カセットに息を吹きかけるな、唾が飛ぶ
畳の網目に食い込む膝の痛みと、首振り扇風機が撒き散らす生ぬるい空気。
二つの赤い四角いボタンは、かつて人類が持っていた最も単純で残酷な知性の境界線だった。
じっとりと肌にまとわりつく湿気は、青畳の藺草(いぐさ)の匂いと、蚊取り線香の煙たさを部屋の隅々にまで塗りたくっていた。
柱の木目は飴色に濁り、窓の外ではミンミンゼミが、狂ったような金属音を立てて鳴き喚いている。
硝子戸に張り付いた死骸のような蝉の影が、西日の角度に合わせてゆっくりと歪む。
静寂を破るのは、首を振るたびに「カタ、カタ」と小さな悲鳴をあげる青いプラスチックの扇風機だけだった。
分厚いブラウン管テレビの裏側からは、埃が熱せられた特有の、焦げ臭いオゾン臭が漂っている。
画面のガラスに顔を近づければ、バチバチと指先を弾く静電気が、目に見えない産毛を逆立てた。
赤と白のツートンカラーの筐体。
太い溝の刻まれたカセットの差し込み口。
そして、本体から直接伸びる、短くて硬い黒いケーブルの先にある直方体のコントローラー。
十時キーと、赤い丸ボタンが二つ。
それだけのプラスチックの塊を前に、三人は息を潜めていた。
🤍「ねえ、ラピス。これ、本当に電源入ってるの? 画面が砂嵐のまま、変な音しかしないよ?」
💙「ミラ、接触不良でしょう。基板の端子に微細な酸化皮膜が張っているか、埃が挟まっているのです。無理に押し込んではいけません。壊れますよ」
🖤「おいミラ、貸せ。昔のガキがやってた『儀式』を見せてやる」
ノワールが苛立ちを隠さずに手を伸ばし、灰色のカセットを引き抜いた。
そして、端子のスリットに向かって、思い切り肺の空気を吹き付ける。
フーーッ! フーーッ!
💙「ノワール、やめなさい。呼気に含まれる水分で端子が余計に錆びるというのは、現在の電子工学における常識です。ただの迷信と唾液の散布ですよ」
🖤「うるせえな! 昭和のクソガキは全員これで直してきたんだよ! 理屈じゃねえ、肺活量と気合の問題だ!」
ガチャン、と乱暴にカセットが押し込まれ、赤いパワースイッチが無造作に押し上げられる。
ブツン、という耳障りな破裂音とともに、青い背景の画面が浮かび上がった。
ピコピコと鳴り響く、あまりにも簡素で、しかし一度聴いたら脳裏からこびりついて離れない電子のメロディ。
机の上には、ぬるくなった麦茶と、種だらけのスイカの切れ端が置かれている。
果汁の垂れた新聞紙の上が、べったりと赤く染まっていた。
🤍「わあ、動いた! すごーい! おじさんのお髭がジャンプしたよ!……あ、あれ? 穴に落ちちゃった」
🖤「開始五秒で死んでんじゃねえよ! なんで最初のクリボーに突っ込んでいくんだ、テメエの動体視力はどうなってんだ!」
🤍「だって! 十時キーを右に押しながら、Aボタンで飛んで、でも速く走るにはBボタンも押すんでしょ!? 指が攣りそうだよ〜!」
💙「興味深いですね。十字キーとボタンが二つ。操作系統としては極限まで削ぎ落とされたミニマリズムです。それなのに、現代のゲームしか知らない人間にとっては、この『慣性の法則』と『入力のシビアさ』が理解できない」
ラピスは膝の上で、黄色く日焼けした取扱説明書をめくりながら、冷ややかな視線を画面に落とした。
薄い小冊子には、ドット絵のイラストと手書き風の解説が並んでいる。
🖤「理解できないんじゃない、脳みそが腐って甘やかされてるだけだ。おいミラ、ちょっとコントローラーを置いて、オレの目を見ろ」
🤍「ひゃいっ!? な、なにノワール……急に怖い顔して……」
