怒りの根っこが哀しさであることに気づいたら、なんだか心が軽くなったという話。
ここ2週間ほど前の私は、絶不調だった。
とある出来事がきっかけとなり、普段なら気にならないようなことにも、怒りの感情が次から次へと湧き上がり、山本リンダばりに、もうどうにも止まらない状態だったのだ。
すると引き寄せられるように、不機嫌な現実が目の前にガンガンあらわれてくるという悪循環。
それをどうにかするために、気持ちの切り替え、気分転換を試みた。
すると、その怒りが起爆剤となったのか、やるべき仕事が面白いほどに捗ったのである。
さらに、その怒りの感情を認め吐き出したことで、怒りの正体は、哀しみや虚しさなのかもしれないということに気づき、ふっと心が軽くなったのだ。
そんな極めて個人的な話ではあるが、自分の記録のためにもここに綴っていきたい。
まずは身体を動かし、気持ちの切り替えを試みる。
可及的速やかに怒りをおさめるには、何も考えず身体を動かすことが一番だと考えた私は、家中の床を濡れ布巾で拭きまくるということをした。
そうすることで、家だけでなく自分の心も整うことを体感しているからである。
怒りに任せて、一心不乱にフンフンと鼻息荒く雑巾で床を拭いていったのだが、これが集中力増し増しで、めちゃくちゃ仕事が捗るのだ。
そして、自分史上最速で拭き掃除を終わらせることができ、おかげで家の中がスッキリ整った。
お次は、家から一旦離れ、近所のカフェに赴いた。どこか別の場所に移動して気分転換を図りたかったからだ。
note記事を書くつもりでカフェに行ったわけではない(とてもそんな気持ちにはなれなかった)のだが、念の為に持参したパソコンを取り出した途端、不思議とnoteを書く手が動いてしまっていた。
これが怒りのパワーというものなのだろうか、いつもとは明らかに違う尋常ではないスピードで、キーボードを叩きまくる。(周りにいた人たちには、迷惑をかけたのかもしれない・・・)
そうこうしているうちに、気がついたら投稿ボタンを押していた。それが、前々回挙げた記事であり、先の拭き掃除と同様、自分史上最速で書き上げることができたのだ。
「嫌い」という感情にフォーカスしたなんともネガティブチックな内容のため、人によっては読むに耐えられないかもしれない。(そうであれば申し訳ない)
しかし、自分としては、言語化を試みたおかげか、少しだけクールダウンができたようにも思う。
そんなこんなで、夕方になり、畑の草取り仕事に精を出す。
ここでも、怒りが原動力となったのか、罪もない雑草を八つ当たりすべく、これでもか!とちょっとビョー的なほどに草たちを殺生する。
おかげで(?)、家の中同様、畑も最速でスッキリ整った。
蓋をしてきた未消化の負の感情が、とめどもなく溢れ出す。
怒りのおかげ(?)で、家事やnote執筆、畑仕事が捗ったということ自体は、結果オーライだった。
しかし、実のところ、その過程は非常に辛く苦しいものだったのである。
というのは、気持ちの切り替えをしたくて家事などの行動を起こしたのに、おさまるどころか、やればやるほどに怒りが増していったからだ。
怒りに任せてフンフンしながら床の拭き掃除をしていた時には、今やすっかり忘却の彼方のはずの過去の嫌な記憶が、ふっと脳裏に湧いてくるのだ。それが怒りを増幅させ、またフンフン言いながら床を拭き続けるという、その繰り返しだった。
畑仕事では、成長著しい雑草たちと対峙することで、無の境地に至ることを期待していたものの、ここでも過去の忌まわしい記憶が蘇り、雑草に八つ当たりをしていたのだ。(ちなみに、声に出して叫んだわけでもなく、周りに誰もいない状況だったので、ご安心のほど。)
note執筆に至っては、記事内容のとおり、言わずもがなである(苦笑)。
そう、作業に精を出せば出すほど、蓋をしていたネガティブな記憶が、なぜか蘇ってしまうのだ。
どうもここへきて、これまで溜めに溜めたゴミ(押し込めていた負の感情)が、ついに蓋を突き破って溢れ出してしまったようだ。
これまでの私であれば、「もうそんな昔の話、さっさと忘れちゃいなよ」だとか「その人にもその人の事情があったんだから、いい加減許そうよ」「そんなことを言われる自分にも、落ち度があったのかもよ」などと、気持ちの切り替えや捉え方を変えてみるようなことを試みていた。
そうやって、これまで臭いもの(自分のネガティブ感情)に蓋をしてきたのだろう。
しかし、この日はどうにもそれでは太刀打ちできそうになかった。
