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<数息観瞑想 日誌>2025年度版(32)

<数息観瞑想 日誌>2025年度版(32)

動画版 https://youtu.be/75R1sPLW2f8

~瞑想と般若心経の日々~

10月分

2025-10-25(土)小雨、曇り、肌寒い、朝の室温18度。

自宅瞑想、7:00-7:25、(椅子)端座位数息100回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

ここのところ、就寝時間が遅くなっている。昨晩も寝たのは、夜の十一時過ぎだった。そのせいか、起きる時間も遅くなった。定時起床は、午前五時半だが、今朝なども、六時半過ぎまで寝ていた。

寝るのが、一時間遅くなったので、起きるのが一時間遅くなった。身体が、その辺の調整を、自動的にしているらしい。ありがたいことだ。もっとも、寝る時間が遅くなったのは、昼寝の時間が遅くなったからで、一方、起きる時間が遅くなったのは、定時起床の五時半が、まだ暗い、という理由がある。暗いうちに起きるのは、どこかへ出かけるときくらいで、長い人生の間、ほとんどは、外が明るくなってから、起き出しているのだ。

とはいえ、日課だった<午前五時半起床、午後十時就寝>が、決断もしないまま、<午前六時半起床、午後十一時就寝>になってしまったのには、ほかにも理由がありそうだ。

十月の半ばになると、夏場に比べて、日の出も日の入りも、一時間ほど、遅くなったり、早まったりしている。よく理解できないが、地球の<地軸の傾き>や<動き方>が影響しているらしい。

べつに、日常生活に支障がないのだから、就寝も起床も、このままでいい。が、ふと思った。<暗くなったら寝て、明るくなったら起きる>という習慣が、人類の<DNA>に刻印されている。それが地球規模の事象と関連しているのだ、と。

自分の体の中に、そのような<類の記憶>が、確実にある。それが、<知性>とか<知恵>の源泉だと思う。そういう意味では、自分をも含めて人間という生き物は、たいしたものだと思う。

さ、<数息>を始めよう。

2025-10-26(日)小雨、曇り、朝の室温17度。

自宅瞑想、7:30-8:00、(椅子)端座位数息100回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

はじめは、深く大きく呼吸しながら、しっかり、数を数えていた。が、50回目を過ぎたあたりから、<雑念>が優勢になってきた。日常生活関連のことで、きょうあたしの予定とか、最近熱中しているパソコン設定のことなどが、頭の中を占領し始めた。

かなり前からのことだが、サイトの、ポップ画面や広告が煩わしかった。今回、我慢の限界を超えたのは、とくに、<フェイスブック>で、友達の記事が、広告に埋もれて見えなくなっている。ちょっと前までは、これほどひどくはなかった。

そこで、ユーチューブで、広告を削除すべく、パソコンの設定変更を調べてみた。すると、いろいろなことがわかってきた。<マイクロソフト>や<グーグル>が、個人のパソコンの使用状況を、勝手に収集していたのだ。

ユーチューブのコンテンツを、全面的に信用するわけにはいかないが、少なくとも、それらの企業に、情報を抜き取られているのは、確かなようだ。画面に従って、<広告表示>や<セキュリティー>に関する初期設定を、変更した。

結果としては、今のところ、かなりの部分、ホップ画面は消え、フェイスブックに関しては、劇的に<広告>が減って、見やすくなった。とはいえ、ほかのサイトには、まだ、煩わしい広告がある。それらは、<adblock>などの、<広告ブロックアプリ>をインストールする必要があるらしい。が、ちょっと調べた範囲では、不具合を起こす可能性もあるようなので、もう少し調べてからにすることにした。

とりあえずは、一件落着だが、それにしても、と腹の虫がおさまらない。こちらの<無知>に付け込んで、情報を操作されていたのだ。その一番いい例が<サードパーティー・クッキー>というやつだ。前から、名前は知っていたが、どういう意味なのか、全然わからなかった。今回その仕組みが、多少わかったので、なぜ、どのサイトにも、同じような広告が出てくるのかが、理解できた。むろん、<許可しない>と設定を変更した。