🖤「いいか。世の中にはな、『ファミコンも、スーファミも、プレステも、ドリキャスも、ゲームキューブも通ってこなかった連中』ってのが山ほどいる。物心ついた時にはスマホがあって、無料でガチャを回して、画面を指でペタペタ叩くだけで『推し』が全自動で敵を殴り倒してくれる世界で育った連中だ」
💙「あるいは、完全にゲームという文化を忌避し、大人になってから世間の流行に流されて、いきなり最新型の家庭用ゲーム機を買ってしまったような層ですね」
🖤「そう! そういう連中だ! オレが問いたいのはそこだよ。あいつら、いま現在のゲームを、本当に『遊べて』いるのか!?」
ノワールの尖った声が、六畳間の蒸し暑い空気を切り裂く。
扇風機が首を回し、ノワールの黒髪をわずかに揺らした。
🤍「ええ〜? 今のゲームって、グラフィックも映画みたいに綺麗だし、チュートリアルも丁寧じゃない? ミラ、迷子になったら光る線が地面に出て教えてくれるの、すごく親切で好きだけどな〜」
🖤「それがすでに毒されてんだよ! 綺麗? 親切? 笑わせるな! 画面の右上にはミニマップ、足元には誘導マーカー、敵の攻撃の前にはご丁寧に『ここで〇ボタンを押せ』と画面の中央に巨大なアイコンが点滅する。それはゲームか? ただの『指示待ち人間のための労働シミュレーター』だろうが!」
💙「ノワールの極論はさておき、構造的な事実として、現代のゲームは情報過多の極みにありますね。コントローラーを思い出してください。十字キー、二つのアナログスティック、スティック押し込みボタン、四つの前面ボタン、四つのトリガーボタン、さらにタッチパッドやオプションボタン……合計で十六以上の入力系統が存在します」
ラピスは長い指を折りながら、淡々と数を数え上げた。
💙「三次元空間におけるカメラ操作とキャラクターの移動を、左右の親指で独立して制御する。これだけでも、幼少期に空間把握の訓練を積んでいない大人にとっては、拷問に近い脳の負荷となります。画面酔いで吐き気を催し、トイレに駆け込むのがオチです」
🤍「うっ……確かにミラも、初めてカメラをグルグル回したとき、天井と床ばっかり見ちゃって気持ち悪くなったことあるかも……」
🖤「だろうが! 昔のゲーム機を通ってこなかった奴らが現代のオープンワールドに放り出されたらどうなると思う? 目の前に広大な荒野が広がって『さあ、あなたの自由です』って言われた瞬間、脳がフリーズしてゲロ吐いて電源切るんだよ! 自由という名の放置プレイに耐えられる知性がねえんだ!」
🤍「言い過ぎだよノワール! 誰だって最初は初心者なんだから、優しくしてあげなきゃ可哀想だよ〜!」
🖤「優しさでゲームがクリアできるか! 昔を思い出せ! 穴に落ちたら即死! 敵に触れたら即死! コンティニューは裏技を入力しないと最初から! 説明書を読まなければアイテムの効果すら分からない! あの理不尽な暴力と理不尽な死の積み重ねの中で、オレたちは『失敗から学ぶ』という人間の尊厳を叩き込まれたんだよ!」
ノワールは畳をバンと叩いた。畳の隙間から、わずかな埃が白く舞い上がる。
💙「ですがノワール、あなたの言う『死んで覚える美徳』は、現代の消費社会においては単なるコストの無駄遣いとみなされます。現代人は忙しい。仕事で擦り切れ、上司に怒鳴られ、満員電車で他人の汗を吸いながら帰宅した後に、なぜ仮想世界でまで理不尽に惨殺され、最初からやり直させられなければならないのですか?」
🤍「そうだよ〜! お家に帰ったら、優しく褒めてほしいもん! 『レベルアップ! あなたは最高!』って言われたいじゃない!」
