『もしも脳梗塞になったなら』、あるいは見出されし他者(2025)
『もしも脳梗塞になったなら』、あるいは見出されし他者
Saven Satow
Dec. 20, 2025
「人生には立ち直れないときもある。しかし、立ち直ってこそ人生ではないか」。
長嶋茂雄
1 他者の再発見
これは他者を再発見する物語である。人は社会の中で一人だけで生きているわけではないが、それをしばしば見失ってしまう。けれども、死に至る病がきっかけとなって他者を改めて見出す。その時、人は自己が再生するのを発見する。
映画『もしも脳梗塞になったなら』は『明日にかける橋 1989年の想い出』や『沖縄狂想曲」などを手がけた太田隆文監督が⾃⾝の脳梗塞の闘病体験を元に描いた作品である。主人公大滝隆太郎役を窪塚俊介、妹役を藤井武美、母役を田中美里、さらに大滝をネットで応援する友人役を藤田朋子と佐野史郎がそれぞれ演じている。2025年12月20日より新宿K’sシネマをはじめ全国各地で公開予定である。
2025年6月3日に亡くなった長嶋茂雄は脳梗塞を患っていたことで知られている。厚生省による2023年の「患者調査」によれば、脳血管疾患で治療を受けている総患者数は188万4000人で、その内脳梗塞は 131万2000人あり、で全体の約70%を占めている。脳梗塞は多く発症している病だとわかるだろう。この疾病は加齢と共に発症リスクが高まる。高齢化の進展していく社会がその調査結果をもたらしているのであり、脳梗塞は誰にとっても決して他人事ではない。
しかし、「もしも脳梗塞になったなら」と考える人は必ずしも多くないだろう。実際、この映画の登場人物たちの少なからずも同様である。
主人公は映画監督の大滝隆太郎である。彼は東京近郊の地方都市に一人で暮らしている。ハリウッドを目標にする彼は理想の映画を撮ることにいつも腐心し、低予算であっても、質を上げるために、1人で7人分の働きをしている。しかし、そうした無理と緊張により、映画を撮り終えると、疲労のあまり3か月も寝込んでしまう。
新作の制作中に、隆太郎は、突然、脳梗塞を発症する。心臓機能は20%まで低下、両眼共に視野が半分欠損、思考や記憶の力も落ち、うまく話せない状態に陥ってしまう。友人に電話をかけても信じてもらえず、状況をSNSに書き込んでも的外れな助言や誹謗中傷を返される。彼は、症状だけでなく、こうした反応に絶望感を覚え、このまま孤独死してしまうのかという心境に追い込まれる。
脳梗塞はしばしば重篤な後遺症が残るため、先の長嶋茂雄を代表に著名人の発症が大きく報道されることもあり、名前はよく知られている。おおまかなイメージは広く認識されているものの、実態が詳しく理解されているとは言い難い。SNS上も含め隆太郎の友人たちも「もしも脳梗塞になったなら」どうなるか自分事として考えたことがある人はあまりない。彼らは決して悪気があるわけではないけれども、想像力が働かないため、脳梗塞発祥の話を聞いても無神経や見当違いな反応しか返せない。
しかも、病人は不安に襲われ、気弱になるものである。隆太郎のような深刻な病気であればなおのことだ。そんな時に、自分の考えを押し付けることは彼を追い詰めることにしかならない。彼が求めているのは自分の話に耳を傾け、共感してくれることだ。病人は健康な人にとって他者である。その声を配慮するなら、「お大事に」という常套句の方が彼には心優しく響く。
そんな隆太郎に意外な人たちから救いの手が差し伸べられる。自動車を持っている知人が買い物を手伝ってくれたり、病気体験のある人が行政サービスの利用法を教えてくれたり、映画の応援者から食料品が届いたり、介護ヘルパーが生活をサポートしてくれたりする。
「もしも脳梗塞になったなら」どうするかも患者にとって重要な問題だ。先の統計が示す通り、脳梗塞は社会的な疾病の一つだ。長期的に治療を続け、苦しいリハビリに取り組み、障害と共に暮らすことを余儀なくされる。それには経済的・生活的サポートが不可欠であり、行政機関も「もしも」の時のためにそうした社会保障制度を整備している。ただし、日本の中央・地方政府は措置行政の姿勢を取っている。利用者からの要請があって初めて対応することを原則とする。隆太郎は脳梗塞体験者のSNS友だちの2人から行政サービスの利用法を教えてもらう。
