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秀吉の「エゴ」をたどる京都旅(6):醍醐の花見


はじめに

稀代の出世人、豊臣秀吉
「人たらし」と呼ばれたその陽気な振る舞いの裏側には、人並み外れて肥大したエゴが渦巻いていました

この旅のシリーズでは、天下人を突き動かした膨大な欲望の痕跡を辿ります。


醍醐寺仁王門と桜


醍醐の花見

慶長三年(1598年)3月15日。

死のわずか5ヶ月前、秀吉が催したのは、会場とした寺を花見のために作り変えるという空前絶後の宴でした。

それは現実を己の欲望に従わせようとする「エゴ」の極点ともいえるでしょう。


執着のタイムライン

決定から本番まで5週間。

その異様なピッチと規模は、醍醐寺の座主・義演が記した『義演准后日記』に残されています。




■ 2月9日
秀吉が来寺。
北政所や秀頼が花見をするための下見。

寺内を隅々まで確認し、泉水を絶賛。
仁王門の修理、槍山への御殿建設を指示。


※ 醍醐寺は応仁の乱で荒廃していたが、秀吉は花見の前年から五重塔の修理や金堂の再興に着手。花見直前、異例の速さでそれらや堂宇の移築を進めた


醍醐山(標高約454メートル)の中腹に位置する槍山(国土地理院地図を加工)


現在は荒廃し、宴の痕跡は見出せない


■ 2月10日
槍山の普請、開始。

■ 2月13日
(植樹計画)
近江・河内・大和・山城、さらに吉野からも桜を移植。
馬場から槍山まで350間(約630m)、道の両脇に700本を植樹。

■ 2月16日
秀吉来寺。
桜の馬場と寝殿の設計図を自ら作図。
五重塔と仁王門の修理、金堂再興の意向。

■ 2月19日
桜が届く。八足門から槍山まで植樹。

■ 2月20日
秀吉が来寺。到着後すぐ槍山に登る。

庭園を泉水・橋・名石(藤戸石)で整備するよう指示。
山を「深雪山(みゆきやま)」と命名し、秀頼にちなんだ和歌を詠む。


三宝院庭園


■ 2月23日
秀吉来寺。道と槍山を確認。

金堂・講堂・食堂・鐘楼・経蔵・塔・湯屋・三門の目録を上呈。
醍醐寺へ1,000石寄進。すこぶる機嫌良し。

■ 2月28日
秀吉来寺。まず槍山に登る。
興福寺や大和からの建物移築により、建物が急速に完成。

■ 3月1日
五重塔完成。


醍醐寺五重塔


■ 3月3日
秀吉来寺(すこぶる機嫌良し)。

■ 3月6日
花が少し咲いた。花見は12〜3日か。

■ 3月11日
花見は14日か15日。

■ 3月12日
馬場の桜満開。

■ 3月13日
午後、激しい風雨。
15日に確定。

■ 3月14日
秀吉来寺。
諸大名からの献上品(金銀、折、織物、酒)が、道端の広範囲に積み置かれる。

■ 3月15日(花見当日)
 秀吉、女性たち(北政所や淀殿ら)が来寺。

終日、花を愛で遊興。何事もなく終了。
醍醐寺へ銀100枚寄進。


三宝院 太閤しだれ


■ 3月16日
昨日は晴れだったが、今日は風雨。
「太閤様の御威光が、誰の目にも明らかな形で現れた。驚くべき霊験である。」




日記を追うだけで、その執着は一目瞭然です。

これほど多岐にわたる無理難題が押し通された事実は、彼のエゴがもはや常軌を逸したレベルにまで肥大していたことを示しているでしょう。


絢爛と「仕込まれた毒」

極まった美の舞台

荘厳に整えられた寺院を夥しい桜花が薄桃色に染め上げる。

趣向が凝らされた茶屋が槍山まで連なり、贅を尽くした茶の湯と膳が供される。

それを彩るのは、絢爛な衣装をまとった女性たち。
二度のお色直しを命じられ、衣裳代は現在の価値にして約39億円だったともいわれます。(※補1)

まさに、地上に出現した極楽浄土そのもの。

しかし、どれだけ美を足し続けたとしても、完全な美にはなり得ないのです。

杯の順番争い

ここに、一つの逸話が伝わります。

正室・北政所の次に側室の京極竜子が杯を受けようとして茶々が争い、前田利家の妻・まつが「歳の順から言えば私。」と収めたというエピソードです。

いくつかのバリエーションがありますが、原型は『菅利家卿語話』の一節と考えられます。


出典:国立国会図書館デジタルコレクション『日本歴史文庫(10)』収録「菅利家卿語話」


これは前田家の記録であり、「ねねとまつが対処し、みなが並々ならず心得た」という内容でもあることから、「うちのまつ様スゲー!」的な含みが存分に感じられます。

ただ、争いがあった可能性自体は否定できないでしょう。

「毒」を仕込んだ者

しかし、京極竜子は40代で茶々は30代。
どちらも高い格式と実績を持つ女性であり、輿の順は茶々が先でした(※補2)。

事実がエピソードどおりだったとしたら、この状況で竜子が独断で序列を乱すことなどあり得るでしょうか。

これはもしかすると「仕込み」だったのかもしれません。

1300人の客のうち、男性は秀吉と秀頼と前田利家のみ。
「無粋な」男の論理で裁こうとする者は場にいません。

また、秀吉はこうした「キャットファイト」を嫌うどころか、むしろ好んだはずです。

竜子の実家・京極家は足利将軍家に連なる名門であり、茶々の実家・浅井家はその家臣筋。
一方、茶々は世継ぎを産んだ唯一の存在です。

どちらの女性にも、相手に「絶対に勝っている」要素──つまり、明確な落とし所があるのです。
さらに、彼女たちはいとこ同士。

なにやら出来すぎてはいないでしょうか。

桜だけが知っている

もしかすると花見のあと、四人は「してやったり」と顔を寄せ合い、笑い転げたかもしれません。

しかし、その争いによって宴が「完全な美」に昇華されたことにまでは、気づいていなかったでしょう。


霊宝館庭園 ど根性桜


秀吉という稀代のエゴのもとに巡り合わせた女たち。

のちに関ヶ原の合戦時、ねねと茶々が協力して京極竜子の救出に動いたように、そこには部外者が知り得ない絆がいくつもあったのかもしれません。

彼女たちの艶姿を目にした者は、もうこの世にはいません。

けれども、ここの桜たちはきっとそうではないのでしょう。


馬場の桜


補足:

※1 『歴史ヒストリア』日本人と桜の物語、NHK, 2015年3月25日

※2 当日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(茶々)、3番目に松の丸殿(竜子)、4番目に三の丸殿、5番目に加賀殿(まつの娘)、まつ であった。


次回:


参考記事:

巨大なエゴの渦中で、彼女たちがどう生き抜いたのかを「茶々編」「ねね編」で詳しく読み解いています。
運命にただ振り回されるのではなく能動的に選び続けた女たちのドラマを、ぜひごらんください。

− 茶々編 世継ぎ誕生という慶事は、なぜ豊臣家を地獄へ導いたのか

− ねね編 賢夫人と呼ばれた女性は、実際は何と向き合い続けていたのか

− 秀吉編 天下人となった男は、なぜ晩年に自壊していったのか

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