ほかにも、こちらの知らないところで、というか、陰に隠れて、いろいろな悪事が行われているらしい。パソコンなど、使わなければいい。だが、もはや、そうもいかない。相手は、<そうもいかない>状況を作り出して、一気に、収奪、支配するつもりなのだ。

おもえば、これと同じようなことが、二十世紀の日本でも行われていた。その主体は国家権力だったが、二十一世紀には、いわゆる、無国籍企業の<GAFAM>が、それにとってかわった。<情報操作>という、古くて新しい人間支配の方法を駆使して、彼らは、いったい、どこへ向かっているのだろう?そら恐ろしいかぎりだ。

パソコンのことを、あまりに知らなすぎた。いまからでも遅くない。少し、まじめに勉強してみようと思った。

<数息>の最中に、いつもなら心が静まって行くのに、血圧が上がってしまい、気持ちが波立っている。キリのいい100回目で、数息を終了した。

2025-10-27(月)久しぶりに晴れた。朝の室温20度。

自宅瞑想、7:30-8:00、(椅子)端座位数息100回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

深く大きく呼吸しながら、息の出入りに合わせて、ゆっくり、数を数えた。<雑念>も出ていたが、日常生活関連のことで、とくに、気を取られることもなかった。

久しぶりに、数えている<数>の<数字>を、頭の中に思い浮かべて、その<数字>を言っている自分の声に、耳をすませた。<数息観瞑想>の基本に戻ったわけだ。

この<作業>には、多少の努力が必要だ。が、ほとんど努力しなかったので、継続的に、というよりは、断続的に、なってしまった。とはいえ、しだいしだいに、心が落ち着いていった。

そうそう、今朝は、始めの心経を、鼻の上あたりに響かせるような感じで読んだ。こうすると、咽喉への負担が明らかに減る。それに、なんだか、活舌がよくなったような気がした。舌と唇が、かなりスムーズに動くし、自然に、声に高低がついている。普段話している時と、同じような発語方法だと思った。

部屋の中だ。大きな声を出す必要はないのだから、この、努力がほとんどいらない発語方法は、これからも、使えるかもしれない。もう少し続けてみよう。

100回を数え終えた。締めの心経は、始めの心経と同様、鼻の上に、声が抜けていくような感じで読んだ。活舌がよくなり、音域が広がっているので、言葉を自在に発語できる。いわば、即興的に、これまでの<テンポ・リズム・抑揚>を変化させている。

大袈裟だが、<いまを生きる>とは、かようなことではなかろうか?すくなくとも、不安や恐怖は感じなかった。それに、既定の時空間の中にいることを忘れていた。<生きられた時間>だ。いま思えば、充足していたのだ。

2025-10-28(火)晴れ、朝の室温19度。

自宅瞑想、6:20-7:05、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

息の出入りに合わせて、数を数え続けた。

ときどき、<雑念>が優勢になったときもあるが、数を失念することはなかった。<雑念>は、おもには、昨晩見た夢のことや、長期バイトしていた官庁の喫茶室で出会った人たちのことだ。

SZ主任やMSさん、のちに、主任と結婚したKT さん、背の高い美人のSOちゃん、ホールの責任者だった仕事のできるOHさん、などなど、彼ら、彼女たちの顔や姿、出来事などが、思い浮かんでいた。50年も前のことだが、恐ろしいほど、鮮明だった。

それと、夜中に見た夢は、不安夢の系統で、迷路に迷い込むという、お馴染みの主題だった。

カメラ会社の倉庫へ、忍び込もうとしている。脚立を使って、建物の天窓から、侵入を試みている。が、社員たちの姿が見える。こちらへ向かってくる。やばいと思って、逃げる。

が、なぜか、自分だけ、倉庫内にとり残されてしまう。焦って、出口を探すが、どこにもない。倉庫内は迷路になっていて、そのうち、どん詰まりだ。進退窮まる。じっと、隠れている。だが、そのうち、社員たちに見つかってしまう。

朝方には、少年とサッカーの練習をしている夢を見た。広いグラウンドで、一対一で、ボールを蹴りあっている。走り回っているので、息が苦しい。それでも頑張って、練習を続ける。