🖤「その結果がなんだ! 失敗を極端に恐れ、攻略サイトを見ながらじゃないと一歩も進めず、少しでも詰まったら『クソゲー』とレビューに書き殴り、最終的には自分でプレイするのすら面倒になって他人の実況動画を倍速で見て『クリアした気』になってる現代人の無様な姿か!」
ノワールの冷徹な言葉が、核心を抉る。
蝉の声が一瞬、静まったように感じられた。
部屋の中には、ブラウン管の走査線が放つ微かな「キーン」という高周波の音と、三人の呼吸の音だけが残る。
🤍「う、う〜ん……でもね、ノワール。ミラ思うんだけど……昔のゲームをやってこなかった人たちって、本当に可哀想なのかな? 昔のゲームを知らないからこそ、今の綺麗な画面を見て、素直に『うわあ、本物の世界みたい!』って感動できるんじゃないかな?」
💙「無知ゆえの幸福、ですか。一理ありますね。私たちのように、ドットの粗さやポリゴンの歪み、ロード時間の長さに耐えてきた人間は、どうしても技術の進歩を相対的な歴史として消費してしまいます。『昔に比べて解像度が上がった』『フレームレートが安定した』という減点法的な評価です。しかし、何も知らずに触れる者にとっては、それが世界のすべてであり、絶対的な驚異となり得る」
🖤「甘いな。本質が見えてねえよ」
ノワールは冷たい目で、画面の中で停止しているマリオを見つめた。
🖤「歴史を通ってこなかった奴らに決定的に欠けているのは、『制約の美学』と『想像力の補完』だ。この画面を見ろ。たった十六色のドット絵だ。レンガの質感も、雲の柔らかさも、マリオがヒゲを生やしている理由すら、容量の都合で口が描けなかったからヒゲにしたという妥協の産物だ。だが昔のプレイヤーは、その記号の隙間を、自分の頭の中で極彩色のドラマとして埋めていたんだよ」
ノワールはコントローラーを手に取り、慣れた手つきでカチャカチャとボタンを鳴らした。
🖤「今のゲームはどうだ? 毛穴の一つ、服の汚れ、吐く息の白さまで全部グラフィックが説明してくれる。プレイヤーが想像する余地なんか一ミリも残されてねえ。脳の筋肉を使わずに、口を開けて流し込まれるフォアグラのガチョウみたいに映像を貪ってるだけだ。そんな奴らに、本当の意味でゲームを『遊ぶ』ことなんてできっこねえだろうが」
🤍「ガチョウ……? ミラ、美味しいレバーは好きだけど……でも、想像するのって、結構疲れるよ? 昔のゲームって、ヒントが少なすぎて、どこに行けばいいか分からなくて何時間も同じ村をグルグル回ったりしたじゃない。あれ、すっごくお腹が空くし、悲しくなるよ」
💙「ええ。ファミコン時代のRPGにおける『ノーヒントで壁を押す』『意味のない掛け声を特定の場所で叫ぶ』といった理不尽な謎解きは、想像力というよりは、単なる開発者のサディズムと容量稼ぎの産物でしたからね。あれを美化するのは、生存者バイアスに過ぎません」
🖤「サディズム結構! 理不尽を乗り越えて、自力で正解を見つけ出した時の脳汁の出方を知らねえ奴らは、本物の快楽を知らないまま死んでいくんだよ! 現代の親切設計で得られる快感なんて、砂糖水を薄めて人工甘味料をぶち込んだような安物のジュースだ!」
🤍「もうっ、ノワールはすぐ極端なこと言う! ジュースは甘くて美味しいのが一番いいの! 苦いコーヒーを無理して飲んで『これが大人の味だ』って威張ってる子供みたいだよ!」
🖤「あんだと!? 誰がクソガキだ!」
💙「二人とも、論点が感情的な罵倒にシフトしていますよ」
ラピスはため息をつき、ぬるくなった麦茶を一口啜った。