隆太郎は、当初、医療や福祉のサービスを利用しようとした際に、SNSの誤情報に振り回されている。聞きかじっただけで、自分で確認していない不正確な情報をSNSにより彼に伝える友人も少なくない。もちろん、彼らに悪気はない。ただ、「もしも脳梗塞になったなら」と相手の状況について想像力を働かせるなら、自ら確かめた上で、伝達するに違いない。結局、彼らは病人という他者を見失っている。他者への想像力は倫理的態度につながるものだ。
隆太郎は行政サービスを利用し、社会保障制度の存在に感謝する。と同時に、彼は市役所職員や介護ヘルパーに感銘を受ける。制度の運用は実際には現場の人が担うものである。彼女たちは隆太郎の置かれている状況を理解し、話に耳を傾け、親身に接してくれる。それは友人たちが示した浅薄なコミュニケーションと違っている。「もしも脳梗塞になったなら」どうなり、どうして欲しいのかを彼女たちは理解している。病人という他者との倫理的なコミュニケーションがそこにはある。
隆太郎は、救いの手を差し伸べてくれた人たちとの交流の中で自身の認識の変化を自覚する。他者として声を聞いてもらっているうちに、隆太郎自身も他者の存在を発見する。自分は社会の中で一人きりで生きているわけではない。隆太郎はこれまで映画制作の作業を誰かに委ねることを避けている。低予算という制約もあったが、最大の理由は彼の完璧主義である。しかし、そうした姿勢は他者の存在を見失い、自分だけで映画を作っているという錯誤に陥ったのではないかと彼は気づく。もはや今の状態では従来の創作法は撮れない。大切なのはフランク・キャプラー監督の『素晴らしき哉、人生!』のような感動的な映画を作ることであって、方法ではない。むしろ、できない作業はスタッフに委ねれば、まだまだ映画が撮れる。それどころかそういう信頼のチームワークから新たな作品も生まれ得るのではないかと隆太郎は確信する。
スタッフの支援を得て、新作映画は完成し、公開にこぎつける。隆太郎は、初日の舞台挨拶の中で、助けてくれた人たちへの感謝をこめつつ、ウォーレン・スパーンのエピソードを語る。スパーンは1940~60年代に主にブレーブスで活躍し、通算363勝は左投手としてMLB歴代1位のレジェンドである。若きスパーンの左腕から繰り出される速球は威力があり、無双状態だ。しかし、コントロールが悪く、奪三振王にして与四球王で、バックの存在を無視したような投球である。そんな彼も30歳を過ぎてから急に勝てなくなる。そこで彼は考えを改め技巧派へと転向する。変化球を覚え、コントロールを重視し、バックを信頼して打たせてとる投球を心がける。彼は復活し、むしろ、以前より勝星を挙げるようになる。隆太郎は今の自分をチームワークに目覚めた後のスパーンの姿に重ね合わせている。これは彼の映画監督としての再生宣言である。
『もしも脳梗塞になったなら』はこのように他者を再発見する倫理的物語である。人は社会の中で一人だけで生きているわけではないが、主人公は無理と緊張を強いられる生活を繰り返しているうちにそれを見失ってしまう。けれども、脳梗塞の発症をきっかけとして、自分を支援してくれる人たちとの交流を通じて他者を改めて見出す。それを受け入れた時、映画監督として再生するのを自覚する。「もしも脳梗塞になったなら」という問いかけはそういう倫理的認識をもたらす想像力を促す。
2 大滝隆太郎の脳梗塞
SNS上も含め、主人公大滝隆太郎の友人たちが彼に無神経な言葉を投げかけたり、的外れな助言をしたりする理由には、脳梗塞に関する知識不足もあるだろう。この病名は耳にすることがあっても、経験者やその関係者を除けば、この疾病の概観でさえ知っている人は多くないのが実情だ。主人公の見舞われた状況がいかなるものであるかを理解するためにも、脳梗塞に関する知識が欠かせない。
脳梗塞は、血管が詰まる原因や詰まる血管の太さによって、大きく分けて3つの主要なタイプに分類される。これを知るだけでも、主人公がシビアな状況に見舞われたことがわかるだろう。
第1が「ラクナ梗塞(Lacunar Infarction)」で、この「ラクナ」はラテン語で「小さなくぼみ」を意味し、小さな梗塞巣を指す。主に高血圧が原因で、脳の深部にある非常に細い血管(穿通枝)が障害を受け、詰まってしまう。 梗塞のサイズが小さいため、症状が軽度な場合が多いが、場所によっては麻痺などの後遺症を残すこともある。小さな梗塞であっても、再発を繰り返すと認知症の原因になることがある。一般に、ラクナ梗塞は脳梗塞全体の発生割合が約35%〜40%で、最も多い。
