「侍タイムスリッパー」(๑و•̀Δ•́)و 称賛も ”殺陣は殺し合いじゃない!” と疑問アリ「流血の魔術 最強の演技」 ビジネス視点で「なぜ時代劇は滅びるのか」
元日、去年話題のインディーズ作品を聖地シネマ・ロサで観てきました。
奇しくも、本作が追悼する役者の命日だった。
《 開演 》
評判に違わぬ面白さ。
現代の技術を使わない本物の殺陣と、
現代人に見えない江戸時代の主役の顔には、脱帽です。
手弁当とは思えない、また手弁当だからこそ、
その両方の奇跡の融合でした。
でもまあ、
”真剣”の問題をどう扱うかは、観る側次第だろうなぁ。
私は違和感を覚えます。
感想の前に、その問題を扱いたい。
以下、ネタバレ全開で。
1.”真剣”の問題
1.1.思い出す事件
1.2.リアルではない
2.感動のエンディングを
3.見世物をリアルに魅せる事とは
4.惜しみない本物志向の手作り
5.京都太秦の変遷とビジネスモデル
1.”真剣”の問題
仕合いと殺陣を混同してます。
2つの意味で、気になって仕方ない。
1.1.思い出す事件
本作のラストを真っ向問題視する派が、最も良心的だとは思います。
少数派ですよね、
youtuberではIGNくらいかなぁ。
思い出すのは、
”見世物は殺し合いじゃない!”
ということ。
当時も、
”ドラゴンストップ” に拍手送る客は稀だったはず。
名勝負数え歌を繰り広げた、かつての盟友の、
その殺伐としたファイトに心痛めた。ジンと来ます。
それは兎も角、
殺陣は見世物、時代劇は見世物。
果たし合いは見物料を得る目的でやる事じゃない。
リアルなアクションを魅せることと、
本気で殺し合うのは違う。
全くの別物。
その上、
IGNにも、この話題に混乱があって、区別が出来てない。
プロデューサーが危険な撮影に許可出すといっても、
2種類あり、
トム・クルーズが危険を省みず行う、四天王ブロレスの大技。
リング上で目突き金的も狙う、何でもアリアリのセメント。
意味が全く違う。
撮影に託つけて、真剣で切り合うのは後者でしょ。
劇中のプロデューサーは軽すぎます。
ああ、説明が疎かに。
取り返しのつかない事故が発生
殺陣のリハーサル中、
勝新の息子でこれが映画デビューとなる奥村雄大が持っていた日本刀が、
子分役の俳優・加藤の首に触れた。
助監督が真剣を渡し、
それが真剣であることを伝えなかったことでの事故だった。
山の中だったので救急車を呼んだのでは間に合わない。
病院へ運び込むが、すでに4000ccも出血していた。
流石に何も連想せず、無邪気に拍手喝采はムリ。
たとえ、
”仮想現実でした” で言い訳が可能だとしても。
劇中、
切られる一瞬しか、真剣を使う必然性は無い。
真剣が、殺陣にリアリティを与えてる訳でもない。
本作の展開を説明すると、(あらすじは公式サイト等に任せます。)
主人公が、クライマックスの殺陣で、
模造刀でなく真剣の使用を提案。
因縁の相手もそれを快諾し、
遂に”真剣勝負の殺陣”が繰り広げられる。
果たして結末は如何に!!
という怒涛のラストですが、、、
うーん。
ストーリーとしても、ブレるというか、主張が撚れて、
武士として自分の生き様に決着を着ける事と、
作品のクオリティを上げることは、
関係がない。
果たし合いなら、プライベートでやれよ。
君も相手も、今は役者で侍じゃない。
ましてや因縁の相手は倒幕派なのだから、侍を捨てても当然。
更に時代劇を捨てることと、侍を捨てることは別のことだし、
アンタに、とやかく言われる筋合いは一つも無い。
当人同士が了承してても、
プロデューサーが、それを良しとして、大丈夫な訳ねーだろ。
娯楽作であっても一線を越えてる。
時代考証よりも、ずっと深刻な問題。
因みに、観客側の反応は、
①真っ向から問題視する(映画制作について良心的)
②問題も分かるけど、お目溢しを、と見逃す(娯楽作だし)
③純粋に娯楽作として楽しむ、気にしない(正統派の観客と思う)
④スルーするが、些末な事には異を唱える(意図的かは不明)
⑤逆に”真剣”を絶賛(お花畑が過ぎる)
と概ね、分類されます。
私のスタンスは、やや①寄りの②、
”まあまあ、そこはオメコボシを”(宇多丸、かいばしら)派に同意。
一方で、
④、⑤の意見でSNSの再生数回すのは、感心しません。
無知は罪だと考えます。
時代劇愛に溢れる作品と言うなら、あの事件を知らない筈がない。
1.2.リアルではない
他にも致命的だと思うのは、
真剣で殺し合ったら、殺陣には成らない。
殺陣はフェイク。
リアルなら間合いに入ったら、一瞬で決着着くとしたもの。
太刀筋をかわされるようでは、お話にならない実力差。
逆に決着が着かないなら、
猪木アリ状態で、にらみ合いのまま終わる。
これはスマフォやアラビア数字の時代考証よりも、
現実的にもっと大きな矛盾。
観てるときは、
「椿三十郎」オマージュな一瞬の決着を期待した。
(逆アングルでないと、左逆手抜きは分からない。右手は添えるだけ)
で、もう一度のタイムスリップで喜劇に着地。
かと予想してた。
本気の果たし合いだったら、華麗な殺陣にはならない。
成立しない。
殺陣はプロレス。受け手が居てこそ。
プロレスと競技は別の世界。競技は殺人技術とも別。
メダリストや軍事教官がリングに上がったとしても、それは”元”。
引退してからの転身だよ。
それに、
フルスイングで真剣同士をぶつけ合ったら、折れるんじゃね?
