「失敗は成功のもと」ではない
失敗しただけでは、何も学んでいない。
「失敗は成功のもと」という言葉がある。私は、この言葉はかなり無責任だと思っている。失敗しただけで成功に近づけるなら、同じミスを何度も繰り返す人はいない。
現実には、失敗の大半はそのまま忘れられるか、「次から気をつけます」という反省の言葉に変換されて終わる。失敗したという経験だけでは、次の行動は何も変わらない。
反省と学習は、まったく別物である
仕事でミスをすると、まず謝る。上司は「ちゃんと反省しているのか」と確認し、本人は「深く反省しています」と答える。これで問題が処理されたような空気になる。
しかし、反省と学習はまったく別物である。
反省とは、過去の自分を評価する行為だ。「詰めが甘かった」「責任感が足りなかった」と自分を責める。一方、学習とは、次の仕事の条件を変える行為である。
反省をいくら深めても、仕事の進め方が同じなら、次も同じ場所で失敗する。
私は、同じ失敗を繰り返す人は反省が足りないのではなく、反省しかしていないのだと思う。「もっと注意する」「早めに動く」「確認を徹底する」。これらは反省した気分にはなるが、何を変えるのかが決まっていない。
人間の注意力や意志の強さを当てにする対策は、ほぼ対策ではない。
人ではなく、失敗が起きた条件を見る
たとえば、月曜午前が締切の資料を午後に提出したとする。本人は「もっと早く着手すべきだった」と考えるかもしれない。
しかし実際には、必要なデータが金曜夕方まで届かなかった、確認者が決まっていなかった、修正時間を予定に入れていなかった、といった複数の要因があり得る。
この状況で本人に深く反省させても、データの受領時期も確認工程も変わらない。本人が翌月も同じ条件で働けば、同じ失敗が起きる可能性は高い。
失敗した人の性格を評価するより、失敗が起きた条件を見た方がよい。
失敗は教材ではなく、未処理のデータである
失敗は、それ自体では教材ではない。まだ処理されていないデータである。
何を目指していたのか。実際には何が起きたのか。その差を生んだ要因は何か。これらを確認し、原因を仮説として置く。そして次の仕事で条件を一つ変え、結果が変わったかを確認する。
ここまでやって初めて、失敗は学習材料になる。
重要なのは、過去の失敗について立派な説明を作ることではない。次の試行を変えることである。
失敗は自動的に学習へ変わらない
研究も、失敗が自動的に学習へ変わるわけではないことを示唆している。
Eskreis-WinklerとFishbachによる5実験、計1,674人の研究では、失敗を伝えられた参加者は、成功を伝えられた参加者より、その後の課題で学習しにくい傾向が報告された。
この研究には方法上の批判もあるため、「人は失敗から学べない」という一般法則とは言えない。それでも、失敗を経験すれば自然に学べる、と考えない方がよい。
一方、KeithとFreseによる24研究、計2,183人のメタ分析や、KeiserとArthurによる61研究、915チーム・計3,499人のメタ分析では、誤りを分析して次の試行へつなげる訓練や、構造化された振り返りに一定の効果が報告されている。
価値があるのは失敗そのものではない。失敗を次の試行へ接続する仕組みである。
日本の職場は、反省させて満足している
私は、日本の職場には、失敗した人を反省させることには熱心なのに、工程、権限、情報の流れを変えることには驚くほど無関心な組織が多いと思う。
謝らせる。注意する。「次から気をつけろ」と言う。そして終わる。
それは失敗から学んでいるのではない。失敗した人に反省させて、問題を管理した気になっているだけである。
もちろん、影響を与えた相手への謝罪や修復は必要だ。しかし、謝罪は責任を果たすための行為であり、再発を防ぐ仕組みではない。謝罪と学習は分けて考える必要がある。
成功のもとになるのは、次の条件を変えること
失敗は成功のもとではない。反省も成功のもとではない。
事実を確認する。期待との差を明らかにする。原因を仮説にする。次に変える一点を決める。そして結果を再検証する。
この五つを行って初めて、失敗は次の成功に使える情報になる。
失敗した人が成長するのではない。失敗の後に、次の条件を変えた人が成長するのである。
