電車に揺られながら、私は力が抜け、ゆったりとした気分になっていた。
まだ、胸の奥はちくりとする。
カバンの中からスマホを取り出し、電源を入れ、彼の連絡先を削除する。
――さようなら。
地元に戻ってきた私の中に少しだけ、光がさした。
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