頭の回転は「考える速さ」ではない
「頭の回転が速い人」と聞くと、どんな人を思い浮かべるだろうか。
難しい議題でも、すぐに本質を捉えて発言する人。質問に即座に的確な答えを返す人。次々とアイデアを出し、議論を前へ進める人。
そんな人と会議をしていると、こちらがようやく状況を理解し始めた頃には、相手はすでに論点を整理し、結論までたどり着いている。
だから私たちは、「この人は考えるのが速い」と思う。
しかし、本当にそうなのだろうか。
以前、「頭の回転が速い」と誰もが認める人と一緒に仕事をしていた。
会議では、幅広いテーマについて論点を整理し、本質を突く発言をする。議論が混乱していても、何が問題なのかを短時間で明らかにし、議論を前へ進める。まさに頭の切れる人だった。
ところが、その人と居酒屋で仕事とは関係のないテーマを話すと、少し様子が変わった。
興味深そうに質問したり、感想を述べたりはする。しかし、会議で見せるような鋭さはない。普段感じている「頭の回転の速さ」が、そこではあまり見えなかった。
さらに、ある日、一緒に財務諸表を読んでいたときにも似たことが起きた。
その人は財務の知識を十分に持っており、決して初心者ではない。それでも、内容を把握するまでの時間は私のほうが短かった。私は普段から財務諸表を読み慣れているため、当然といえば当然である。
しかし、この経験によって、「頭の回転が速い人なら、どんな分野でも速く考えられるはずだ」という自分の前提が崩れた。
同じコースを速く走っているわけではない
私はそれまで、考える速さを走る速さのように捉えていた。
足が速い人は、多少コースが変わっても、基本的には他の人より早くゴールへ着く。同じように、頭の回転が速い人は、どんな問題でも高速に思考し、他人より先に答えへ到達するのだと思っていた。
議論をしているときも、相手は自分と同じコースを、はるかに速い速度で走っているように見えていた。
しかし、実際には違った。
その人は、自分の仕事に関係する領域では圧倒的に速い。一方で、経験の少ないテーマや、知識が十分に整理されていない領域では、必ずしも速くない。
つまり、同じコースを速く走っていたのではない。
そもそも、私よりずっと短いコースを通っていたのである。
こちらが目の前の情報を一つずつ理解し、最初から考えている間に、その人は「これは以前のあの問題と同じ構造だ」と判断し、すでに知っている近道を使っていた。
速く走っているのではない。走る距離が短いのである。
チェスの名人は、より多く考えているわけではない
これはチェスの名人を考えると分かりやすい。
初心者がチェス盤を見ると、盤上にある一つひとつの駒を確認し、考えられる手を順番に検討する。
一方、名人は盤面を個別の駒の集合として見ていない。「これは典型的な攻撃の形だ」「この配置では王の守りが弱い」と、意味のある構造として捉えている。
だから、すべての可能性を一つずつ検討する必要がない。
名人は初心者より何倍も速く、すべての選択肢を計算しているわけではない。過去に見た膨大な局面をもとに、検討する価値のない選択肢を最初から捨て、考えるべき範囲を狭めている。
初心者が長いコースを走っている間に、名人は盤面を見た瞬間に近道を選んでいる。
仕事における「頭の回転の速さ」も同じである。
頭の回転が速い人は、その場で大量に考えているのではない。
過去にすでに考えているため、今この場で考えなければならない量が少ないのである。
頭の回転の速さは「累積思考量」で決まる
頭の回転の速さとは、脳の純粋な処理速度ではない。
その人が過去にどれだけ考えてきたかという累積思考量に大きく左右される。
ただし、ここでいう累積思考量は、本を何冊読んだか、情報をどれだけ知っているかというインプット量ではない。
情報を受け取るたびに、
「これは以前の何と似ているのか」
「表面的には違うが、共通する構造は何か」
「以前の考えは、今回にも適用できるのか」
「何が同じで、何が違うのか」
と考えてきた量である。
頭の回転が速い人は、経験や情報をそのまま保存しない。新しい情報に触れるたびに、すでに持っている思考との類似点や相違点を探している。
そして、新しい経験によって過去の考えを修正し、再び使える形に整理する。
つまり、思考は一つずつ独立して蓄積されるのではない。
新しい思考が加わるたびに、既存の思考との関係が組み替えられ、ストック全体が更新されていく。
だから、同じ本を読み、同じ会議に出て、同じ経験をしても、蓄積されるものは人によって大きく異なる。
ただ情報を受け取った人には、知識が一つ増える。
常に考えている人には、過去の思考と接続された新しい構造が一つ増える。
頭の回転の速さとは何か
実務における頭の回転の速さは、次の三つによって生まれる。
第一は、累積された思考の量である。