第2が「アテローム血栓性脳梗塞(Atherothrombotic Infarction)」で、この「アテローム」は粥状動脈硬化のことである。 糖尿病や脂質異常症、喫煙などにより、頸動脈や脳の太い動脈に動脈硬化(プラーク)が生じ、その部分に血栓ができて血管を詰まらせてしまう。 血管の狭窄が徐々に進むため、症状が段階的に進行する傾向が認められる。アテローム血栓性は全体の約30%である。
第3が「心原性脳塞栓症(Cardioembolic Infarction)」である。最も多いのは心房細動という不整脈で、心臓のなかに血液のよどみが生じ、血栓ができ、これが脳の血管に流れ込んで詰まらせてしまう。心臓から急激に大きな血栓が飛んでくるため、症状が突発的で、広い範囲の脳細胞が一気にダメージを受け、重症化しやすい傾向がある。心原性脳塞栓症は全体の約25〜30%である。主人公の脳梗塞はこの心原性脳塞栓症であり、作中でも触れられる大島渚監督も同様である。
主人公は、脳梗塞発症前、夜間に激しい咳に襲われている。当初は喘息の発作と思われていたが、後に心臓喘息と判明する。心臓喘息は脳梗塞の直接原因ではないけれども、それを生じるほどの心不全を抱える患者には、脳梗塞の発症リスクを高める不整脈(心房細動)が併発しやすい。
心臓喘息は心不全によって肺の血管に血液がうっ滞(肺うっ血)し、さらに血管から水分が漏れ出て肺胞に溜まる(肺水腫)ことで起こる喘息様の激しい咳や呼吸困難を指す。心不全は心臓のポンプ機能が低下し、全身に必要な血液を十分に送り出せなくなった状態である。血液が滞ることで肺の血管の圧力が上がり、水分が血管から漏れ出て肺に溜まり(肺水腫)、呼吸が苦しくなる。これが心臓喘息の症状だ。心臓喘息は心不全の症状の一つであり、こうした心不全の患者には、不整脈(心房細動)を合併するケースが多い。
心房細動では、心臓の一部である心房が細かく震えるように不規則に動き、血液を効率よく送り出せなくなる。そのため、心房内で血液の流れが淀み、血液の塊(血栓)ができやすくなる。そういった大きな血栓が血流に乗って脳の血管まで運ばれ、そこで血管を詰まらせることで脳梗塞を引き起こす。
主人公の状況は、重度の心臓病(冠動脈疾患と心不全)が背景となって、脳梗塞という重大な合併症を引き起こした極めて深刻なケースと考えられる。最初の治療は、医師の言葉を借りれば「心臓に溜まった余分な水分を取り除く」措置である。心臓喘息が起きている状態は心臓のポンプ機能低下によって循環が破綻し、結果として肺に水が溜まることで、言わば身体が溺れかけているような危機的状況を指す。こうした状態で身体に大きな負担のかかるカテーテル治療(ステント手術)を行うことは非常にリスクが高いので、まずは全身の循環を整える必要がある。これは心臓の負担を軽減し、呼吸困難を解消して、命の危険を伴う心不全の急性症状を安定させるための緊急かつ最優先の治療である。
その後、主人公は詰まった血管の流れを回復する手術を受けている。心臓を養う最も重要な血管は冠動脈と呼ばれる3本の太い血管である。これらがすべて詰まったり狭くなったりしている状態は3枝病変と呼ばれ、非常に重度の冠動脈疾患(虚血性心疾患)であり、心臓の機能が大きく低下(心不全の原因)していることを示している。血管がゆっくりと詰まっていく過程で、身体が足りなくなった血流を補おうとして、既存の細い血管を太くしたり、新しい毛細血管を増やしたりする側副血行路と呼ばれる現象が生じる。これは、心臓が必死に生き残ろうとする自己防衛機能である。しかし、本来の太い血管の代わりを完全に果たすことはできず、心不全を引き起こす。この詰まった冠動脈に血流を回復させるための治療としてステント手術による血行再建術を受け、無事成功している。
