File.004『癖の強いクライアント』調査続行編(張り込み)
前回までのあらすじ
探偵事務所を訪れた、どこか癖の強い中年男・桜井。
依頼は、27歳の妻・和美の行動調査だった。
調査を始めると、和美は一人の男と食事をするものの、そのまま帰宅。不貞の事実は確認できなかった。
ところが桜井は、翌日の夜まで調査を続けてほしいと言い出し、自ら張り込みに加わる。
そして、雨の車内で偶然見つけた桜井の運転免許証。
そこに記されていた有効期限は、
2052年。
俺は偽造免許だと笑い飛ばした。
だが桜井は、笑わなかった。
そして彼は、調査を始める前から妙なことを言っていた。
「神代野原川の近くでは、絶対に張り込まないでください」
その夜から、雨は降り続いていた。
(この物語はフィクションであり、迷探偵マツの勝手な憶測である。本記事を第三者に漏らしたことにより生じたトラブル、侮辱、名誉毀損、その他もろもろの苦情・損害賠償請求については、コメント欄にて承ります)
File.004『癖の強いクライアント』調査続行編(張り込み)
雨の朝
翌朝。俺は車内で、目を覚ました。
「うううぅうん(さくらいさん)……」
……しまった。
口閉じテープをしたままだった。

助手席を見ると、桜井さんはシートに座ったまま、ぼんやりと雨の向こうを眺めていた。
俺は、口閉じテープを剥がして、声をかけた。
「すいません。いびき、うるさかったでしょ?」
「いえいえ。私の方が全然凄いですよ」
「いや、あんた一睡もしてないでしょ」
「……バレました?」
「比較できねぇじゃねぇか」
桜井さんは「ハハハ」と笑った。
どうやら、一晩中起きていたらしい。
俺は身体を伸ばしながらフロントガラスの向こうを見た。
雨は止んでいなかった。
いや。
昨夜より、明らかに強くなっている。
道路を走る車が、大きな水しぶきを上げて通り過ぎていく。
「ありがとうございました。後は任せてください。俺一人で大丈夫ですから」
そう言うと、桜井さんは首を横に振った。
「マツさん。俺も付き合います」
「え?」
「心配なんですよ。居ても立ってもいられない」
「いやいや……参ったな」
「仕事も大丈夫です。それに……」
桜井さんは一瞬、言葉を止めた。
「最初から、今日はこうさせてもらうつもりでした」
「最初から?」
「ええ」
いつもの冗談っぽい笑顔はなかった。
その目は、和美さんのアパートだけを見ていた。
「……分かりましたよ。じゃあ、せめて仮眠してください。倒れられたら俺の責任になる」
「そうですね」
桜井さんは車内の時計を確認した。
午前7時過ぎ。
「じゃあ、お言葉に甘えて。お昼くらいに起こしてください」
「昼まで寝るんですか?」
「ええ。まだ時間は大丈夫そうですから」
「…………?」
まだ時間は大丈夫?
何の時間だよ。
「じゃあ、おやすみなさい」
桜井さんは何事もなかったようにシートを倒した。
数分もしないうちに寝息が聞こえてきた。
……寝付きいいな、このおっさん。
俺は缶コーヒーを開け、もう一度アパートを見た。
和美さんに動きはない。
車も昨夜から同じ場所に停まっている。
ただ。
雨だけが、降り続いていた。
止まない雨
午前9時。
雨脚はさらに強くなった。
ワイパーを最速にしても、フロントガラスの向こうが霞んで見える。
スマホで天気予報を確認する。
画面には、この地域を覆うように赤や紫の雨雲が表示されていた。
「こりゃあ……線状降水帯ってやつじゃねぇのか?」
思わず独り言が漏れた。
ニュースを確認すると、近隣地域には大雨警報。
河川の増水にも注意しろと出ている。
俺は何気なく助手席を見た。
桜井さんは寝ている。
面談の時、事務所で言われた言葉が頭をよぎった。
『神代野原川の近くでは、絶対に張り込まないでください』
あの時は、妙なことを言うおっさんだと思った。
でも……
偶然か?
天気予報でも見ていたのか?
二日前から、こんなピンポイントで川の名前まで指定するか?
俺は眠っている桜井さんを見た。
そして、昨夜見てしまった免許証を思い出す。
【有効期限 2052年◯月◯日まで】
「…………」
いやいや。
あれは偽造だ。
そうに決まってる。
いい歳したおっさんが、何の目的であんなものを作ったのかは知らねぇが……
しかし、昨日の「偽物じゃありません」と言った桜井さんの真剣な顔…
俺は缶コーヒーを口に運んだ。
その時。
Galaxyが鳴った。
大雨に関する防災情報だった。
「…………」
なんとなく、コーヒーがまずくなった。