おそらく、どちらの夢の中でも、血圧が上がっていたのだろう。ドキドキしているのが、自分でもよくわかった。夢の現実感、真実味には、身体的な根拠があるのだ、と思った。

100回目をすぎた。座面の圧迫感は、まったくといっていいほど、気にならなかった。端座位の保持にも、疲労感がまったくなかった。体調がいいのかもしれない。そのまま、数を数え続けた。

とはいえ、180回目前後で、やや<飽き>がきた。一瞬、やめようかと思った。が、気力が勝り、200回まで、数を数えた。

今朝は、静かだ。外の物音も聞こえない。<数息><心経><ストレッチ><メモ書き>、既定のノルマをちゃんと果たした。これから、今日、一日が始まる。最高のスタートが切れた。

2025-10-29(水)晴れ、朝の室温、18度。

自宅瞑想、6:40-7:15、(椅子)端座位数息150回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

はじめから終わりまで、数を数え続けた。とはいえ、背景に、<雑念>が、ずっと流れていた。

<大腸ポリープ切除>の際、狭心症の治療で飲んでいる、血液サラサラの薬を休薬しなければならない。<リスク>がある。血栓ができて<脳梗塞>になる可能性がある。考えると不安になるので、なるべく、考えないようにしていた。

が、明日、休薬の許可をもらいに<カテーテル手術>の担当医のところへ行く。否応なく、いやなことが、思い浮かんできたのには、理由があったのだ。

それと、昨晩は、<不安夢>をいくつか見た。数息の後半には、この夢のことを思い返していた。

ひとつめのイメージ。電気店の配達をしている。新しい、大きなマンションの前で、ほかの業者が、右往左往している。自分は、このマンションへの配達はない。ホッとしている。

ふたつめのイメージ。道路が工事中で、片側通行になっている。だが、無謀にも、路肩を走って、突破しようとする。対向車が、ビュンビュン横を通って行く。そのうち、路肩が切れる。これ以上行けば、正面衝突だ。仕方なく、危険を承知で、道路上でUターンする。

みっつめのイメージ。わき道に入る。工事現場の中で、とんでもない悪路だ。路面に、釘なども散乱している。タイヤがパンクしやしないか、不安になる。

よっつめのイメージ。車を止めて、ファンヒーターの燃料タンクから、灯油を、ポリ缶の中へ移している。うまくいかなくて、びちゃびちゃ、その辺にたくさんこぼしている。

あといくつかあったが、今となっては、よく思い出せない。

心の奥にしまい込んでいた<不安>が、また、頭をもたげてきたのかもしれない。不安な雑念、不安な夢は、<現存在>の在り様を反映しているのだ。

しかし、これらの夢を、不安に席巻されることなく<強くあれ>、という<啓示>として、受け取ることもできる。おおげさだが、<運命>と対峙する<覚悟>を持つことだ。くよくよ思い悩むのはやめよう。事態が、悪化する可能性は、それほど高くはないのだ。

数を数え終えた。締めの心経を読み、合掌した。

2025-10-30(木)晴れ、朝の室温、15度。

自宅瞑想、7:00-7:50、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

息の出入りに合わせて、始めから終わりまで、数を数えていた、と思う。

が、前半は、やや<雑念>が優勢だった。おもには、病気関連のことで、胸の息苦しさがないかどうか、体感に注意が向かったりしていた。これまでの、狭心症の症状なども思い返していた。

後半になると、<雑念>は、かなり弱まってきて、やや、ぼうっとしてきた。180回目前後では、一瞬、ウトウトっとして、数を失念した。それでも、そのあと、数を数えることに、少し努力して、200回を、数え終えた。

合掌し、心経を読み、また合掌した。そして、ガウンを着たまま、ゆるゆるとストレッチを始めた。体がほぐれていく感じが、心地よかった。

2025-10-31(金)曇り、朝の室温、17度。

自宅瞑想、6:20-7:10、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ10分、メモ書き。

椅子に座り、端座位で、数を数え始めた。ガウンを着て、こたつに入っていたが、背中が冷える。50回目くらいで、立ち上がって、タオルケットを腰に巻いた。多少、暖かくなった。