脳梗塞がやっかいなのは、しばしば重篤な後遺症が残るからである。実際、手術後も、主人公はそれに苦しめられている。脳梗塞の主な後遺症は、運動障害(片麻痺等)や感覚障害(痺れ等)、言語障害(ろれつが回らないや言葉が出にくい等)、視覚障害(視野欠損や半盲、複視等)、高次脳機能障害(記憶や思考、判断力の低下等)、嚥下障害(食べ物や飲み物をうまく飲み込めない)などである。これらの後遺症は日常生活に大きな影響を及ぼすことがある。主人公の後遺症は主に視覚障害と高次脳機能障害である。人間の活動には両者が関連していることも少なくないので、主人公には複合的な困難さが伴っている。
主人公は心臓の血管が詰まる病気と心臓のポンプ機能が低下する病気を同時に抱え、その結果、脳の血管が詰まる病気も発症したという深刻な状況に置かれている。作品内で医師が四肢の麻痺がないことを知って、主人公にラッキーだと吐露するのは決して誇張ではない。
脳梗塞には重要な予兆がある。これは一過性脳虚血発作(TIA)と呼ばれ、本格的な脳梗塞が起こる前の危険なサインである。それには運動障害や感覚障害、言語障害、視覚障害、平衡感覚障害などを挙げることができる。持続時間は通常数分〜1時間以内で、24時間以内に完全回復するため、大事と捉えないことが少なくない。主人公にも視野欠損といった視覚障害の症状が現われ、医師への報告が脳梗塞発見のきっかけとなっている。その際、ベテランの医師が「あと5日早ければ」と漏らしたように、TIAの自覚直後に治療を始めれば、深刻な状況を回避できる可能性もある。このように、『もしも脳梗塞になったなら』は、断片的ながら、知っておくべき脳梗塞に関する情報を扱っており、啓蒙的にも重要な作品でもある。
3 自己言及的構造
『もしも脳梗塞になったなら』は従来の太田映画と趣を異にしている。彼の映画は大きく二つに分類できる。一つは主に青春を扱った人間ドラマで、もう一つは沖縄戦をテーマにしたドキュメンタリーである。しかし、『もしも脳梗塞になったなら』はいずれとも違い、太田監督自身の体験を元にした自伝的な作品だ。そのため、物語映画であるけれども、実話の持つリアリティを表現する工夫が凝らされている。
この作品は、日記のように、さまざまなエピソードが主に時系列で配置されている。一般的な映画のリニア・ナラティブではなく、エピソード形式を採用している。それは各シーンやエピソードが独立性を持ちながら、時系列に沿って並べられることで物語全体を構成するものだ。本作品では一つのシーンに一つのエピソードが当てられ、パッチワークとして構成されている。エピソードは、病気についての医学的描写や映画監督としての活動、友人たちとの交流、日常生活の一コマ、自分自身に関する対話の夢、家族をめぐる記憶など多様である。それらが基本的に時間順に並べられ、全体として主人公の変化を描き出している。
一般的な映画の線形物語形式は発端・展開・ 解決という強い因果関係を持つ三幕構成で、ドラマ性や緊張感、カタルシスを最大化する。一方、本作は、強固な因果関係と明確なドラマツルギーを意図したプロットを排し、代わりに主人公の日常の連なりや体験の記録に焦点を当てている。各エピソードは、主人公の内面や状況の微妙な変化を積み重ねている。また似たような日常的な出来事やパターンが繰り返されるストラクチャー・オブ・レペティション: により、時間の経過や変化が際立っている。さらに、物語の流れを細かく断片化されているので、エピソードの意味を観客がつなぎ合わせることで、感情的な深さや多角的な解釈を生み出している。
この映画は主人公が視覚障害を抱えているため、ナレーションが多用されている。主人公の視覚障害という見えない状況に苦労しているにもかかわらず、それを映像表現だけで描くとしたら、内容と形式が矛盾してしまう。ただし、主人公による主観的ナレーションではなく、主に画面に映っていない妹による批評的解説のボイス・オーバーである。
妹は、主人公の病状や孤独を理解しつつも、病気の当事者ではないため、より客観的・社会的な情報がナレーションに盛り込まれる。これにより、物語は社会的なドキュメンタリーの視点を獲得している。それは主人公の主観的な語りを相対化し、物語の真実性や客観性を示す。
物語映画は特にテーマがなくてもカタルシスがあれば十分である。しかし、ドキュメンタリー映画には社会的意義が必須である。この作品委は、「もしも脳梗塞になったなら」どうなり、またいかにすればいいのかが描かれている。ドキュメンタリーに近い内容を持っている。