第二は、目の前の具体的な出来事から共通する構造を取り出し、過去の思考との類似性を見つける抽象化の技術である。
第三は、過去の思考を現在の状況に合わせて組み替え、具体的な答えに戻す具象化と再構成の技術である。
頭の回転が速い人は、目の前にある情報をすべて同じ重さで処理しない。
細かな情報を捨て、重要な要素を取り出し、問題を抽象的な構造に変換する。
たとえば、「ある社員が動いてくれない」という具体的な出来事を、その人の性格の問題として処理するのではなく、
「役割と権限が一致していない」
「評価制度が望ましい行動を促していない」
「本人と組織の利害が一致していない」
といった構造へ変換する。
すると、過去に経験した別の組織や、他社の事例、営業組織やプロダクト開発で考えたことが使えるようになる。
具体から抽象へ上がることで、別の領域にあるストックへアクセスできるのである。
過去の答えをそのまま使うわけではない
ただし、頭の回転が速い人は、過去の答えをそのまま現在へ当てはめているわけではない。
過去の成功事例を丸ごと適用するだけなら、それは思考ではなく模倣である。
目の前の状況は、過去と完全に同じではない。
顧客も違えば、組織も違う。事業の成長段階も、競争環境も、使える人員も違う。
だから必要なのは、過去の思考をそのまま取り出すことではない。
複数のストックをいったん分解し、目の前の状況に合わせて再構成することである。
たとえば、新しい事業が伸びないという問題を考えるとき、過去に考えた、
顧客課題の強さ
市場の大きさ
プロダクトの利用継続
営業チャネル
組織のインセンティブ
投資可能な時間と資金
といった複数のストックを呼び出す。
そのすべてを使うわけではない。今回の状況に必要な部分だけを取り出し、不要な部分は捨て、新しい因果関係として組み直す。
頭の回転が速い人の答えが、単なるフレームワークの適用に見えないのはこのためである。
既存のフレームワークを当てはめているのではない。複数の過去の思考を材料にして、その場に合った新しいフレームを作っている。
つまり、思考の流れはこうなる。
具体的な状況を抽象化する。
過去の複数の思考との類似点を見つける。
使える部分を分解して取り出す。
目の前の条件に合わせて再構成する。
具体的な答えとして戻す。
頭の回転が速い人は、この「具体から抽象へ、抽象から具体へ」という往復が速いのである。
なぜ経験年数だけでは速くならないのか
ここまで考えると、経験年数が長くても頭の回転が速くならない人がいる理由も分かる。
経験を、経験したまま保存しているからである。
十年間仕事をしていても、毎回の出来事を「今回はこうだった」という個別事例としてしか記憶していなければ、次の問題でも最初から考えることになる。
一方、経験年数が短くても、一つの出来事から共通構造を取り出し、過去の思考との関係を考える人は、急速にストックを増やしていく。
一つの失敗を、
「担当者との相性が悪かった」
と理解する人もいる。
一方で、
「役割と権限が一致していなかった」
「利害関係者のインセンティブを設計できていなかった」
「検証前に実行へ進んでしまった」
と分解する人もいる。
後者は、一つの失敗から複数の領域に使える思考を獲得する。
さらに別の経験をしたときには、「前回と今回に共通する原因は何か」と比較し、既存の考えを更新する。
経験の差ではない。
一つの経験から、どれだけ多くの再利用可能な思考を作れるかの差である。
頭の回転を速くするにはどうすればよいか
頭の回転を速くするために必要なのは、無理に即答することでも、思考の速度を上げようとすることでもない。
まず、考える量を増やすことである。
何かを経験したとき、情報を受け取ったとき、他人の意見を聞いたときに、そのまま流さない。
「これは以前の何と似ているのか」
「共通する構造は何か」
「以前の考えと矛盾する点は何か」
「どの条件で成立し、どの条件では成立しないのか」
「別の領域にも応用できるか」
と考える。
そして、考えたことを言語化し、過去の思考と接続する。
さらに、新しい問題に直面したら、過去の答えをそのまま使うのではなく、複数の思考を分解し、目の前の条件に合わせて再構成する。
この繰り返しによって、思考のストックは単に増えるのではなく、相互につながった構造として蓄積されていく。
その結果、新しい問題に直面しても、ゼロから考える必要がなくなる。
頭の回転を速くするとは、脳を高速化することではない。
過去に考えた量を増やし、今考えなければならない距離を短くすることである。
頭の回転が速い人は、同じコースを高速で走っているのではない。
コースを見た瞬間に、その構造を捉え、過去に蓄積した複数の近道を組み合わせ、その場に合った新しい道を作っているのである。
