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<秩父巡礼行>2025年度版(3)

<秩父巡礼行>2025年度版(3)

動画版 https://youtu.be/bEsBVm53VWw

~心の平安を求めて~

2025-6-5(木)晴天。五時起床、朝の支度、朝食。

6:45分に出発。さすがに、六時台だと、まだ、通勤の車が少ない。すいすい、30分ほどで、299号線に入る。あまりの晴天で、<調光メガネ>をかけているが、眩しい感じがする。

今朝は、先日に比べて、なぜか、大型ダンプが多い。とはいえ、その都度、少し左側に車を寄せて走っているので、恐怖心は、ほとんどない。

8:00頃に、芦ヶ久保の<道の駅>に到着する。マーキングよろしく、尿意はないが、トイレへ行く。そうそう、前回も、書くのを忘れたが、トイレの入口の上に、ツバメが巣を作っている。施設の人が大切に思って、張り紙などで、注意喚起している。

五月七日の<秩父巡礼行1>のときにも、ツバメが、トイレの入口付近を飛び回っていた。梁の端に巣があったが、ヒナの姿は見えなかった。それが、今日は、もう、親鳥くらいの大きさになって、一羽で、巣を占領している。

見ていると、もう一羽、同じくらいの大きさのが飛んできて、巣の端に止まった。巣の中には、入るスペースがない。それでも。つつき合って、喧嘩をするわけでもない。近くに、寄り添っている感じだ。なるほど、兄弟だ。兄か姉かは、判断しかねるが、先に巣立ちして、まだ、巣に残っている弟か妹かの様子を見に来たのだ。

ツバメは、産卵から二週間で羽化し、それから、三週間ほどで巣立ちするらしい。卵から、ほぼ一ヶ月で、親鳥と同じ大きさになるのだから、日数的には、ぴったりだ。

そして今、一番小さなヒナが、最後の一羽が、まさに、巣立ち寸前だ。と考えると、巣の端に止まったのは、親鳥だったのかもしれない。巣立ちを促しているのだ。とはいえ、見た目は、まったく同じなので、兄弟なのか、親子なのか、見分けがつかない。胸が茶色のツバメたちだった。

車に戻った。サンダルからスニーカーに履き替えた。ナビに、五番札所、語歌堂を指示して、駐車場をあとにした。長い坂を下って、羊山公園の交差点を、右折し、県道に入った。五、六分走り、ナビの指示に従い、また右折した。民家沿いの細い道だ。うねうね行くと、突如、住宅街の中に、古めかしい、朱色のお堂が見えた。秩父五番札所、語歌堂に到着した。

四十年ほど前、ここで、出演者二人の野外劇をやった。周りは民家で、無住寺だった。誰に断るもなく、公演してしまったが、終了後に、近所のおじさんに、<ひとこと言ってくれれば>と苦言を呈された。大きな声が、まわりじゅうに響き渡っていたのだ。

その時は、丁重に侘びを入れて、事なきを得た。たしかに、古典太平記の原文だから、聞き取りにくい台詞を、大声で、つばを飛ばしながら、怒鳴っているとしか見えない。かなり奇異な光景で、おじさんの言い分も、もっともだった。そんなこともあって、語歌堂での公演は、記憶に残っていたのだろう。

しかしながら、お堂の位置は、むろん、以前のままだが、周りの雰囲気が、すっかり変わっていた。駐車場などが整備され、すっきりした感じだ。境内も、きれいに砂利敷きされている。以前来た時は、たしか<土>だった。そこに<むしろ>を敷いて、演技したのだ。

あと、なによりも大きく変わった点は、お堂の屋根だ。立派な銅葺きになっている。あの時は、たしか、<茅葺>だったような気がするが、思い違いかも知れない。ただ、印象としては、田舎のお堂といった感じで、こんな立派な屋根ではなかった。それと、小振りながら、風格のある山門があった。この山門は、記憶からまったく欠落していた。

そうじて、観音堂も山門も、朱のはげ落ちた、古色蒼然たる佇まいで、存在感が、半端ない。だが、やはり、手入れをしているのだろう。どことなく、ちぐはぐな感じがした。

さてと、本堂右手から回り込んで、駐車場に入った。白衣を着て、輪袈裟と<デジイチ>を、首から下げた。道路際まで戻って、山門の前で、心経を読んだ。そのあと、両脇の仁王様を写真に撮ろうとしたが、鮮やかな緑色の格子で囲まれているので、中が見えにくい。それに、レンズが大きすぎて、格子の隙間に入らない。

