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「見えている景色が違うだけ」で終わらせないために

自分が見ている世界は、
世界のすべてではありません。

私たちは、自分の経験や価値観、
育った環境や置かれている立場を通して、
目の前の出来事を見ています。

だから、自分にとっての「普通」が、
誰かにとってはまったく普通ではないことがあります。

同じ出来事を見ても、
チャンスだと思う人もいれば、
危険だと感じる人もいる。

違う意見に出会ったとき、

「なぜ、この人はそう考えるのだろう」

と立ち止まることは、とても大切です。

自分の考えだけを正解にせず、
違う場所から世界を見ている人の声に耳を傾ける。

対話は、自分には見えていなかったものに
気づかせてくれます。

けれど、忘れたくないことがあります。

人によって見えている景色が違うのは、
価値観が違うからだけではありません。


立たされている場所そのものが、
違うこともあるからです。

たとえば、新しい挑戦を
「チャンス」と捉える人と、
「リスク」と捉える人がいたとします。

失敗しても、もう一度やり直せる人。
一度の失敗で、
仕事や住まいを失うかもしれない人。

家族に頼れる人。

一人で子どもを育てながら、
生活を支えている人。

自由に意見を言える人。

反対すれば、
立場を失うかもしれない人。

同じ出来事を見ていても、
背負っているものは同じではありません。

その人が慎重なのは、
勇気がないからではないかもしれません。

変化を嫌っているからでも、
成長する気がないからでもない。

その人には、
簡単には失敗できない現実があるのかもしれません。


だから、

「どちらが正しいという話ではない」

という言葉にも、少し注意が必要です。

好みや人生観の違いなら、
一つの正解を決める必要はありません。

けれど、差別や暴力、
誰かの尊厳を傷つける考えまで、

「人それぞれだから」

と片づけることはできません。

「女性は家庭を優先するべき」

「母親なら、子どものために我慢するべき」

「嫌でも相手に合わせるのが思いやり」

そうした考えも、
誰かが見ている世界の一つかもしれません。

けれど、その考えによって
誰かの自由や尊厳が奪われているのなら、

単なる「視点の違い」として
並べてよいものではありません。

相手の考えが生まれた背景を理解することと、
その考えを正しいと認めることは別です。

理解しようとすることは、
同意することではありません。


また、対話はいつでも
平等にできるものではありません。

上司と部下。

教師と生徒。

生活を支える側と、
経済的に依存している側。

力の差がある関係では、

「何でも話してほしい」

と言われても、
安心して本音を話せないことがあります。

話せば否定されるかもしれない。

不利益を受けるかもしれない。

さらに傷つけられるかもしれない。

そんな状況で黙ることは、
対話を拒絶しているのではありません。

自分を守るための選択であることもあります。

距離を置くこと。

その場を離れること。

話さないこと。

それも、その人にとって必要な
意思決定かもしれません。

対話を大切にすることと、
対話を強制することは違います。

世界は、
自分が見ている範囲よりずっと広い。

だからこそ、
自分と違う考えを知ろうとする。

そして、もう一歩だけ踏み込んで考える。

なぜ、その人には
その景色が見えているのか。

その人は、
どのような場所に立たされているのか。

誰の声は聞かれ、
誰の声は見過ごされているのか。

すべてを「考え方の違い」で終わらせれば、
そこにある格差や痛みが
見えなくなってしまうことがあります。

大切なのは、
違いを尊重することだけではありません。

その違いの奥にある、
力の差や不平等にも目を向けること。

自分の世界を広げるとは、
たくさんの意見を知ることだけではなく、

これまで見えていなかった
誰かの現実を見ようとすることなのだと思います。

私は、誰かの価値観に合わせるための
人形ではない。

そして、誰かを
自分の価値観に合わせるための
人形にしてはいけない。

I am not a doll.

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