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Bozarで出会ったベルリンデ・デ・ブリュッケル──馬と身体の暴力表現

この記事を読んでわかること
・ベルギー・ブリュッセルの文化複合施設「Bozar」の建築的背景と魅力
・現代美術家ベルリンデ・デ・ブリュッケレの代表作と「生と死」の表現
・ダミアン・ハーストやクリスチャン・ボルタンスキーとの比較を通じた位置付け
・公共建築で体験することで作品に付与される「社会的文脈」の意味

ブリュッセルで出会った現代美術作品について考察です

1. はじめに:Bozarという場所に立つということ

ブリュッセル滞在2日目。ブリュッセルの大型美術館を巡ろうと計画していました。マグリット美術館や王立美術館など、中心部には文化施設がぎゅっと凝縮しています。その中でも最も行ってみたかった場所が「Bozar(Centre for Fine Arts)」でした。

Bozarの外観 - ベルリンデ・デ・ブリュッケレの展覧会がフォーカスされている

1928年に開館したこの施設は、ベルギーを代表する建築家ヴィクトル・ホルタが設計したものです。アール・ヌーヴォーの巨匠として知られるホルタが、アールデコ様式へ移行していく過程で生み出した重要な建築であり、外観からも当時の「新しい時代の空気」を感じ取ることができました。

Bozarの魅力は、美術館だけでなくコンサートホールや映画館を併設した複合文化施設である点です。僕自身にとっても「観光地を訪れる」というより「文化の中枢に触れる」ような気持ちで足を運びました。観光都市ブリュッセルのイメージの奥にある、より深い文化的な核を見てみたい。その思いもあり、この日Bozarを訪れることにしました。


2. 展示体験:ベルリンデ・デ・ブリュッケレの馬との遭遇

Bozarでの目当ては、現代美術家 ベルリンデ・デ・ブリュッケレ(Berlinde De Bruyckere) の展示でした。館内に入ると、まず圧倒的なスケールで立ち現れたのは「馬」のイメージです。巨大な立体作品に表象された馬──暴力、傷、緊張が絡み合い、荒々しい質感と深い陰影が空間全体に広がっていました。

デ・ブリュッケレは長年「暴力」「身体」「ジェンダー」を主題に制作を続けてきた作家です。馬という古典的なモチーフを選びながらも、それを単なる動物表象に留めない。そこには人間の歴史、戦争、権力、そして制度としての暴力が刻み込まれているように思えました。

展示室に入った瞬間の第一印象は「迫力」でした。表現は荒々しいのに、構成全体は緊密で均衡が保たれています。馬の筋肉や眼光が緊張感を孕み、同時に観客を見返してくる。絵画や写真ではなく、立体であるがゆえの「生々しい身体感覚」が立ち現れていました。


3. 実物作品との対峙:馬の身体をめぐって

《Lost I》(2006)

展示の最初で出会ったのは、《Lost I》(2006)という作品でした。逆さ吊りにされた馬の身体が鉄のフレームに括りつけられている。素材は「馬の皮と毛、鉄、縄、エポキシ」。僕は立ち尽くしました。

この作品を見て僕は、ダミアン・ハーストのホルマリン漬けのサメを思い起こしました。しかし、それと決定的に異なるのは「肉体の重さ」をむき出しにしている点です。ハーストが科学的・標本的に死を提示するのに対し、デ・ブリュッケレは死の生々しさを「吊られた肉体の質感」として観客に突きつけてきます。僕はここで、死が「遠いもの」ではなく「触れてしまいそうな現実」として立ち上がってくる感覚を受けました。


《Lost V》(2021–2022)

次の部屋に横たわっていたのは、《Lost V》(2021–2022)。仔馬の身体が大理石と布の上にぐったりと置かれている作品です。手足の細さや体の曲がり方が痛々しいほどリアルで、言葉にならない気持ちが湧き上がってきたことを書いていて、今思い出しました。