そうだ、こういう時のために、<デジカメ>をポシェットに括り付けている。格子の間に、レンズの部分を入れて、写真を撮った。仁王様は、鮮やかな朱色で、きれいに塗装されていた。表情も、どことなく、アニメチックで、親しみやすい。

と、すぐ近くで、人の気配を感じた。カメラから目を離すと、山門の前に、本堂の方へ向かって、合掌しているおばさんがいる。なんとなく、へんな雰囲気だ。仁王様の格子にへばりついて、写真を撮っている不届きもの!自分への当てつけのように感じた。ま、これは、思い過ごしだろう。

山門を通り抜け、といっても、一間ほどしかないが、本堂の前に進んだ。<向殿>はなく、新設されたコンクリ階段が10段ほどあり、回廊の上にあがれる。鰐口と賽銭箱はあるが、ロウソク立てと香炉がない。なんとなく、すっきりしている。正面から、やや左によって、心経を読んだ。声は多少、大きめだ。周りの民家の人に聞こえたかもしない。

そのあと、天井に、これでもかと張り付けてある<千枚札>や、浮世絵もどきの奉納縁などを撮った。

ちなみに、この額の欄外に記された<秩父 宮側 三千女>は、<秩父の宮側三千女とは、秩父三十四観音霊場に奉納されている絵画のことです。特に「三千女」の銘が入った奉納額絵は、秩父の提灯屋のおかみさんである浅賀三千子さんが1988年から25年かけて描いたもので、三十四ヶ所すべてに奉納されています>と<AI>がこたえてくれた。

回廊の左端には、小さな台があり、その上に、四角い、ブリキの無塗装の菓子缶が、三つ置いてあった。二つは、比較的新しく、もう一つは、かなりの年代物で、さびている。見ると蓋に、<ろうそく入れ><お線香入れ><千枚札、その他>と、それぞれラベリングされている。なるほど、無住寺だから、火をつけないで、そのままお供えするわけか!

缶の蓋を開けて、携帯しているロウソクと線香を、それぞれ、中に収めた。ロウソクは、極小のものを一つ、お線香は三本ほどだが、意外にも、缶の中には、両方ともに、かなりの本数が入っていた。

もう一つの、錆びた缶は、開ける必要もなかったが、好奇心に負けて、ふたを開けた。お札の類が、たくさん入っていて、一番上にあったのは、写経した般若心経だ。すぐに後悔した。見ないでいいものを見てしまった!他人の、というか、人間の暗部だ。慌てて、ふたを閉めた。

ブリキ缶の、左側には、極端に大きい数珠が二本と、千羽鶴が一束、お堂の格子に括り付けられていた。これは、自然に目に入ってきたもので、とくに、弁慶が首から掛けているような、大きな木製の数珠が、おもしろかった。本来の大きさから、とんでもなく、かけ離れた大きさになると、つまり、極大や、極小なると、<物>が、本来の意味を失って、オブジェ化する。それが、なぜか、おもしろいのだ。

ところで、五番札所、語歌堂は無住寺だから、納経は、近くのお寺、長興寺でしてもらう。親切な案内看板が、いたるところにあるので、わかりやすい。歩いても、二、三分だ。車で行くこともない。とはいえ、歩きだす前に、観音堂と山門の全体像を、いま一度、しつこく撮った。

経験があまりないので、建物を、写真に撮るのは、かなり難しい。そのうえ、周りが民家だし、境内がすっきりしすぎているので、なおのこと、絵にならない。多少、粘ったが、すぐに諦めた。なんとなく、釈然としないので、そのかわりに、案内看板などを、記念写真としてカメラに収めた。

長興寺へと、南側の森の方へ歩き出した。観音堂から、少し離れて、あらためて、周囲を見回した。駐車場が、かなりたくさんある。大型バス用のレーンもある。ちょっとした観光地並みだ。

この古色蒼然とした札所に、観光客が来るのだろうか?その時は疑問だったが、あとで、来た道を戻った時に、その疑問が解けた。近くに、温浴施設や旅館などの看板がたくさんあった。札所巡りは名目で、温泉に入って、旅館に泊まり、目の前の食べきれないほどの料理に感嘆するのが、秩父観光の本当の目的だ。それは、昔も今も変わらないようだ。

五番札所の納経所、長興寺の門をくぐった。正面、やや右側に、社務所があり、納経所の文字が見えた。引き戸を開けて中に入った。左側の、少し高くなった部屋の中に、メガネの、愛想のないおばさんが座っていた。お願いします、といって、納経帳を差し出した。おばさんは、このお寺の奥様とは思えないが、一言も口を利かずに、納経帳にスタンプを押し、差し出した百円玉を二個、受け皿から受け取った。