『もしも脳梗塞になったなら』は、深刻な題材を扱っているにもかかわらず、非常にテンポがよく、コメディ・タッチを帯びている。それは、シーンの切り替えの際に挿入される『マンボNo.5』を思わせる陽気なラテン音楽が強調している。しかし、この作品は笑いを狙っているわけではない。実際、主人公は友人たちによる浅薄な会話に対して憤りを見せている。彼らは病気の深刻さを理解せず、安易で形式的なお笑いで場をとりつくろうとする。主人公はその姿に自分の状況への真剣な理解がないことを感じ取り、孤独を深める。そのため、コメディ調自身もリアリティを示すものだ。
確かに、映画はシビアな病気に苦しむ人の内面を伝えようとしている。だが、そのリアリティは唯重苦しい雰囲気がもたらすものではない。悲劇と喜劇が現実では分かちがたく同居している。こうしたペーソスとユーモアは暗さを排することでなく、リアルさの追求の結果としてのコメディにつながっている。そもそも、極限状態や逆境の中で人は自己を防衛し、精神的なバランスを保つためにユーモアを必要とするものだ。
映画内で否定される笑いは他者とのつながりが見つかる以前の浅薄なコミュニケーションを象徴し、主人公の孤独の深度を確立している。他方、肯定される笑いは他者との交流を経て、主人公が獲得する倫理的姿勢を象徴し、再生の過程を具現する。こうした緻密な笑いの使い分けは、この映画が他者の再発見につながるコミュニケーションの本質を示している。
『もしも脳梗塞になったなら』の最大の見せ場は大瀧隆太郎監督による舞台挨拶のシーンである。それは彼が脳梗塞体験から学んだ自身の変化を物語っている。だが、映画はこれで終わりではない。最後のシーンはウォーレン・スパーンのエピソードを教えてくれた人物との邂逅である。
その人の名前は霧山と言い、行政サービスの利用法の情報を隆太郎に伝えた友人の一人でもある。彼とはSNSを通じて知り合ったが、今まで直接会ったことはない。対面した隆太郎は霧山も脳梗塞の経験者で、車いす生活をしていると知る。隆太郎は霧山に感謝を述べ、その車椅子を押しながら、今回の体験を映画化する計画について語り始める。それがまさに今観客が見てきた『もしも脳梗塞になったなら』ことが暗に示され、映画は幕を閉じる。
作品はこうした自己言及的なエンディングを迎える。これにより、なぜ『もしも脳梗塞になったなら』が制作された理由が明らかになり、個人の体験を越えたその社会的意義も明確化される。
物語映画は、特にテーマがなくても、カタルシスがあるだけでかまwないが、ドキュメンタリーには社会的意義が必要である。「もしも脳梗塞になったなら」どうなって、いかなることをすればいいのかを扱っている。
このエンディングが物語るのは、本作品が自己言及的構造を持っているということだ。観客が見ている映画は、隆太郎自身が体験を通じて示した社会的意義を秘めている作品である。こういったメタ階層の作品は作られた理由を映画自身が体現している。脳梗塞の発症という個人的体験が「もしも脳梗塞になったなら」どうなり、いかなることをすればいいのかという公共的意義へと結びつく。象徴的なのは、スパーンのエピソードが受け継がれる経験としての語りへと収束することだ。それは脳梗塞の先達から隆太郎を経て映画として観客へという知識と経験の循環を成立させる。病と映画制作が個人的体験の発露から公共的な語りへと転換する過程を端的に物語る。結末に置くことで描写は事後的に全体へ意味を還流させる役割を持つ。
『もしも脳梗塞になったなら』は非常に緻密に創作された傑作である。闘病体験を通じてこの映画を制作した太田隆文監督の思いは、おそらく、脳梗塞の先達の信念と共通していることだろう。「人生に悔いはない。まだ生きて映画を撮るという目標がある」(大島渚)。
〈了〉
参照文献
医療情報科学研究所編、『病気がみえる vol.2 循環器 第5版』、メディックメディア、2021年
鴻巣麻里香、『わたしはわたし。あなたじゃない。 10代の心を守る境界線「バウンダリー」の引き方』、リトル・モア、2024年
豊田一則編、『脳梗塞診療読本 第4版』、中外医学社、2024年
豊田一則編、
厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/index.html
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