この沈黙には、クリスチャン・ボルタンスキーの作品に漂う「死の気配」を想起させました。ボルタンスキーは遺品や記録を並べることで「死者の不在」を可視化しましたが、デ・ブリュッケレはそれを生々しい身体に託しています。死そのものよりも「死に触れる直前の時間」を表現しているのです。


《Into One-another I, to P.P.P.》(2010–2011)

さらに進むと、《Into One-another I, to P.P.P.》(2010–2011)が現れました。蝋で作られた人間の肉体がガラスケースに収められ、崩れかけながらも重なり合っている。血色の残る肌の色が生々しく、僕は嫌悪と同時に「人は最終的には素材に還るのだ」ということを考えました。

ここでもやはり、ハーストとボルタンスキーの二人が頭をよぎりました。ハーストは死を「標本化」し、ボルタンスキーは死を「記録化」した。対してデ・ブリュッケレは死を「肉体そのもの」として突きつけてきます。


4. 批評的視点:ハーストとボルタンスキーの間で

上記のように僕はこの展示を見ながら、ダミアン・ハーストとクリスチャン・ボルタンスキーという二人の現代美術家を何度も思い浮かべました。

ハーストのサメが象徴するのは「制度化された死」。科学や標本、ショーケースによって、死は「展示可能なもの」として提示されます。
一方、ボルタンスキーが示すのは「不在の死」。衣服や遺品といった匿名の痕跡を通して、私たちは「誰かが確かに生きていた」という気配に触れることになります。

デ・ブリュッケレは、この二人の間に位置しているように感じました。彼女の馬は「標本」でもなく「記録」でもない。触れてしまいそうな「肉体そのもの」として、死と生の境界を観客に突きつけてきます。

5. 他の美術家との共通点と差異

ダミアン・ハーストやボルタンスキーとの比較だけではなく、デ・ブリュッケレの作品は他の現代美術家との関連性の中で理解するとさらに面白いと思います。

思い出したのはルイーズ・ブルジョワです。ブルジョワは「身体」「ジェンダー」「トラウマ」をテーマに、彫刻やインスタレーションで「母性的なもの」と「暴力的なもの」の二面性を表現しています。デ・ブリュッケレの馬にも、暴力と同時にどこか母性的な守護のようなエネルギーが宿っていました。

※ブルジョワは昨冬から今年初旬にかけて六本木森美術館にて回顧展が開催されていました。

次に、マリーナ・アブラモヴィッチのパフォーマンス作品について連想しました。アブラモヴィッチは自らの身体を極限まで追い込み、暴力や痛みを「儀式」として提示しました。デ・ブリュッケレは「痛みの共有」を観客に強いる構造を持っています。絵画の中で身体が解体され、同時に再構成されていく様は、まさにパフォーマンス的な「時間性」を孕んでいました。

また近年の作家──例えばヤン・ファーブル(同じベルギー人作家)との関連性も無視できません。ファーブルが昆虫や動物の死骸を用いて「死と美の境界」を探ったように、デ・ブリュッケレもまた馬を通じて「死の美」を描き出しています。


6. 生と死の境界について考える

作品を前にして、僕は自分自身の死生観を考えずにはいられませんでした。いち個人で名もなき僕が、人間の「生きる意味」を壮大に語ることは、とてもじゃありませんが、できません。しかし、僕にとって大切なのは、自分らしい自由を確保し、日々を謳歌することだと思っています。

死を前にして残るものは、肩書きでも実績でもありません。「自分の人生を楽しめたかどうか」──それが唯一の指標になるはずです。吊られた馬、横たわる仔馬、融解する蝋の身体。それらはすべて「死は生の中に潜んでいる」という当たり前の事実を思い出させてくれました。

だからこそ僕は、日常の中で小さな自由を選び取り、自分なりの幸福を大切にして生きていきたいとこの作品を鑑賞しながら、そして鑑賞後にこうして気持ち=感じたことを整理することで気が付かせてもらえています。