喉を鳴らして飲み干すと、グラスの底で氷の溶け残りがカランと乾いた音を立てる。
💙「現代のゲームが遊べるか、遊べないか。この問いの根本にあるのは、知能の問題でも、操作系統の複雑さでもありません。『不快感に対する耐性』の有無です」
ラピスは膝を正し、二人に視線を向けた。
💙「昭和から平成初期のゲームは、プレイヤーを不快にさせることで成立していました。理不尽な死、進まない進行、失われるセーブデータ。それらの『苦痛』を代償として支払うことで、クリア時の『達成感』という巨大なリターンを得ていた。経済で言えば、ハイリスク・ハイリターンの投機です」
🤍「ハイリスク……お小遣いを全部使っちゃうみたいなこと?」
💙「ええ。対して、現代のゲーム環境は極めてローリスク、あるいはゼロリスクに設計されています。快適なUI、即座のリトライ、失敗しても減らないリソース。なぜなら、現代においてエンターテインメントの競合は無限に存在し、少しでもストレスを与えれば、ユーザーは一瞬で他のSNSやショート動画へと逃亡してしまうからです」
🖤「だから言ったろ! 根性がねえんだよ、今のユーザーも、それを作ってるメーカーもな!」
💙「ですがノワール、それは『退化』ではなく、単なる『適応』です」
ラピスの琥珀色の瞳が、冷徹な光を放つ。
💙「かつて私たちは、限られた娯楽の中で、一つのカセットを何百時間も擦り切れるまで遊ぶしかありませんでした。だからこそ、理不尽な難易度すら愛着へと変換する精神的な防衛機制が働いた。しかし、選択肢が飽和した現代において、わざわざゲームの中でまで理不尽な苦痛を求める必要がどこにあるというのです? 胃袋が満たされた人間に、あえて泥水を飲ませて『昔の飢餓の味を思い出せ』と強要するのは、ただの老害のノスタルジーに過ぎません」
🖤「…………チッ」
ノワールが舌打ちをして、腕を組んだ。
反論しようと口を開きかけ、しかし言葉を飲み込む。
🤍「そっかあ……。昔はゲームが宝物だったから、難しくても頑張れたんだね。今は、いつでもどこでも楽しいことがいっぱいあるから、みんな『今この瞬間』を楽しみたいだけなのかも」
💙「その通りです。ですから、『昔のゲームを通ってこなかったユーザーが、今のゲームを遊べるか?』という問いに対する現実的な解はこうなります」
ラピスは手元の説明書をパタンと閉じ、机の上に置いた。
💙「彼らは今のゲームを、私たちとは全く異なる『快適なアトラクション』として十全に楽しんでいます。そして――」
ラピスはふっと口元に、冷たく、しかしどこか悪魔的な笑みを浮かべた。
💙「――かつての苦痛を『本物のゲーム体験覚覚』などと信じ込み、過去の遺物にしがみついて現代のユーザーを見下している私たちだけが、いつまでも満たされない飢餓感を抱えたまま、この蒸し暑い畳の上で孤独に死んでいくのですよ」
静寂が、部屋を支配した。
風鈴が、チリンと一度だけ鳴る。
扇風機が首を回し、ぬるい風が三人の間を通り抜けていった。
ノワールは額に滲んだ汗を手の甲で乱暴に拭うと、視線を逸らし、誰にともなく吐き捨てた。
🖤「……おいミラ。Aボタン押せ。さっさとその髭の親父をジャンプさせろ」
🤍「えへへ、うん! ――あ、またカメに当たって死んじゃった!」
🖤「だから言わんこっちゃねえだろうが! 貸せ、オレがお手本を見せてやる!」
コントローラーを奪い合い、喚き散らす二人の横で、ラピスは静かにスイカの種を皿の端へと吐き出した。
赤い果汁が、乾いた喉の奥へと滑り落ちていく。
その生々しい甘みだけが、通り過ぎて二度と戻らない時代の、確かな感触だった。