深まる疑惑
午前11時過ぎ。
ラジオから、神代野原川流域の水位が上昇しているという情報が流れた。
俺は音量を上げた。
側溝から水が溢れ始めている。
道路の低い場所には、すでに大きな水溜まりができていた。
さすがに調査どころじゃなくなってきたな……
そして、眠っている桜井さんを見た。
川には近づくな。
2052年の免許証。
……待てよ。
昨夜は日付に気を取られていたが、あの免許証、上の方に穴が開いてなかったか?
確か、二つ。
「…………」

免許証を更新した時、古い免許証には穴を開けられる。
……待て待て。
だいたい、2052年までって、それだけで偽装バレるだろ?
しかも、偽物なら、わざわざ穴まで開ける意味があるのか?
「いやいやいや……だけど、そんなことって……」
そんな馬鹿な話があるか。
午後0時。
「桜井さん。起きてください。昼ですよ」
「……う……ああ……」
桜井さんは目を開けると、ゆっくり身体を起こした。
「よく寝た……」
「桜井さん」
「はい?」
「昨日の免許証、もう一回見せてもらえます?」
桜井さんの顔から、眠気が消えた。
「……どうしてです?」
「穴、開いてましたよね」
「…………」
「それだけじゃない。川です。あんた、この雨を知ってたんじゃないですか?」
「…………」
「桜井さん。あんた、何隠してるんです?」
「考えすぎですよ、マツさん」
桜井さんは笑った。
でも、俺には分かった。
今の笑いは、今までで一番下手だった。
午後1時。
雨はさらに激しくなった。
俺はエンジンをかけたまま、いつでも移動できるようにしていた。
和美さんの部屋には、まだ動きがない。
「桜井さん」
「はい」
「これ以上酷くなったら、調査中止しますよ」
「いや、それは困る……。何としても真相を……」
「俺たちまで避難できなくなったら洒落にならない」
「分かっています」
「だったら……」
「すみません、マツさん。……信じて下さい。私の指示通り動けば大丈夫です」
さっきまでの軽い口調ではなかった。
「おい、信じろったって……」
「…………」
確信の警報音
午後2時過ぎ。
突然、Galaxyからけたたましい警報音が鳴った。
同時にラジオ番組も中断された。
『緊急情報です』
俺は反射的に音量を上げた。
『神代野原川が氾濫危険水位を超えました。〇〇地区に避難指示が発令されています。対象地域の住民の方は、速やかに安全な場所へ避難してください』
「…………」
Galaxyの画面を見る。
【緊急速報】
〇〇地区 避難指示
神代野原川 氾濫危険水位

俺は助手席の桜井さんを見た。
彼はじっと時計を見ていた。
驚いてもいなかった。
「……桜井さん」
「はい」
「あんた……」
もう、偶然じゃない。
俺は桜井さんの横顔を見た。
「あんた……ほんとに……」
桜井さんは答えなかった。
ただ、車の時計から目を離さない。
そして、小さく眉をひそめた。
「……ちょっと早いな」
「あぁ……?」
今度は、聞き間違いじゃない。
俺は助手席の男を見た。
桜井さんは、もう笑っていなかった。
そして俺も、笑えなかった。

──File.004 調査継続…
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