宮本武蔵が木刀使ったのは、
切れ味の鋭さの利点より、折れるリスクを嫌ったから、
と聞いたことがある。
真偽は知らん。(”木刀の方が長いから”は嘘らしい。)
兎に角、劇中の殺陣で、
わざわざ真剣使っても、リアリティは1ミリも伸びない。
真剣勝負には見えない。
2.感動のエンディングを
では、期待した展開は?
主人公は、
昔は藩のため、今は周りの人のため生きる。
生き方を変えて、楽しませるために剣を振る。
そこは明確に描きたい。
葛藤を乗り越え、身に付けた技術を活かしながら、
殺人からエンタメに転職し、生きてゆく様をメインにしたい。
真剣だからリアルというのは、むしろ逆。
その上で、
時代劇への想いは、ヒロインに語らせたい。主人公の問題ではない。
因縁の相手は、引退を決意して最後の殺陣に臨む。
主人公は切られ役に徹し、皆の笑顔を見て、今の生き方を肯定する。
そんな大団円を観たかったな。
3.見世物をリアルに魅せる事とは
エンタメで大事なことは、作り物なのにリアルに体感させること。
観客を気持ち良く騙すこと。
幻想を観客に信じ込ませた猪木って、想像以上に凄かったんだな。
再確認してしまった。

星の売り買いがないというのは、真剣勝負だから売り買いがない、という意味ではない。プロレスは最初から勝負が決まっているショーだから、
もとより裏で売り買いなどする必要はないということである。
-中略-
レスラーにとって、プロレスは年間一〇〇試合以上(私が現役レフェリーの頃は二〇〇試合以上)こなす職業だ。どんなに頑丈で気丈な人間であっても、三日に一度も命がけの真剣勝負などできるはずがない。
切られ役はプロレスでも存在し、
藤原喜明のような役回り。
本インディーズ作品は、
切られ役への追悼を謳いながらも、
メジャー団体のジョバーという職業にフォーカスを当ててない。
主人公は負け役を演じない。
逆に侍が、
これはフェイクと飲み込み良いのには説得力があったが。
柔道の頂点を極めたルスカにしてみれば、あんなに簡単に投げ技が決まるプロレスを見て、まさか真剣勝負とは思っていなかっただろう。
私も柔道をやっていたが、一度投げられたら負けという世界から見たら、
プロレスの投げ技は相手の協力なしには決まらないということがわかる。
だから、新日本からオファーを受ける前から、プロレスはまったく別物であることをルスカは感じとっていたはずだ。
しかし惜しい。
本物の追求と、
エンタメとして客を魅了する事はイコールでなく、
別の能力で、別の生き様だと、描き分けていない。
誰よりもプロレスの魅力をリング上で表現できる天才であり努力家、
それがアントニオ猪木だったことは間違いない。
その才能は通常のプロレスでも異種格闘技戦でも、同じように発揮された。
強さと、魅せ方は別。
映画の中で、区別が出来ていない。
私は②の立場で、問題は認めつつも、
③の純粋に大衆娯楽として楽しむのが正解だとは思っています。
自分は、そこまで良い観客には成れませんが、
単に時代劇愛だけでなく、
古き善き日本の喜劇映画への愛も含めて、味わいつつ、
大らかに本作を鑑賞するのが正解とも思う。
折角だから、
神話を信じるように上手に騙されるのが、客としての正解ですね。
残念無念。
それでも、出来れば拍手したい。。。
これだけの情熱だもの。
4.惜しみない本物志向の手作り
冒頭の長州襲撃で、
観に来ての後悔は無い、と安心しました。
これだけ真面目な殺陣は、いまどき珍しい。
メジャーでも、多くはワイヤーやCGに頼りガチ。
低予算といえども、いや逆に自主だからこそ、
衣装、美術、メイク、照明、ロケ、etc、
時代劇として、細部にも一切妥協無し。
それから現代へ飛んで、
ドタバタコメディでなく、人情喜劇なのだと分かる。
敢えての大衆娯楽全振り、
「寅さん」や「駅前シリーズ」の空気感を味わいました。
プロットは手堅い。
「名探偵津田」同様、ドラマ内と現実世界の対比。二重構造を魅せる。
今や定番かもしれない。
メタ構造を持ち込んで ”時代劇作りの時代劇” を実現。
