適量で快適な暮らしの哲学#5|余白と余裕、どっちがいい?
こちらの続きです。
ミニマリズムやシンプルの価値観は、今でもわたしの根底に流れています。
丁寧な暮らしへの憧れは、以前とは異なる形で自分にフィットしている。
これまでを振り返ると、「ミニマル=減らす」→「シンプル=整える」→「丁寧=満たす」と、興味の軸が移ってきました。
「無駄がないこと」より「自分らしさや彩りがあること」を重視するようになった。
暮らしを「削ぎ落とす」段階から、「満たす方向へ進む」という変化が起きている。
そこでふと「余白」という言葉を考えた時に、以前とは異なるイメージを抱きました。
余白と余裕、同じだと思っていませんか?
余白が欲しかった。
物に溢れた生活をしていた時にミニマリズムを知り、「余白のある生活」に憧れました。
SNSやライフスタイル系の発信でよく使われている「余白」という単語。
余裕のために余白を作るのか、余白があるから余裕なのか。
自分自身を「ミニマリスト」と称してきたときは「余白」こそが正義でした。空間、時間に空白を作り、ノイズを減らして心を平穏にしたい。
余白は、スペース(space)。
けれど今、ミニマルとシンプル、丁寧な暮らしからも距離を置いた状態で「余白」を考えてみると、「Gemütlichkeitな暮らし」からは少しずれているように思うのです。
Gemütlichkeit(ゲミュートリッヒカイト)とは、ドイツ語で精神的な安定感や温もり、居心地の良さのことを指します。わたしの理想の暮らし。
一方で、余白と似た単語である「余裕」とはどんな意味でしょうか。
端的に比較すると、余白がすでにある敷地内のスペースであるのに対して、余裕は枠そのものを広げた先にに生まれるゆとり、自由裁量。
キャパシティを増やしたり、エネルギーを蓄えたりすることで生まれるもの。
イメージとしては、満ち足りているからこその余力といったところでしょうか。

余白と余裕。
似ているものと考えがちですが、実は全く異なるものなのです。
ミニマルとシンプルと丁寧と
ミニマル=減らす
シンプル=整える
丁寧=満たす
この3つを、上から順番に経験してきました。
そしていま現在の感覚からすると、どれに偏るのも自分の「快適」ではない。
余白の多いミニマルに徹した状態で幸せを感じている人を見て、自分もこうすれば幸せになれるのだと思った。
けれどわたしは、余計なものや余分なもの、一見無意味そうに思える物に対しても価値を感じることがある。
むしろ人生の楽しみは、そういうものにこそ宿っている…とは、よく聞きますよね。
丁寧な手仕事で生活と気持ちを満たしている人を見て、自分も真似すれば幸せになれるのだと思った。
けれどわたしは、手をかけることで得られる喜びよりも、効率的であることに喜びを感じることもある。
自他ともに認める面倒くさがりですし。
この感性や感覚を「余白のためには不要だから」と切り捨ててしまっても良いのでしょうか。
または自分に無理をしてまで「達成感のために」「絶対この方が気分が良くなるから」と強制するべきなのでしょうか。
どちらも違う。
かと言って、全てが合わなくなったのではありません。
バランスよく取り入れたい。
「余白」ばかりではなく「余裕」も欲しい、という考えにシフトとチェンジしたのです。
厳選した先にあった余白と、満たしてくれる余裕の両立こそが、快適でGemütlichkeitな暮らしなのだということに気付いたのです。
「余裕」は、自分の快適さに正直でいることから生まれる
余白は「何もない状態」をつくることが目的になりやすい。
これはわたしの経験から思っていることです。
「足してはいけない」「ノイズになるものを全部捨てる」、SNS上に存在するモノのない家の写真を見て「減らす競争」に参加してしまう。
その余白は、誰のものでしょうか。
本当に自分のためになっているのでしょうか。
他人の生活に憧れて、自分の価値観が見えなくなっていませんか?
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