<ご苦労様>の一言もなかった。それとも、ほとんどあり得ないことだが、こちらの耳が遠くて、聞き漏らしたのかもしれない。納経所なのだから、愛想はなくてもいいから、せめて、暗い雰囲気だけは、漂わせないでほしいと思った。

駐車場へ戻ろう。同じ道を戻るのも、芸がない。ぐるっと大回して、ぶらぶらいくと、正面に、ド~ンと、武甲山が見えた。手前の狭い田んぼでは、トラクターが動いている。晴天。初夏の香りだ。怒れる神のお山も、少し、やさしげに見えた。

9:30前には、語歌堂の駐車場に戻ってきた。持参したバナナとビスケットを食べて、一息入れた。白衣と輪袈裟は、そのままで、運転席に乗り込み、来た道を戻った。羊山公園の交差点を左折して、少し行くと、道が右カーブする。そこに信号機があり、山の方へと、今度は、左折する。ナビ画面によれば、六番札所、卜雲寺は、もう目と鼻の先だ。

坂を登って行くと、道が二又に分かれる。何を勘違いしたのか、七番札所、法長寺の看板を見て、その方角へ向かってしまった。寺の駐車場に入って、やっとその間違いに気づいて、Uターンした。

勘違いしたのには、多少理由があるようだ。卜雲寺は、名前も場所も、まったく記憶に残っていないが、法長寺の方は、その名前を見て、境内で公演した記憶が、かすかによみがえった。頭の中に見えていた懐かしい光景に、引き寄せられたようだ。

二又に戻り、右側の細い道を行くと、さらにまた、二又に分かれる。ナビの指示通り、右方向へ、少し坂を下り、また坂が上がる。左側に、六番札所の小さな案内看板が目に入った。だが、かなり狭い坂で、<軽>でしか登れないような感じだ。うかうかやり過ごしてしまうと、道はもっと狭くなり、山道へと通じている。

なんとか、回転する場所を見つけて、来た道を戻った。あの狭い坂の上に札所があるのだろう。ならば、付近に駐車場があるはずだ。目で探しながら行くと、先程の二又に出てしまった。Uターンもできず、ずるずると、目的の六番札所から離れていく。

とりあえず、これ以上、後退するわけにはいかない。場所を見つけて、また車を回転させた。そして、またまた、件の二又に来た。どうしようか?ハザードをつけて、道の真ん中に車を止めて、考えていた。

と、二又の左側の山道から、自転車に乗った、個性的で、粋な感じの三十代前後の女性が下りてきた。札所の場所を聞こうと、遠目ながら見ていると、車のすぐそばまで来て、止まってくれた。

遠目では、はじめ、自転車に乗った地元の人かなと思った。が、腕に、流行りのタトゥーをしていた。着ているものが、色鮮やかでおしゃれだ。それに、リックを背負っている。チャリで、札所巡りをしているのかもしれない。ちなみに、卜雲寺の境内には、<秩父札所 サイクル巡礼>の案内看板があった。

左側の窓ガラスを開けて、彼女の目を見て、札所の場所をたずねた。さばけた感じで、彼女は、間髪入れずに、教えてくれた。やはり、さきほどの狭い坂を上るらしい。しかも、その先に駐車場があるというのだ。言葉づかいもちゃんとしているし、ウソではないだろう。行ってみようとおもった。

さてと、<軽>でもギリギリだろうと思った坂道は、見た目よりは広くて、しかも直線だったから、なんなくクリアーした。だが、坂は、50メートル先で、直角に右に曲がる。これはと、緊張した。そのうえ、その先が、ちょっとの距離だが、さらに狭くなっている。とはいえ、ここまで来た以上、前に進むしかない。崖際には、ガードレールなどはないから、車をなるべく左側に寄せて、ゆっくり上った。

上り切ったさきは、たしかに、駐車場だった。だがしかし、猫の額ほどで、四、五台しか止められない。さいわい、ほかに車はない。回転して、出やすい位置に駐車した。

外に出た。場所的には、山の斜面だ。静かだ。鳥が鳴いている。しかも、南面には、武甲山が、まじかに見える。なるほどね~、お寺のロケーションとしては最高だ。
 
駐車場と境内は、地続きになっていた。が、直前に上った坂を、こんどは、自分の足で少し下った。山門から入って、正面の本堂にお参りするのが作法だ。しかし、その山門がない。石段を登れば、いきなり本堂の前だ。となれば、心経を読む場所がない。いや、場所など、どこにでもある。石段を登る前、石段の途中、石段を登り切ったところ、などなどだが、どれもみな、とってつけたようで、気が進まない。けっきょく、ここでは、心経は読まなかった。