7. Bozarという文脈で観る意味

最後に、この作品を「Bozar」という場で見た意味を考えました。もしこれが小さなギャラリーだったなら、作品の迫力はあっても社会的な文脈は弱まっていたのではないか。

ヴィクトル・ホルタが設計したブリュッセルの中でも有数のアールデコ建築という公共性の象徴の中で展示された作品だからこそ、デ・ブリュッケレの作品は「芸術の公共性」と「死の普遍性」を結びつけていたのだと感じました。古典と現代、制度と身体、公共と個人──それらが交錯する場として、Bozarは機能していました。

ホルタによるこの建築は、アール・ヌーヴォーの有機的な曲線からアール・デコの幾何学性へと移行した過渡期の姿を色濃く残しています。緩やかに続く階段、光を柔らかく取り込む天窓、石材と鉄の組み合わせが生むリズム。それらは観客を単なる「展示空間」ではなく「都市の中の文化的広場」へと導きました。Bozarの内部は展示室が迷路のように入り組んでおり、観客は一方向的に進むのではなく、交差し、迂回し、ときに立ち止まる。その導線の設計自体が、芸術体験を「公共の行為」として構成しているように思えるのです。

さらに、Bozarは王立美術館やマグリット美術館に隣接し、街区そのものが巨大な「文化複合体」となっています。つまり、ここで作品を鑑賞することは、都市の歴史や政治と切り離せない。第一次世界大戦後の混乱期に建てられたこの建物が「芸術は社会を再編する公共財である」と宣言していたことを思えば、デ・ブリュッケレの「死の表象」がここで展示されていることは必然にすら感じられました。

ガラス天井から漏れる自然光は、デ・ブリュッケレの作品に時間の移ろいを与えていました。吊るされた馬の身体や横たわる仔馬が、朝の光と午後の光でまったく異なる表情を見せる。その光の変化をも内包して作品が呼吸している。これは白い箱のギャラリーでは得られない体験でした。

Bozarは単なる美術館ではなく「建築そのものが作品を媒介する装置」なのです。その装置に身を置いたとき、デ・ブリュッケレの作品は個人的な死の表象を超え、都市的・社会的な文脈へと拡張されていきました。死は個人に属するものですが、同時に社会全体が引き受けるべき普遍的な現実である。その二重性を、このアールデコ建築の内部で痛烈に感じたのです。


8.終わりに

ベルリンデ・デ・ブリュッケレの馬は、単なる動物表象ではありませんでした。それは「身体」「暴力」「生と死」という人間の根源的テーマを射程に収める強度を持っていたのです。そして、その作品をBozarという「公共の文化磁場」で観ることで、僕は「芸術の公共性」と「死の公共性」を同時に体感しました。

旅先の偶然の出会いが、ここまで深い思索を引き出すことがある。観光名所の明るい表層から外れたところに、文化の核は潜んでいる。ブリュッセルのBozarでの体験は、まさにそうした「核」に触れた瞬間でした。

だからこそ、この連載では「文化の核」を探す旅の記録を続けていきます。次回は、ブリュッセルに点在する美術館をまとめて振り返ります。

📌 次回予告

📸 ベルギー美術館めぐり|マグリット再発見とヤン・ファーブル
国立美術館~マグリット美術館~Bozar周辺建築~BELvueまでを巡った体験を「ベルギー美術館旅行記」として綴ります。

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Profile

イタクラタツキ/板倉龍城
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現代美術、建築、音楽、ファッション──カルチャーの領域を横断しながら活動するスタイリストです。大学・大学院では建築を学び、現在は東京と大阪を拠点に、広告やファッションを中心に活動しながら、アートディレクションや企画、キャスティングも手がけています。

noteでは、日々の仕事で触れてきた“視覚文化の現場感覚”をもとに、都市やアート、ストリートカルチャーを記録しています。

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