「カメ止め」が ”映画作りの映画” であったように。二匹目のドジョウ。
やりたいことは理解して、気になる点は既に書いたとおり、
東映の全面協力とはいえ、
よくぞ時代劇という「カメ止め」の数段高いハードルを超えた。拍手。
エンドロールを眺め、
庵野秀明と同じく、こういう人はディテールに拘って妥協がないな。
何度も同じ名前が出て来る。
更に、
ヒロインがリアル助監督だと知って驚愕。
なんという二重構造。
5.京都太秦の変遷とビジネスモデル
今回、全面協力した東映は、
フィルムコミッションにプラスして、
時代劇の撮影インフラの提供というビジネスモデルも、アリなのか。
コンテンツメーカー(製作)に拘らずに。
本作で、
時代劇の衰退が迫りくる時代が様が描かれている。
元々コスパが悪いのに、
TVに個人視聴率も導入されて、
視聴者層が購買力の低いシニアに限定的とバレる。
2011年遂に、最後のシリーズ「水戸黄門」が歴史に幕を閉じた。
脚本と演出の才能を全て、抱えるのは限界がある。
現在視点では、
リスク取れないプロジェクトなら、時代劇のインフラだけ提供でも、
amazonのAWSのようなビジネス目指すのかな。
特に、
「SHOGUN」的な海外資本の時代劇は、もっと増えると思うのだけど。
配信の時代になって、もうTVに依存しようもない。
生き延びるには、形態が変化して当然だし。
参考文献
振り返って、本作の時代。
時代劇が勧善懲悪なのではなく、
そんなパターンしかTVで生き残れなかった。
TV自体が衰退期を迎え、役者の枯渇、脚本の枯渇。
時代劇は、いち早く斜陽産業となった。

テレビにおける時代劇の凋落は一九九六年に始まっている。
この年は、視聴率の調査法が「世帯視聴率」から「個人視聴率」へと移行した年でもあった。
これまでは「何世帯が観たか」という調査だったのが精密化され、
「どんな世代・性別の人間が観たか」までもが判明するようになったのだ。そして時代劇は「圧倒的に高齢者ばかりが観ている」ということが数字をともなったデータとして示されてしまう。
購買力が弱いとされるこの層を、
自動車・家電メーカーといった大口スポンサーは敬遠しがちだ。そのため、
製作費がかかる上にスポンサーも集まりにくい時代劇のレギュラー枠を維持し続けることに、営業サイドと広告代理店が難色を示すようになったのだ。
そうした中で、これまではただ「視聴率を上げろ」だったのが、
「クライアントの意向に合った視聴者を獲得する番組にしろ」へと、
営業や広告代理店から編成にかかってくるプレッシャーが変わる。
そうなると、「時代劇などなくなった方がいい」と編成の指向が変わっていくのは無理もないことだ。
一九九〇年代後半、時代劇の視聴率は多くは十五パーセント前後を稼ぎ出していて、決して低いものではなかった。が、その数字はテレビ局からすれば嬉しくもなんともないものだったのだ。「時代劇は商売にならない」
映画ではあまり触れられていないが、撮影所の危機も迫りくる。
単発モノばかりでは、スタッフを抱えられない。
「時代劇は連続ものだと、(出演する俳優は)ずっと京都にいないとダメでしょう。そうすると売れっ子は出てくれません。
でも、スペシャルだと拘束時間が少ないから、誰でも使える。キムタク主演の時代劇だってやれるんです」
-中略-
レギュラー枠の中での連続時代劇であれば、トータルで償却すればいいため、例えば「ある回で予算オーバー、日程超過になっても、次の回でそれを挽回すればいい」といった具合に、予算やスケジュールの融通が利く。が、スペシャルでは一回ごとに償却しなければならないため、
予算管理はかえって厳しくなる。
-中略-
連続ものなら、毎日のように現場は稼働するが、
スペシャルでは、それを撮る数週間意外はスタジオもスタッフも待機状態。生殺し状態でスタッフは、他に短期のバイトで生活費を稼ぐしかない。
また、その回数を撮るために、普段は現場が稼働しないのにスタッフやセットを維持し続けなければ成らず、
各プロダクションは多大な負担をともなうことになった。
著者は更に、