石段を登って、境内に入った。目の前に、本堂がある。間口、七、八間ほどもある、横長の大きな建物だ。ただ、かさばった<向殿>はなく、簡素な張り出しの下に、鰐口、コンクリの台座の上に香炉、その左右に、木製の年代物の写経入れと、ステンレス製の札入れが置いてある。

縁側に、五、六段の木製の階段が、対になって、掛けられている。靴を脱いで上がれは、直接、本堂の中に入れるようになっている。なお、大きな賽銭箱は、本堂の扉の向こう側にあるので、チャリ~ン、とお賽銭を投げ込むわけにはいかない。これは、不届き者から、大切な喜捨を守るためだろう。

ふと、気まぐれで、お参りの前に、左側の、小さなお堂などを見て回った。南面の武甲山を、<南無観世音菩薩>の幟の文字を端に入れて、何枚も撮った。ベンチも、数脚あったが、立派な東屋がある。あとで、あそこで、数息をやろう。

そうこうしているうちに、お参りに来た爺さんが、本堂の前で、手に、経本を広げて、なにやら、ぶつぶつ言っている。よくは聞こえなかったが、最後の言葉だけは、はっきり聞こえた。心経の<咒>だった。

爺さんが、お参りを終えて、右手の、棟続きの納経所へと消えた。今度は、自分の番だ。本堂の前にも香炉はあるが、石段を上がった、すぐ左側に年代物の、鉄製の、屋根のついた、ちょっとした台がある。中が二段になっていて、その上の段に、手作り感のあるロウソク立てと、錆で、色が変色した香炉とが、仲良く並んでいる。

携帯している小さなロウソクに、ライターで火をつけた。お供えして、こんどは、そのロウソクの火で、お線香に、火をつけた。お線香は三本だ。いい匂いがした。

本堂の前に立って、合掌したまま、心経を読んだ。少し声を張った。静かな山あいだ。かなり響いている。納経所の中にいる人間にも聞こえたと思う。

それでいい。心経を<そら>で読める自分が、誇らしい。いやらしい煩悩だ!だが、唯一、衒いなく、人に誇れることであり、自慢できることなのだ。

納経所の引き戸は、開け放してあった。こんちわ~、と小さな声で、あいさつしながら、おずおずと中に入っていった。うす暗い室内で、目の前に座っていたのは、朴訥な感じのおじさんだ。この方は、明らかに、僧侶ではない。が、御朱印を書けるのだから、何らかの資格を持っているのかもしれない。

納経帳を差し出した。おじさんが、スタンプを押し終わるのを見計らって、二百円ですね、といいながら、百円玉を二個、受け皿に置いた。巡礼グッズなどが、ケースの中に多少あったので、ためしにと、<お札>はありますか?と聞いた。

おじさんは、申し訳なさそうに、置いてないんです、と答えた。一番札所にはありますか?とさらに聞くと、一瞬、困ったような顔をして、ちょっと把握してないんですが、と役場の職員のような言葉遣いになった。眼鏡の奥の目に、おじさんの律義さを感じた。

このあと、東屋へ行って<数息>を、100回ほどやった。始める前に、足元のあたりで、小さな、茶色いゴキブリのような虫が、ちょろちょろしていた。うっ!と一瞬思ったが、そのままにしておいた。

目をつぶり、数を数え始めると、どこからか、ウグイスの鳴き声が聞こえる。ほかにも何種類かの鳥たちが鳴いている。暑くも、寒くもない。静かだ。

締めの心経を読み終えて、目を開けると、同じ個体かは判断しかねるが、さっきの茶色い虫が、ひら~と目の前を横切って、自分の座っている脇に着地した。とたんに、あわただしい動き方をして、また、ひらりと、どこかへ飛んでいった。一度見たせいか、こんどは、嫌悪感はなかった。

東屋は、本来、人間の休憩する場所だ。だが、ここの東屋は、虫たちの休憩場所にもなっていたのだ。

立ち上がった。東屋をあとにした。最後に、もう一度、境内を見回し、本堂や武甲山などの写真を撮った。

駐車場に戻った。脇に、大きくはないが、しっかりした作りのトイレがある。尿意はないが、マーキングよろしく、中に入った。狭いが、きれいだ。臭いもない。納経所のおじさんが、掃除をしたのだろう。いま一度、清々しい気分になった。

白衣を脱いで、輪袈裟を首から外した。運転席に乗り込むと、目の前に、さっき上ってきた狭い坂道が見えた。心なし、広く見える。来た時の緊張感はない。だが、右側の、お寺の石垣に、めいっぱい車を寄せて、ゆっくり下りた。さあ、引き上げよう。

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