いちおう、そのあとも、数は数え続けていたが、<雑念>の中を漂っていた。内容的には、病気関連のことが多かった。

ふと、<数息>のメモ書きに懐疑的になった。経過報告など、自分が読み返しても面白くない。しかも、それを公開しているのだから、他人の目に触れる可能性すらある。自分ですら退屈なものを、マジな話、他人に読んでもらおうとは思わない。それほど、傲慢ではない。

たしかに、日誌をつけ、公開することが、<数息>を継続する力になっていた時期もあった。が、いまや、日誌をつけても、つけなくても、それを公開しても、しなくても、<数息>を継続することはできるような気がする。

とはいえ、両方とも<しない>という選択をすると、なんとなく<さびしい>感じがする。日誌をつけるという行為は、自分と向き合う行為でもある。むろん、<数息>という行為もおなじだが、そこには、実践と思索という違いがある。

<思索>とは、いわば<フィードバック>だ。自分のことを自分や他人に報告することだ。<報告>することで、<思索>することで、<実践>の<質>を高めることができる、と信じている。

<不立文字>という言葉が、禅にある。深い意味合いは、理解していない。が、感覚的に、この言葉が意味するところは、わかるような気がする。<人間>との決別を意思した、確固たる決意だ。

自分は、おそらく、死ぬまで、いや、死んだ後も、到底、この境地には達しえないだろう。最期の最後まで、くどくどくどくど、思い悩み、意味のない言葉を発し続けているだろう。それで、いいと思っている。それが俺の流儀だ、と開き直っている。

話を戻そう。やはり、意味のないことではあるが、メモ書きは続けよう。<報告>しろと、だれかが言っているのだ。

200回を数え終えた。締めの心経を読み、ストレッチのあとに、今朝も、メモ書きを書いた。ノートの上の文字が踊っている。それと同じように、頭の中でも、言葉が踊っていた。

11月分

2025-11-1(土)曇り、朝の室温、18度。

自宅瞑想、6:40-7:30、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

数えはじめて、すぐに、数を失念した。日常生活関連の<雑念>が優勢だ。そのあとも、脈絡なく、次々に、思い浮かんできて、頭の中を占拠していた。

おもには、温浴施設でよく見かける爺たちや、昔、学童保育で知り合った家族たちだ。そのなかで、とくに、TRという、いけ好かない男がいて、もう二度と顔など見たくないと思っていた。が、何十年か後に、施設のジムで見かけ、さらには、最近になって、温浴施設でも見かけた。はあ~、悪縁としか、いいようがない。

後半になっても、<雑念>は衰えず、いちおう、数は数え続けていたものの、瞑想状態には、一向に近づけなかった。ただ、座面の圧迫感は気にならず、端座位の保持も、大儀でなかった。ニュートラルな感じで、座り続けていたのだから、ま、けさのところは、<よし>としよう。

200回を数え終えた。締めの心経を読み、ゆるゆると、ストレッチを始めた。身体をほぐし、最後に、また、合掌した。

きょうは<土曜日>だ。土日になると、なんとなく、気持ちが緩む。昔は、土日なれば、学校は休み、仕事もしないで済んだ。そんな生活を長いことしていた。その<名残り>が、体のどこかに残っている。たまには、<郷愁>に浸るのも、いいものだ。

2025-11-2(日)晴れ、朝の室温18度、ファンヒーターをつける。

自宅瞑想、7:00-7:25、(椅子)端座位数息100回、般若心経2回、ストレッチ10分、メモ書き。

起床時に、<数息>をさぼろうと思った。が、決断できず、洗面を済ませて、椅子に座った。ノルマの半分、100回なら、あっという間だ。自分に言い聞かせた。

はじめの心経を読み終え、数を数え始めた。が、心構えがよくなかったのか、<数息>と<雑念>が、入り混じっている。散漫な気持ちではないが、クリアーな感じで、集中しているわけでもない。

<雑念>は、病気関連のことが、思い浮かんでいた。病院の待合室で、いかにも不健康そうな体つきの爺たちを、よく見かける。みな、あと五年もつかどうかといったところだ。少し先の自分の姿を見ているようで、やりきれない。

あとは、朝方見た<性夢>だ。上半身裸の、やせた女性に好意を示される。肌が浅黒くて、胸が小さい。少しムラムラして、押し入れの中にいざなう。だが、女性は、<やくざ>の愛人らしい。関係を持ったら、大変なことになる。怖くなり、<事に及ぶ>のを避ける。欲望が満たされない、不満足な夢だった。