時代劇は、そもそも高齢者向けの娯楽でもないと主張する。
時代設定が限定されるだけであって、多種多様な物語が可能だと。
時代劇の舞台となるのは、とにかく逃げ場のない時代だった。だからこそ、個人と社会(組織)、男と女、道徳と個人など、さまざまな相克が命を賭けた激しさを伴う。結果ドラマとして濃密なものになる。
サスペンス、アクション、ドラマ……時代劇は本来、優れたエンターテインメントの表現手段なのだ。
やっぱり、コンテンツ自体が面白くないと、マンネリは飽きるし。
例えば、
アニメでも異世界モノばかりでは、ファンが固定化しまう。
鬼滅も、チェンソーマンも、自由な設定で物語のジャンルは様々。
いや、寧ろ、
異世界アニメというジャンルが、時代劇という括りに当たる分類か、
冒険して、さまざまな相克が命を賭ける。
サスペンス、アクション、ドラマ、にグルメに至るまで、
優れた表現手段であり、
ワンクール毎の新アニメの中でも、必ず異世界モノが製作される。
TVドラマの時代劇も昔は、そうだったのだろうか。
しかし、
ウケるバターンも客層も、固定化してしまうと衰退の始まり。
テレビ時代劇のパターン化を進められていったのには、効率化ともう一つ、大きな理由がある。それは『水戸黄門』という成功例があったことだ。
活性が低いと、成功体験に縛られてしまう。
民放の連続ドラマで、新作モノの時代劇を思い出すと、
この辺り↓が最後だった気がする。
/
— 時代劇専門チャンネル (@jidaigekich) June 30, 2020
時代劇版『#探偵物語』⁉
\#高橋英樹 主演
「さむらい探偵事件簿」
📺7/1(水)午後4時スタート!
思わずハマる人続出...!?
時代考証関係なし&パロディー満載の異色探偵コメディ時代劇!🔥
当時の流行語を口にする登場人物や、#小林克也 のDJ風ナレーションにも注目🤣#チョベリバ pic.twitter.com/qzJDGbKapI
アニメは今まだ、ラノベや漫画が才能を供給している。
時代劇は小説から、人気シリーズも多く生まれた。
思いつくまま挙げれてみると、
司馬遼太郎、池上正太郎、山手樹一郎、岡本綺堂、
山本周五郎は、また別のジャンルか。
藤沢周平が最後の人だったかなぁ。
『水戸黄門』のワンパターンな作り方は高齢視聴者をあえて意識したものだったのだ。この逸見の考えに基づいた作りに他局も追随したということは、この時期にほとんどのテレビ時代劇が高齢の視聴者をメイン層に据えるようになったことを意味する。
ジャンルに対するイメージが固定化しては、新規客の獲得が困難。
日常で出会う時代劇はいずれも高齢者に向けて作られたものである。
そうなれば、時代劇に馴染みのなくなった若い世代は時代劇の革新に挑んできた先人の努力など知る由もなく、「時代劇=古臭い」という認識の下、「食わず嫌い」状況だけが広がっていく。
本当は、それから、
京都撮影所固有の問題も指摘されるけれど、
映画では、そちらには踏み込んでないので省略。
本作で果たした役割のように、時代劇のインフラ提供者として、
外資にも、営業仕掛けていけたら、生き残れるかも。
と無責任に夢想してしまう。
映画村は、インバウンド需要に応えるらしい。
東映の有価証券報告書を見る限り、
テレ朝を筆頭に、大株主はTV局が占めている。
映画「スラムダンク」の成功は大きいみたい。
外部の原作のメリットは活かしつつ、依存しきらない、
単なる下請けとも違う、
かと言ってコンテンツメーカーに全振りもしない。
そんなビジネスモデルなのかと想像しました。
決して、暗い事ばかりでも無い。かな。
アニメ、特撮、時代劇、頑張れ東映。
鑑賞後、そんなことも考えてしまった。
本作は、
インディーズの才能も活かしつつ、メジャーと共栄共存。
そんなドリームを見せてくれる。
「カメ止め」とは、また違う、お伽噺。
疑問点も残れど、本作の成功を無邪気に喜びたい。
2025.11.10現在
2025.01.03時点の記事を大幅に加筆修正しました。
インディーが日本アカデミー賞という革命。
ジョバーでも、噛ませ犬でもなく、主演。

