見出し画像

私たちは『何かが来る』のを待っている――映画『バックルームズ』から考えた恐怖の文法

映画『バックルームズ』の感想を書いたあと、もう一つ気がつく。

この映画の怖さって、一見するとこちら側、人間の「理(ことわり)」の範疇に見える場所で、理解不能な現象が起きることなのではないか。
壁がある。床がある。蛍光灯がある。廊下があり、部屋がある。
どれも人間が作った建築物として理解できるものばかりだ。
なのに、何かがおかしい。
そして、誰もいないはずの場所で物音がする。

「何かがいるのでは?」

そう思った瞬間から、恐怖が始まる。
でもこれ、考えてみたら不思議だ。
物音がしただけなのに、なぜ私たちは「何かがいる」と思うのだろう。
映画を観ている側は、たぶん「何かが来る」のを知っている。
いや、知っているというより、期待している。
暗い場所。誰もいない空間。物音。何かの気配。
そろそろ来るぞ。
怖い。来てほしくない。
でも、来るんでしょ?
ホラー映画をたくさん観ていなくても、私たちはいつの間にか、この「恐怖の文法」を知っている。

以前、『プロジェクト・ヘイル・メアリー』の感想で、こんなことを書いた。
映画『エイリアン』以降、異星人との遭遇にはある種の“お約束”ができあがっている。
暗闇、接近、そして突然の“バン”とくる恐怖。
観る側も作る側も、そしてグレース自身もそのフレームワークを共有している。
ところがロッキーは、その文法を共有していない。
彼にとって異星人は恐怖の対象ではなく、未知の存在であり、接触すべき対象だ。
だから私は、PHMのファーストコンタクトを「エイリアン以後の観客」と「エイリアン以前の存在」のズレとして面白がった。

『バックルームズ』を観ていて、今度はその逆のことを考えた。
こちらは、恐怖の文法を知りすぎている。
何かの物音におびえ、「何かがいる」と考える。
その時点で、まだ姿も形もないモンスターを自分たちで妄想生成しているようにさえ見える。
「何かが来るかもしれない」という恐怖。
それがいつの間にか、「何かが来るはずだ」という期待になる。
怖いから来てほしくない。
でも、何も起きないままでは済まないことも知っている。
この「何かが来る」という期待そのものが、何かを引き寄せているのではないか。
『バックルームズ』の中で、人間は何度も向こう側へ入っていく。
一度行って帰ってこられた。
なら、もう少し。
もう一度帰ってこられた。
なら、もう少し奥まで。
そして「何かいるのでは」と思いながら進んでいく。
怪異が人間を呼んでいるのか。
それとも人間が、怪異を期待することで怪異を呼んでいるのか。
そもそも、あそこに最初から「何か」はいたのだろうか。
そう考えると、『バックルームズ』の何の変哲もない黄色い空間が、さらに不穏に見えてくる。

PHMでは、「異星人は怖い」という映画のお約束を知らないロッキーによって、私たちが持っている恐怖のフレームワークが浮き彫りになった。

『バックルームズ』では逆に、そのフレームワークを私たち自身が持っているからこそ、まだ何も見えていない空間に「何か」を見つけようとしてしまう。

恐怖とは、「何か」が現れたから生まれるものだけではない。

「何かが現れるはずだ」と待ち始めた時点で、もう始まっているのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集