お約束の、100回を数え終えた。そのあとの、締めの心経を読んでいる時、自分の声が、小さく聞こえた。先日来からの現象で、おもえば、最近になって、オーディオやテレビの音量を、少し上げている。

耳が遠くなったのかもしれない。そのうち、俺も、<補聴器>の世話になるかもしれない。次から次へと<健康不安>が、きりもない。確実に老いている。なんとかならんものなのか!<老い>を受け入れられないのだ。

2025-11-3(月)晴れ、朝の室温18度。ファンヒーターをつける。

自宅瞑想、6:50-7:35、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

はじめから終わりまで、数を数え続けていた。数を失念することはなかった。ただ、<雑念>も、ずっと出ていた。いろいろなことが、脈絡なく、現れては消え、消えては現れた。

やや停滞気味の創作活動のことや、きょうあしたの予定、女性との<秘め事>、そして、朝方見た夢、などなどだ。かなりバラエティーに富んでいた。

病気関連の、いやなことは、ひとつも思い浮かんでこなかった。座面の圧迫感も感じない。端座位の保持も負担ではなかった。気持ちも平静で、久しぶりに<数息>の時間が、楽しかった。

自分の外側に楽しみを見つける時代は過ぎ去り、自分の内側に楽しみを見つける時代になった。人生の<黄昏>だ。

200回を数え終えた。心経をしっかり読み終え、心をこめて、合掌した。

2025-11-4(火)晴れ、朝の室温、15度、肌寒い。ファンヒーターをつける。

自宅瞑想、6:50-7:35、(椅子)端座位数息200回、般若心経2回、ストレッチ15分、メモ書き。

いちおう、数は数え続けていた。が、<雑念>が優勢で、脈絡もなく、いろいろなことが思い浮かんでいた。外回りの掃除やきょうの予定、知人Z氏の奥さんのこと、<大腸ポリープ手術>のこと、それに、朝方見た夢のこと、などなどだ。気持ちが一向に静まらず、最後まで、瞑想状態に近づけなかった。

とくに、朝方見た夢は、不吉な感じが、しないでもないので、頭に残っていた。

大きな川の、工事中だった橋が完成した。この橋を渡れば、近道になる。なにか、両手に荷物を持って、渡り始める。対岸からも、人がぞろぞろ来る。ほとんどの人が、白い布でくるんだ骨壺を、首から下げている。

すんなり渡れると思っていたが、最後の最後で、道がなくなっている。崖にへばりついて、慎重に<カニ歩き>する。手に持っていた仏像の頭が、深い谷底へと落下する。出っ張っている岩に手をかけて、ひょいと向こう側に飛ぶ。ふと見ると、うしろに、婆さんがいる。婆さんには、この<芸当>?は無理だろうと思う。

なんとか渡りきる。狭い、寺の裏口だ。人の気配はしない。すぐ目の前に門があり、開いている。外に出る。商店街の道のようだが、人通りがない。いったいどこなのか、見当もつかない。

目が覚めた時、この夢は<あの世>の光景だ、と思った。不気味な感じがした。だが、すぐに、ちがう考えが出てきた。いや、困難を乗り越えて新しい世界に出たのだ。凶兆ではなく吉兆だ。

最近、病気関連のことで、やや<うつ>状態だった。しかし、昨日あたりから、また、創作活動に取り組む気力がわいてきた。何度も、あきらめかけた、<日本灯台紀行 旅日誌>四国編(1)の動画処理を完了して、ユーチューブなどにアップした。未稿の<北海道編><九州編><下北半島編>も、少しずつ書こうと思った。

夢の真意が、いかなるものかは、その人間の解釈による。不気味で不吉な夢を、目標や希望のある、生き生きとした<生>の予兆をはらんだ夢として、捉まえることもできる。楽観主義は、時と場合によっては、人間を幸福にすることも、できるのだ。

200回を数え終えた。<数息>の出来は良くなかったが、病気が治った後に感じる安堵感があった。心が軽くなっている。気持ちが明るい。この先も、ちゃんと生きて行けるだろう。


千葉県 犬吠埼灯台


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