ゆえに、ここには書けないようなおどろおどろしい罵詈雑言を吐きながら、罪悪感ナッシングで感情の毒出しを繰り返したのだ。(もちろん一人の時に)
それは、人間関係だけでなく、疑問だらけのこの世の歴史、政治、経済、教育、医療等々にまで飛び火している(苦笑)。
自分が出したゴミくらいきれいに後始末をするのが、大人のたしなみ(?)。ゆえ、もう見てぬ見ぬふりはできなかったのだ。
怒りの原因は、相手ではなく自分だったことに気づいた瞬間。
そうして、苦しいながらも自分の負の感情と向き合いながら、一通り感情を吐き出していった時に、ある変化が起こった。
これまでは、「なんであの時、あんな奴にあんなこと言われにゃならん?!」「なんで、あの人は私のことをわかってくれなかったんだ?」「そもそも、なんで世の中こんなに理不尽なんだよ?!(特に日本の税金、おかしいでしょ?!)」と、相手(外側)に対して「なぜ?」という矛先を向けていた。いわゆる他責というやつかもしれない。
しかし、それがそのうち「なんで私、あの人にこんなにムカついたんだろう?」「なんで私は、この社会でもっとうまい具合に生きられないんだろう?」といった自分に向けた「なぜ?」変わっていったのだ。これは、自責でも自己否定でもない、純粋で素朴な自分への疑問だった。
そんな感じで、自問自答を繰り返しているうちに、ふとあることに気がついたのだ。
それは、この怒りの源は、自分の心の奥底に秘し沈められた哀しみや虚しさなどかもしれないということだ。
たとえば、自分のことを人にわかってもらえない哀しさだったり。
たとえば、思いどおりの生き方ができない自分への不甲斐なさだったり。
あるいは、自分は何をしてもうまくいかないという情けなさだったり。
はたまた、自分ではどうにもならない虚しさだったり。
それを、誰かに(というか自分に)わかってもらいたくて、でも素直に認められなくて、だから、正当さを装った「怒り」という方法で表現したというわけだ。(たぶん、きっと)
それがわかった瞬間、「なんだ、そんなことだったのか」と、まるで憑き物が取れたかのようにふっと心が軽くなったのだ。
・・・自分、なんてしょぼいんだろう。
そして、なんて健気なんだろう(笑)。
そんなバカな自分が、なぜだか心から愛おしく思え、笑えてきたのだ。
ひょっとして、これが世にいうインナーチャイルドの癒しというものなのか?(その筋の方からは、違う!そうじゃない!とツッコミが入るかもしれんが)
怒りが湧く根本原因は、相手(外側)というよりも、自分(内側)にあって、相手はただ単にそれを見せてくれる演者だったに過ぎないのかもしれない。
そう思ったら、あれだけ腹立たしかった人のことも、おかしな仕組みのこの世の中のことも、その時にはもうどうでもよくなっていた。
いや、どうでもいいというよりは、「だったら、自分はこんな人になりたい」「これからは、こんなふうに生きていきたい」というご機嫌になる前向きな思考に、無理なくシフトチェンジできたということだけなんだろうが。
怒りの感情が湧いてきたら、それは自分を知る絶好の機会かも。
これまでの私は、怒りは悪しきものであり、怒っている自分は人間ができてない稚拙なポンコツ野郎という思い込みがどこかであった。
だから、これまで怒りの感情が出てきた時には、少しでも早く封じ込めることにエネルギーを使ってきたのだ。
でも今回は、少し荒療治ではあったが、自分の中に巣食う怒りの感情を素直に認め、思う存分味わうことができた。
それにより、過去に置き去りにした負の感情を、多少なりとも消化(昇華)できたように思う。
しかしこれは、頭の中だけでじっと考えていては、それこそ沼にハマって出られなくなっていたかもしれない。
今回のように、身体を動かしたり行動を起こしたことで、無理なく自然に健康的に(←ダイエットCMの常套句のようだが)、気持ちの切り替えができたのではないだろうか。
今後もまた、未消化の怒りの感情(哀しみや虚しさ)が、何かのきっかけで湧いてくるであろう。その時には、ちょっとキツいけれど丁寧に自分の感情に向き合っていくことで、自分を知るよき機会としたい。
そう考えると、怒りも悪いことばかりじゃないかもしれない。
ただし、それには、周りを巻き込まないことが肝要である。
「フキハラ」といわれる不機嫌ハラスメントの加害者になるのは、ごめん被りたいので。
最後に、このような長文を最後まで読んで下さったことに、心より感謝したい。
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